宇宙空間で君とドライブを

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  7−1  

 翌々日の金曜日、朝乃は洗面台の鏡の前で、念入りに自分の長い髪をとかした。上の方の髪だけ取って、後ろでひとつにくくる。残りの髪は、背中に流した。横一直線のパッツン前髪はかっこ悪いが、自分で切った髪なので仕方がない。
 次に朝乃は、服装をチェックした。上はシンプルなデザインのピンク色のスウェットで、下はスリムジーンズだ。ワンポイントでおしりのポケットに刺しゅうが入っている。
(よし、かわいい)
 鏡の中で、朝乃は満足げに笑った。今日は十一時半にドルーアの家に行って、彼のために昼食を作るのだ。その後はふたりでランチを食べる。デートというわけではないが、デートのようなものかもしれない。
 朝乃はうきうきとバスルームから出て、三階の自室へ戻った。今から約束の時間まで、机で英語の勉強をするつもりなのだ。朝乃は突然、英語が下手になった。昨日、翠となじみのパン屋へ行くと、店員の言葉が聞きとれなかったのだ。
「――――. What ――― today?」
「え?」
 朝乃は動揺し、まともに会話できなかった。幸いにして翠がフォローして、買いものは無事に済んだが。なぜ急に英語が分からなくなったのか。最近、語学に関しては油断して、勉強をさぼっていたのかもしれない。
 朝乃は落ちこみ、より熱心に勉学に励むようになった。階段を上って、自室に入る。机に向かうと、机の上に置いたタブレットコンピュータの画面に文章が映っていた。
――ドルーア・コリントから着信がありました。一通のメールが届いています。
 何だろう? 朝乃は首をかしげた。タブレットに呼びかける。
「おはよう、かぐや」
 昨日、朝乃のタブレットは、功から「かぐや」という名前をもらった。かぐや姫のかぐやだ。さらに二十一世紀の日本の、月面探査のための月周回衛星の名前も「かぐや」だったらしい。
「名前がある方が便利だし、愛着がわくだろう。実はコンピュータに名前をつけるのは、ドルーアのまねなんだ」
 功は笑う。まるで友だちか相棒のように、スプーキーと呼びかけるドルーアがかっこよくて、まねしたらしい。そんなわけで、朝乃もまねすることになった。
「声紋を認証しました。おはようございます、朝乃」
 かぐやが電子音声で答える。音声も名前に合うように、成人女性のものに変更された。功は芸が細かい。
「本日、午前十時十一分に、ドルーア・コリントから着信がありました。また同じくドルーア・コリントから、一通のメールが届いています」
「ありがとう。メッセージを映して」
 かぐやは画面に、メールの本文を出す。なんとなく、かぐやは優しいお姉さんに思える。功のもくろみどおり、妙な愛着がわいてしまった。
――おはよう、朝乃。事情は後で話すが、家から出ないでほしい。僕は十一時ごろに、君の家に行く。僕が来るまで待ってほしい。翠にも今から、予定が変わったと電話する。昼食は君の家で、翠と君と僕で食べよう。
 朝乃はまゆをひそめた。家から出るなということは、何か危険なことが起きたのだ。何があったのか分からない。ただメールの文面から、そこまでシリアスなことではないと感じとれる。
 けれどそれのせいで、今日のデートは中止になった。朝乃はしょんぼりする。勉強する気もなくなったので、自室を出て階段を降りる。一階のリビングに着くと、翠がソファーに座り、テレビを観ていた。彼女は朝乃に気づいて話しかける。
「朝乃ちゃん。ついさっき、ドルーアから電話があったの」
「はい。私の方にもメールが届いていました」
 朝乃は答える。
「そっか。で、これが例の記者会見。ライブ中継よ。場所は、月面都市イーストサイドのホテルみたい」
 翠は、テレビの方を指さす。例の記者会見とは何だろう? 朝乃は翠の隣に座り、テレビに視線をやった。画面には、朝乃の母親くらいの年齢の白人女性が映っている。テロップで、Kertesz Claraと書かれている。朝乃には読めないが、おそらく女性の名前だろう。
