水底呼声 -suitei kosei-

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  1−4  

城の一番高い塔の上,小さな見晴らし台で,
「すごい…….」
目の前に広がる景色に,みゆは素直に感動した.
「気に入った?」
少年がくすくすと笑いながら,たずねる.
青い空が視界一面に広がり,気持ちのよい風が吹く.
「ありがとう.」
振り返ると,少年が思った以上にそばに立っている.
みゆは,さりげなく離れた.
塔の上まで連れてきてくれて感謝はするが,距離が近すぎる.
眼下には,城下街の全景がある.
街は城を中心に同心円状に広がって,外側に向かうにつれて建物の数が少なくなる.
街を囲む壁はなく,開放的な印象を与える.
街路は細く,くねくねと曲がっている.
風にもてあそばれる長い髪を押さえて,みゆは好奇心のままに塀から身を乗り出した.
井戸のそばで立ち話をする女性たち,――まさに井戸端会議だ,そのまわりで遊ぶ子どもたち,大きな荷を乗せたロバを引く男.
髪の色はさまざまで,緑や紫という不思議な色もある.
だが,体は地球人と変わらない.
しっぽや羽が生えていたり,巨人だったり小人だったりするわけではない.
みゆは初めて,この世界を見た.
さすがにもう,映画のロケとは思えない.
右手の方には,山脈が見える.
少年いわく,そちらが北らしい.
北以外は,地平線を見渡すことができる.
真下を眺めると広場があり,屋台がいくつも軒を連ねている.
きっと市がたっているのだろう,さらに身を乗り出して見ると,
「落ちちゃうよ,ミユちゃん.」
いきなり背中に重みが加わり,みゆは「ぎゃぁ!」とさけんで塀にしがみついた.
「何をするのよ,ウィル?」
背中に乗ってきた少年は,楽しそうに笑い出す.
「大丈夫だよ,」
と言って,みゆを抱きしめる.
「君が落ちるときは,僕も一緒に落ちるから.」
甘い言葉でささやかれても,落とされそうになった恐怖は消えない.
どっと冷や汗をかいている.
「それのどこが,大丈夫なのよ.」
どうにか平常心を取り戻して,みゆは反論した.
そして少年の腕の中から抜け出す.
ウィルはいつもどおりの笑みを浮かべて,みゆを見ていた.
十六歳という年齢よりも子どもっぽく感じるのは,少年が自身のことを黒猫と称しているからだろうか.
実際にウィルは猫のように,気配なく近づいて驚かせる.
「私は本当に,九日後に地球へ帰れるの?」
言葉は引っかかることなく,するりと出てきた.
ここが地球と異なる世界と確信した今,一番気がかりなことだった.
確実に故郷へ帰れるのか,国王の言葉を信頼してもいいのか.
「帰らなくていいんじゃない?」
たいしたことではないように,ウィルは笑う.
「ミユちゃんはこの世界にいなよ,ここなら僕がいるし.」
そっとみゆのほおに触れて,
「僕とずっと一緒にいよ.」
人間を誘惑する小悪魔のように,ささやく.
みゆは何とも答えられずに,視線を落とした.
九日後に地球へ帰る.
十日間失踪していたみゆを,まわりはどのように迎えるだろうか.
どこにいたのか,何をしていたのか.
正直に答えて,信じてくれる人がいるだろうか.
おそらく,誰もいない.
いつの間にか,みゆは少年の腕の中に戻っていた.
――受験がつらくて,家出をしていた.
そんな風に、みゆは言うに決まっている.
そのときのまわりの反応も想像できた.
中傷する声,好奇の視線,はれものを触るような扱い.
「かやなら,こんな問題は起こさなかったのに.」
両親が嘆くため息の色さえも見えた.
目の前が真っ暗になり,ひとりでは立つこともおぼつかない.
今までがんばってきたことのすべてが,ただ一度の失踪で無駄になる.
日本に帰ったからといって,もとどおりに戻れるわけがない.
薄氷を踏むように慎重に,日常を積み上げてきたのに!
吹きさらしの見晴台に,強い風が吹く.
強い風に,この頼りない体は吹き飛ばされそうで怖くなる.
心地よい陽気なのに,体が冷えてくる.
すると,少年の腕が頼もしく抱きしめているように感じられた.
けれど,
「ごめんなさい,」
みゆは少年の胸を押して,距離を作る.
意識して,ほほ笑んで.
「私は地球に帰りたいの.」
この世界に留まって,どうするのか.
どうやって生きていく?
生活のあてなど,あるはずがない.
「そう.」
特に残念そうではなく,少年は笑みを深くした.
「次はどこへ行きたい? お城の一番高いところへ案内したから,次は一番低いところ?」
楽しそうに,けらけらと笑う.
「地下水路の中にでも,忍びこもうか?」
少年の瞳の黒はやみの入り口,みゆを誘いこむ.
「ウィル,城から出られないの?」
はっきりとした口調を作って,みゆは聞いた.
「僕は出られるけど,ミユちゃんは国王陛下の許可が必要だよ.」
やはり……,と思う.
なんとなくだが,監視されている,閉じこめられている気がするのだ.
「今からもらってくる.国王がどこにいるか,知っている?」
「陛下は今日と明日で視察に出ているから,城にはいないよ.」
ウィルは階段を降りて,手を差し伸べる.
「どこに視察に行っているの?」
そのまま少年は待っているので,みゆはそっと手を重ねた.
「それは秘密.」
にこっと笑顔を見せて,少年は手をぎゅっと握り返す.
「あさって,会いに行きなよ.今日はどうする?」
ぐるぐると回るらせん階段を降りながら,みゆは考える.
「……庭,城門のところまで連れていって.」
階段は頼りのないろうそくの明かりのみ,けれど少年の足取りはしっかりとしている.
「了解.」
黒い背中が,こともなげに答えた.
「私が逃げるかもしれないと思わないの?」
つないでいる手の暖かさにとまどいながら,
「思わないよ.僕が一緒にいるから.」
少年の言葉に苦笑すれば,少しだけ涙がにじんだ.

ふたりが消えた見晴らし台の上で,ひとつの影が立つ.
若草色の髪,こげ茶色の瞳をした,十五歳程度の少年だ.
地味な色合いの服を着て,腰には短剣を差している.
少年は困ったように,頭をぼりぼりとかいた.
「どうしよう,」
恋人たちの逢瀬をのぞき見している気分である.
「ウィル先輩,何を考えているのだろう.」
少年はふたりの後を追いかけるために,階段に足をかける.
いけにえの監視は四年前から少年の仕事だが,ここまでやりづらいのは初めてだ.
「スミ,」
唐突に声をかけられて,少年はびくっと震えた.
「カイル師匠,いたのですか?」
少年しかいないはずの見張り台に,初老の男が現れる.
魔術師カイル,スミの保護者であり上司でもある存在だ.
「鈍いぞ,スミ.ウィルはすぐに気づいたのに.」
「あー,すみません.」
ごまかすように少年は,はははと笑った.
「先輩はすごいですね.俺のこともちゃんと気づいているし.」
いけにえの女性を監視しながら,彼女のそばにいる黒猫に監視されている.

「お前が未熟なだけだ.」
「はぁ,すみません.」
やる気のないスミの受け答えに,カイルはしぶい顔をした.
「いけにえから目を離すな,それから,」
黒猫に気を付けろ,と言いかけてやめる.
「いいから,行け.気を抜くなよ.」
スミの手に負える人間ではない.
ウィルはこの世界で,もっとも特別な存在.
階段を駆けおりる少年の背中を見送りながら,カイルは苦い口もとを片手で隠した.
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