水底呼声 -suitei kosei-

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  1−7  

薄暗いリビングで,みゆは遅い夕食を食べていた.
もそもそとはしを口に運び,テレビの電源をつけようかと少しだけ迷う.
――この時間ならば,父も母も眠っているだろう.
テレビをつければ,起こしてしまうのかもしれない.
みゆがぼんやりと考えていると,がちゃりと玄関のドアが開く音がした.
どきりと,心臓が跳ねる.
静かな家の中では,ほんの少しの物音が大きく響く.
ドアを閉める音と,靴を脱ぐ音が続く.
リビングのドアのすりガラスに,背広姿の男性の影が映る.
父が帰ってきたのだ.
すでに帰宅していると思いこんでいたが,ちがったらしい.
会社の飲み会でもあったのだろうか,みゆが腕時計を見ると十時半過ぎだった.
ガラス越しの父の影はリビングには入らずに,廊下を歩いていく.
食事は外で済ませたから,リビングに用はないのだろう.
左手に茶わん,右手にはしを持ったままで,みゆは父の影を見送る.
そしていすから立ち上がり,テレビの電源を入れた.
リモコンで音量を小さく調整して,何かおもしろい番組はないかとチャンネルを回す.
テーブルに戻ると,冷めた食事が味気なく感じられた.

「ウィル,いい加減にしなさい.」
みゆは,できるだけ怒った顔をして,少年をしかった.
食堂のテーブルの上には,料理がのった皿とともに,カードが並べられている.
「ミユちゃんの番だよ.はい,カードを取って.」
ウィルが夕食の席に,カードゲームを持ちこんでいるのだ.
「君に勝つまで,絶対にやめないから.」
「行儀が悪いわよ!」
言ってから気づく,まるで母親のような説教だ.
みゆは視線を下げて,何か文句を言える材料を探してから毒づく.
「シチューが冷めちゃったじゃない.」
心の中でみゆは,いつも豪華な食事を用意してくれる料理長のバースに謝る.
彼は陽気で人懐っこい性格で,調理場に遊びに行くと,味見やつまみ食いをさせてくれるのだ.
ウィルがシチューの皿を,ちんと指で弾く.
冷めたはずのシチューから,湯気がたった.
「これも,魔法なの?」
まるで,人間電子レンジだ.
少年はくすくすと楽しげに笑って,肯定する.
「さ,続きをしよ.ミユちゃん.」
みゆはほおをふくらませて少年の顔をにらみ,その行為が子どもっぽいことを自覚しながらも,やめられなかった.

やみに沈む,王都の夜.
裏通りにある娼館の女主人は,自室で化粧を落としていた.
今日,予定していた客は来なかった.
鏡の中の自分の顔を,女はじっと見つめる.
いつも時間どおりに来るのに,あの子はどうしたのか.
髪を下ろし,寝支度を整えてから,彼女は立ち上がる.
とたんに,鏡の隅に少年の姿を見つけた.
「ウィル,来たの?」
遅れてきた客はにっこりとほほ笑んで,彼女のそばまでやって来る.
「ごめんなさい,エーヌさん.」
娼館に来るには,幼すぎる少年だった.
エーヌとは,親子ほどに年が離れている.
「今夜の約束を忘れていた.師匠に怒られちゃった.」
舌を出す少年に,エーヌは苦笑する.
「あなただけよ,ウィル.師匠の言いつけで娼婦を抱くお客様は.」
「そうなの?」
少年は目を丸くして,素直に驚いた.
ウィルが初めて娼館に来たのは,二か月前のことである.
少年は,エーヌのなじみの客であるカイルに連れられてやって来た.
そしてエーヌは,少年に女の抱き方を教えた.
少年を完璧な暗殺者に仕立てあげるために.
標的の色香に惑わされないように,十六歳の少年らしい恋に落ちないように.
子どもらしさや幸福から少年を遠ざけるのが,カイルに頼まれた仕事だった.
「ウィル,」
口づけを交わして,ベッドへ誘う.
少年はいつも,エーヌが教えた新しい遊びを楽しんでいた.
しかし今夜は,少年は何かを言いかけて,エーヌの体を押し返す.
まゆをしかめて,顔をそむけた.
「僕,城に帰る.」
背中を向けて,拒絶する.
声には,エーヌに対する嫌悪感が含まれていた.
「私を抱きたくないの?」
エーヌは少し驚いて問う.
「うん.」
正直に答えるので,エーヌは思わずほほ笑みが漏れてしまう.
少年はどれだけエーヌを抱いても,娼婦の体におぼれることはない.
「女を抱きたくないの?」
次は少し間が開いて,少年は「分からない.」と答えた.
「今夜はなぜ約束を忘れたの?」
エーヌは慎重に質問を重ねる.
今,ここにいるウィルは,今までのウィルではない.
「カイルの命令を忘れるなんて,初めてのことじゃない?」
小さな黒い背中が,かすかに揺れる.
少年の心が,初めて揺らいでいる.
「ミユちゃんと離れるのが,城を出るのが嫌だった.」
だから忘れたのかもしれない,と心細げにつぶやく.
みゆ,――聞き慣れない名前だが,きっと女性の名前だ.
「もう二度と,ここに来なくていいわ.」
エーヌは,ぴしゃりと言い放つ.
みゆのために,ウィルは娼館に来てはいけない.
「けれどカイルには,私と定期的に会っていると,うそをつきなさい.私もカイルに,そう言うわ.」
「なんで?」
少年は不思議そうな顔をして振り返る.
「私はあなたの変化を歓迎するけれど,カイルは歓迎しないから.」
何も分かっていない少年に,エーヌはえん然とほほ笑んだ.
「さようなら,坊や.あなたにもカイルにも理解できないでしょうけれど,」
少年の背中を押して,部屋から追い出す.
「私はあなたを,わが子のように想っているわ.」
「どういうこと?」
少年はとまどっている.
「その娘を大切にして,幸せになりなさい.」
気持ちのすべてをこめて,言う.
静かに扉を閉めて,「カイルに負けないで.」とささやいた.
誰が願わなくても,私だけはあなたの幸せを願っている.
だから少年に,女の抱き方だけではなく,愛し方も教えたのだ.

「幸せ?」
扉の前にたたずんで,ウィルはつぶやいた.
少年にはエーヌが言ったことも,自分が今,感じていることも分からない.
唐突に,エーヌが嫌になった.
彼女と体を合わせるのが,耐えられなくなった.
なぜ?
「まぁ,いいか.」
少年は頭を振って,考えることをやめた.
「さっさと帰ろう.」
王城の,みゆがいる部屋へ.
彼女の姿を思い浮かべるだけで,足が速くなる.
みゆはすでにベッドで眠っているだろうが,ならば起こせばいいだけのこと.
昨夜のように一晩中,そばにいよう.
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