「彼女がケルテース・クララ。慈悲のクララと呼ばれる、Aランクの超能力者よ」
 翠が説明する。朝乃はクララについて、名前くらいしか知らない。あとは、月側の優秀な兵士としか。クララの顔は、初めて見たのかもしれない。どこにでもいるような、普通のおばさんだった。
「彼女は昨日、南極にある月面都市ラ・ルーナから、北極のイーストサイドに亡命してきた。つまりラ・ルーナ宇宙軍から逃げてきた」
 朝乃は驚いて、テレビに映るクララの顔を見た。これは大ニュースだ。先月のリゼ・スタンリーといい、有名超能力者の軍からの脱走が続いている。ニュースにはなっていないが、裕也も超能力者で脱走兵だ。
 そしてラ・ルーナは、朝乃の管理局裏手の誘拐未遂事件にも関わっている。朝乃にとって、無関係な場所ではない。
「クララはこの会見の最初らへんで、裕也君の名前を出したらしいの。村越裕也の協力で、中立都市のイーストサイドまで家族全員で移動できた。裕也は、長距離の瞬間移動ができるすごい超能力者だ、と」
 朝乃はまたびっくりして、今度は翠に目をやる。裕也がクララの亡命に力を貸したのだ。裕也がいれば、移動など簡単だろう。再度、テレビを観ると、クララは記者たちとしゃべっている。だが早口の英語なので、うまく聞きとれない。
「はい。今、―――イーストサイド――――リゼ・スタンリー―――、―――――――。――――――――、――――――」
 クララの隣には、彼女の夫らしい男性が座っている。クララと彼は、たがいに励ますように見つめ合い、うなずきあった。
「私たちはできるだけはやく会い、――――つもりです」
 英語が分からなくて、朝乃はじれた。さきにイーストサイドに亡命しているリゼと会い、仲間になりたいみたいなことを言っているのだと思うが、自信がない。しかし、ふと思いつく。
「翠さん、テレビに日本語字幕をつけてもいいですか?」
 コンピュータに翻訳させればいい。多少、変な日本語になるが、支障はないだろう。
「もちろん。――ケプラー、日本語訳をテレビに映して」
 翠は言う。コンピュータのケプラーが、承知しましたと答えた。テレビ画面下部に、日本語の文章が出る。
「この会見で、裕也君の名前は一気に認知された。ただ朝乃ちゃんの名前は出ていないし、あなたが浮舟に住んでいることもクララは話していない。でもマスコミは、情報収集のプロ」
 翠は真剣な顔で、朝乃を見た。
「もう今ごろ、この家の周囲には記者たちがいるかもしれない。裕也君の姉のあなたに、いろいろ聞くために。さすがに大勢いるとは思わないけれど、ひとりかふたりはいるかもしれない」
 朝乃は弱った。おそわれたりさらわれたりするのとは、またちがった困りごとだ。
「マスコミはうまく、あしらわないといけない。だからドルーアは、あなたに家から出ないように連絡した。私にも、できるだけ外出するなと言ってきたわ」
 ドルーアは、朝乃がマスコミに捕まることを恐れたのだ。朝乃も、記者たちに上手にしゃべれる自信はない。しどろもどろになるだろう。
「分かりました。家から出ないようにします」
 朝乃は決意した。マスコミには会いたくない。翠はうなずく。
「そうね。今日は外に出るのはやめましょう。けれど、ずっと家にこもりきりは無理。マスコミを避け続けることは難しい。マスコミ対策はドルーアが来てから、相談しましょう」
 彼女の言うことはもっともだった。
「はい」
 ドルーアは芸能人だ。マスコミへの対応は慣れているだろう。テレビ画面の中では、クララがまじめな顔で話している。今度は字幕の助けもあって、だいぶ聞きとれた。クララは強い調子で言う。
「Sランク、Aランク、Bランクの超能力者たち、――世界で百人ほどしかいませんが、彼らは戦場に出るべきではありません。たとえ本人の希望であっても」
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