水底呼声 -suitei kosei-

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  1−3  

「食べないの?」
黒の少年は行儀悪く,いすにひざを立てて座っている.
「おいしいよ.これ,食べる?」
みゆの皿の上に,肉をパンではさんだものをのせる.
「ごめんなさい,朝は食欲なくて.」
かろうじて,みゆはほほ笑んでみせる.
少年は勝手に部屋に居座り,朝食をともにしているのだ.
給仕のためにそばに控えているツィムは,びくびくしながら少年の姿を眺めている.
「食べものがあるのに食べないなんて,」
ミルクしか飲まないみゆの前で,ウィルは成長期の子どもらしくよく食べた.
「だから,がりがりにやせているんだね.」
何が楽しいのか,にこにこと笑っている少年に対して,みゆはむっと眉根を寄せる.
確かに自分はやせすぎだが,余計なお世話だ.
「あ,ツィムちゃん,おかわりちょうだい.」
少年が声をかけると,ツィムはびくっと震え上がる.
「は,はい.ただ今,持ってまいります.」
弾かれたように部屋から飛び出していく.
なぜ,そんなにおびえているのだろう.
みゆは目の前の少年を,まじまじと観察した.
おびえる要素などない,ごく普通の少年に見える.
昨夜出会ったばかりなのに,変になれなれしい.
「ウィルは,……何歳?」
今度は自分の方が質問攻めにしてやろう.
みゆは心の中で,戦いのゴングを鳴らした.
「十六歳以上.」
ウィルの返答は,どことなく妙な感じがする.
「職業は? それとも学生?」
「黒猫だよ.」
まさか宅配サービスをするわけではあるまい,みゆは質問を続けた.
「どんな仕事なの?」
「国王陛下のご命令を実行するの.」
「具体的には,どんな命令?」
テーブルの上に,身を乗り出してたずねる.
「たとえば,昨日の夜は,」
「ウィル!」
少年の言葉を打ち消して,男の怒声が響き渡る.
「お前は何をやっているのだ.」
乱暴に開けられた内開きの扉が,壁にぶつかって跳ね返る.
怒りをあらわにした初老の男が,部屋の中へずかずかと入ってきた.
「朝ごはんを食べている.」
少年は涼しい顔で,口をもぐもぐさせながら答える.
「そんなことを聞いているのじゃない!」
男はかっとどなった後で,みゆの視線に気づいて,気まずそうに目をそらした.
彼はウィルと同じく黒一色の衣装で,黒いマントをはおっている.
「とにかく,こちらへ来い.話がある.」
ウィルの父親か祖父だろうか?
顔が似ているとは感じないが.
「まだ食べているのに.」
少年は文句を言いながらも,立ち上がった.
男はしぶい顔をして,ウィルがやってくるのを待っている.
みゆは,男が召喚の際に国王のそばにいたのを思い出す.
彼は魔法を使って,みゆを呼び寄せた男だ.
――私の名前はカイル,王国の魔術師だ.
冷めた目をした男だと感じた.
ほかの男たちが皆,何らかの表情を浮かべているのに対して,カイルだけはまったくの無表情だった.
彼はみゆに対し,ここは異世界の王国と淡々と説明をした.
「じゃ,またね.ミユちゃん.」
少年は手をひらひらと振りながら,カイルの後をついて部屋から出て行った.

