宇宙空間で君とドライブを

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  番外編「前日譚――引っ越しの日」  

 翠がキッチンからリビングに戻ると、ソファーではドルーアが横になって眠っていた。テーブルの上には、飲みかけのビールと空になった平皿とフォーク。彼はソーセージを全部食べた後で、寝たのだろう。
 ドルーアは功より、ちょっとだけ背が低い。しかし、ソファーで寝るのはきゅうくつそうだ。こうやってまじまじと見ると、ドルーアは足が長い。うらやましいかぎりだ。
 翠がドルーアを眺めていると、功が階段から降りてきた。手にはブランケットを二枚、持っている。
「ドルーアは疲れて眠ったみたいだ」
 彼は少し困ったように笑う。
「このまま明日の朝まで寝かせようと思うが、構わないか?」
「もちろん」
 翠はうなずいた。功はブランケットをドルーアにかけてやる。翠は腕時計で時刻を確認した。もう夜の十時すぎだ。翠と功もパジャマに着替えて、さっさと寝るべきだろう。今日は疲れている。おなかの中には赤ちゃんもいる。無理は禁物だ。
 翠と功は今日、この家に引っ越してきた。引っ越し作業はほとんど業者に頼んだが、それでも雑務が多かった。さらに翠は身重でもある。引っ越しは、やはり大変だった。
 そんな翠たちを、ドルーアは朝から手伝ってくれた。大スターの登場に、引っ越し業者のスタッフたちは大騒ぎした。ドルーアは適度にファンサービスをしつつ、引っ越しをスムーズに進めてくれた。
 働きづめになる翠に休憩を勧めたり、昼食も夕食もケータリングを手配してくれたりした。業者が仕事を終えて家から出ていった後も、ドルーアは力仕事を手伝った。
「今日のドルーアには感謝しかない。眠ってじゃまとは思わない」
 翠は笑った。彼のおかげで、だいぶ家が片付いた。キッチンでは簡単な調理ができるようになり、夜食としてソーセージをフライパンで焼いたのだ。
「そうだな」
 功は同意する。
「引っ越しの荷物が片付いたら、もっとちゃんとお礼をしよう。何か考えておかないと」
 彼の提案に、翠はうなずいた。夕食に招待するなり、ドルーアの好きそうなワインを贈るなりしたい。もしくは、翠たちの前の家で、ドルーアが「これは最高だ!」とはしゃいでいたコタツでもプレゼントしようか。
 ドルーアとは、二年前に知り合った。彼は、翠たちが浮舟にやってきて初めてできた友人で、さらに一番の友だちでもある。まったく接点のない三人なのに、意外に付き合いは途切れない。多分、気が合うのだろう。
 翠たちがドルーアの家の近所に引っ越したことで、三人の付き合いはより親密になると思われた。たがいの家を行き来し、ひんぱんに会うことになるだろう。それを、翠も功も楽しみにしている。
「しかし、だらしない寝相だなぁ。業者のスタッフたちがいたときは、かっこつけていたのに」
 功はうれしそうに笑った。翠も、彼の気持ちが分かってほほ笑む。今日のドルーアは、よそいきの顔をしていた。引っ越し業者のスタッフたちの前で、芸能人らしくふるまっていた。普段、翠たちといるときは、ドルーアはただのひとりの青年だ。
 芸能人としてのドルーアと、友人としてのドルーア。このふたつのちがいを説明するのは難しい。どっちもちょっとお調子者だし、ナンパな言動をする。情けない姿をわざと見せたりもする。サインをくれと言ったら、簡単に書いてくれる。
 けれど、やはりこのふたつはちがう。そのちがいを、翠たちは今日、感じた。ドルーアは、功と翠を信頼している。翠たちの前ではリラックスしている。だから今、よだれでもたらしそうな顔で眠っているのだ。
 翠たちはドルーアのファンではなく、友人だ。その事実が、功と翠を喜ばせる。またドルーアの方でも、自分をスター扱いしない翠たちに喜んでいるようだった。
「困ったわね」
 翠は、困っていないくせに、そう言った。
「私もあなたも、ドルーアにメロメロじゃない」
 功はずっこける。
「メロメロって……」
 情けなさそうに笑った。翠は、大きなおなかを軽くたたく。
「この子も絶対に、ドルーアが大好きになるわ」
 医師によると、子どもは女の子の可能性が高いらしい。こうなると、嫌な予感しかしない。
「娘は渡さん」
 夫は存外に真剣な顔になり、腰に手を当てた。翠は、ぷっとふき出す。
「私たちの子どもが年ごろになる前に、ドルーアはジャニスと結婚するわよ」
 翠は友人として、ドルーアの幸せを願っている。実は、彼は結婚願望が強い。功が気づいているかどうか疑問だが、ドルーアはひそかに翠と功をうらやましがっている。
 今、翠が妊娠しているから、余計だろう。ドルーアは子どもが好きだ。案外、面倒見のいいお兄ちゃんだ。彼は、人生のパートナーと愛すべき子どもを欲している。意外に、さびしがり屋な部分もあるのだ。
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