「なぜ,九日後に殺す相手と一緒にいる?」
カイルは廊下へ出て,きっちりと扉を閉めてから再び大声を上げた.
「師匠ってば,そんな大きな声を出していいの?」
黒の少年は,楽しそうにけらけらと笑う.
「大切ないけにえちゃんに聞こえちゃうよ.」
閉ざされた扉に視線をやり,ウィルは口もとに笑みをはためかせた.
「監視役から聞いた.昨夜,いけにえと接触したらしいな.」
カイルは少年の笑い声には呼応せずに,じろりとにらみつける.
「そして今朝はみずから会いに,――お前は何を考えている?」
廊下を歩きながら,深いため息を吐く.
ウィルは,カイル自身が育てた子どもだ.
次代の黒猫となるべく,人間らしい感情を排除させた.
「大丈夫だよ,カイル師匠.」
少年はにこにこと笑いながら,カイルの隣を歩く.
「九日間を待たずに殺すことはしないから.」
心配の方向を間違えている少年に,カイルはしばし絶句した.
「今すぐ殺せって命令が,一番楽なんだけどね.」
天気の話でもするように,少年はぼやく.
「十日間も待たないといけないなんて,面倒な儀式だね.」
さきほどまで一緒に食事を取っていた相手を殺すことに,ウィルはまったくためらいを感じていない.
人として,異常な感覚だ.
しかし,こうなるように育てたのはカイルだ.
だから,
「あぁ,面倒な儀式だ.」
これでいいのだ,と重々しくうなずく.
この子どもは,こうなるようにしなくてはならない.
少年を育てること,それがカイルの仕事だ.
「殺すときまで,いけにえには近づくな.」
きっちりと,養い子に言い渡す.
「監視は黒猫の仕事ではないはずだ.」
「監視じゃないよ.ミユちゃんのことが気に入ったから,そばにいるの.」
「……はぁ?」
たっぷり三歩以上歩いてから,カイルは聞き返した.
今,何と言った?
「十日間,ずっとそばにいて,僕の顔を見ながら死んでもらうつもり.」
朝食のメニューを注文するような気軽さで,少年は笑う.
「何を言って,」
「用はそれだけ? 師匠.」
少年は少し首をかしげて,あどけないしぐさでたずねる.
カイルが答えないと,
「ミユちゃんのところへ戻るね.」
と言って,もと来た道を引き返した.
歯車が狂う,いや,すでに狂いだしている.
悪い予感が,カイルの胸をよぎった.

「ここはどこなの?」
「……王国です.」
「王国ならば,何という名前の王国なの?」
「それは,私のような下賎の者には分からないことです.」
しおしおと顔をうつむかせるツィムに,みゆはため息を吐きたくなるのをこらえる.
王国の名前も,場所も,みゆが召喚された理由も,少女は知らないの一点張りだ.
いや,実際に知らないのだろう.
少女の顔には困惑だけが広がっている.
「あの,……そろそろ退出させていただいても,よろしいでしょうか?」
泣き出しそうな顔で請われると,もはや少女から情報を得る手立てはない.
「えぇ,もちろん.質問ばかりして,ごめんなさい.」
「いいえ.」
ツィムはテーブルの上の朝食を片づけると,逃げるように部屋から出て行った.
少女の姿が完全に消えてから,みゆははぁとため息を吐く.
結局,何ひとつ,知りたいことは分からなかった.
ここはいったい,どこなのだろう.
ただ,夢の中ではないことだけは確実だ.
夢にしては肉体感覚がはっきりしている.
ほおをたたけば痛いし,昨夜風呂に入っていないために,髪がかゆい.
しかし,この王国はどこか現実感がなかった.
意図的に目隠しをされて,手を引かれて歩かされているような不気味さがある.
みゆには,自分の置かれている状況がつかめなかった.
ここは異世界ですと言うが,本当だろうか.
昨日は異常な体験をしたために素直に信じたが,ここは異世界ではなく,巨大な映画のセットの中という可能性もある.
りゅうちょうに日本語をしゃべる外国人もどきが大勢いるのが,不自然きわまりないが.
今ごろ,日本ではどうなっているのか.
みゆは昨夜,家に帰っていない.
そして今日,予備校に登校していない.
みゆは日本で行方不明になってしまったのだ.
胃がきりきりと痛みだす.
親や,予備校の教師やクラスメイトたちは今,どう思っているだろうか.
みゆは夏期講習の帰り道に,ふいにさらわれたのだ.
当然,誰にも連絡していないし,さらわれた瞬間を目撃した人もいるのかどうか.
他人ばかり大勢いる駅のホームから,ひとりの人間がいなくなっても誰も気づかない.
みゆはポケットの中から,携帯電話を取り出す.
昨日と同じく,電波は入っていない.
バッテリーも明日かあさってには切れるだろう.
「ミユちゃん.」
唐突に真後ろから声をかけられて,みゆはどきっとした.
「怖い顔をしてどうしたの?」
そのまま腕の中へ引き寄せられる.
笑顔しか見せない少年,ウィルだった.
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