宇宙空間で君とドライブを

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  番外編「My Home」  

 朝乃と翠はフードコートで、ドライフルーツとチョコレートを軽くつまんだ。それからショッピングカートを押して、食料品売り場へ行く。
 売り場は広く、いろいろな野菜や調味料が売っている。しかし鶏肉や牛肉、卵や牛乳やヨーグルトなどがびっくりするほどに高い。そして魚は売っていなかった。
「月面の人たちは、魚を食べないのですか?」
 朝乃は翠にたずねる。日本のスーパーには、魚も貝も海草もある。ただし深刻な海洋汚染のため、魚介類の過度な摂取は禁止されている。
「月には海や川がないから、魚を食べる習慣はないみたい。魚介類は専門店にしか置いてなくて、普通のスーパーでは見かけないわ」
 地球からの輸入魚もあるが、月面で飼育した完全養殖魚もあるという。
「どちらも値段が高くて、魚料理は嗜好品か珍品って感じ」
 朝乃は考えた。これでは魚も豚も鶏も、肉がほとんど食べられない。
「月面では、栄養バランスが悪くなりませんか?」
 朝乃はまだしも、裕也は耐えられないだろう。
「そうね。月に来てから、私と功は豆を多く取るようにしている。それでもビタミン不足とかが心配。ドルーアはサプリメントを飲んでいるらしい」
 翠はまじめな顔で朝乃を見る。
「あなたにもサプリメントが必要かもしれない。まだ成長期だもの。それに月面では日光浴ができない。だからこれも、サプリメントなどで補っている人たちもいる。サプリメントについては、おいおい考えていきましょう」
「はい。ありがとうございます」
 朝乃は礼を述べたが、内心ではとまどっていた。翠は朝乃以上に、朝乃の体を大切にしている。買物を終えると、朝乃と翠は帰宅した。
 洗濯機の使い方など家のことを翠から教わっていると、宅配業者がドルーアの机といすを持ってきた。机といすには見覚えがある。ドルーアの家の地下室にあったものだ。机といすは、三階の朝乃の部屋に運ばれた。
 業者が去った後で、翠は満足げに朝乃の部屋を見まわす。
「机、ベッド、棚がそろった。後は洋だんす、……壁時計、鏡台かな」
「いえ、結構ですから」
 朝乃は、あわててしゃべった。今でさえ、立派すぎるマイルームだ。翠は少し残念そうに笑う。
「分かった。また後で相談しましょ。でもこれで、勉強する環境は整った。本当に留学生みたい」
 彼女は、はしゃぎだす。
「そうだ! いいものがあるの。ちょっと待っていて」
 何か思いついたらしく、階段を降りていった。翠の姿が消えると、朝乃はあらためてドルーアの机を見る。
 机にはキーボードがついている。机の天板の右下にあるボタンを押すと、三次元映像が天板の上に現れた。Welcome! とカラフルな文字が浮き出ている。机には、コンピュータと接続する端子もある。多分、スピーカーやマイクもついているだろう。
 机は古く、ちょっとした汚れや傷が多い。朝乃がいすに座ると、机もいすも大きすぎた。おそらくこれがドルーアのサイズだ。彼が使っていた机と、朝乃は実感した。妙にはずかしくなって、もじもじする。その後で、ため息をついた。
(こんなものが部屋にあったら、ドルーアさんのことが忘れられない)
 昨日、朝乃は、ドルーアには本気で想う女性がいると知った。いや、うすうす気づいていたことを、翠に突きつけられた。
 朝乃は泣きたくなった。翠もそれを察して、朝乃をひとりにしてくれた。けれど涙は出てこなかった。朝乃とドルーアは出会ったばかりで、泣けるほど想いは深くなかった。
 なのに朝乃はまだ、彼が好きだった。ドルーアからプレゼントされたバラの鉢植えも、部屋に置いたままだった。
 無理に、ドルーアをあきらめる必要はないのではないか。心の中で、彼を想っておくだけでいい。誰にも迷惑はかけないはずだ。ドルーアがジャニスとラブソングを歌っても結婚しても、朝乃には関係ない。
(ただ胸が痛むだけで、私がつらいだけで……)
 朝乃はずどんと落ちこんだ。その後で気を取り直して、ドルーアの机を見る。まず、いすの高さを自分に合うように調整しよう。いすの下に回りこみ、レバーに手をやる。机の天板の裏に、落書きを発見した。誰かの秘密を見てしまったみたいに、胸がどきんと鳴る。
 ――Oct. 22, 2211
 Oct.はオクトーバーで十月だ。だからこれは、十月二十二日で2211年。地球と月が開戦した日だ。多分、ドルーアが書いたのだろう。なぜ開戦日を、机の裏に隠すように書いたのか分からないが。
 開戦したとき、朝乃は九才の子どもで、よく分からないうちに戦争は始まった。両親には何か考えがあったようだが、あまり覚えていない。そして、すぐに父母が死亡し孤児院に入り、目の前のことだけに追われていた。
 しかしドルーアは、二十才前後の若者だった。今の朝乃より年上だ。だからきっとドルーアは、朝乃とはちがうことを感じた。彼にとって開戦は、どんな意味があったのか。
 考えこんでいるうちに、翠が階段をのぼる音が聞こえてきた。朝乃は立ち上がる。机の落書きについては、いつかドルーアに聞いてみよう。翠はご機嫌な笑顔で、部屋に戻ってきた。
「少し古いけれど、私と功が使っていた学習ソフト」
 彼女は黒色のスティック、――おそらく学習ソフトの入った小型コンピュータだろう、を机に刺す。パソコンのOSが立ち上がり、自動的に学習ソフトが起動する。明るい音楽が流れ、オープニングムービーが始まった。
「Hello! How are you? Let 's enjoy English!」
 英語の文章とともに、どこかの都市の風景が映し出される。
「私は、講師の結衣・フォーチュンです。私と一緒に、日常英会話を学びましょう」
 三次元映像の中から、ひとりの女性が朝乃に笑いかける。朝乃は驚いて、翠を見た。英語を勉強したいという朝乃の気持ちに、彼女は気づいていたのだ。
「このソフトはあげる。でも勉強をあせらなくていい。朝乃ちゃんは今日、ちゃんと英語をしゃべれていたから」
 翠は、朝乃をはげますように笑う。朝乃はありがたさで、胸がいっぱいになった。サプリメントも部屋も、英語の勉強も近所づきあいも、翠は気にかけてくれる。息をするように自然に、朝乃を守っている。お母さんのような存在、家族なのだ。
「ありがとうございます」
 朝乃は涙ぐみそうになって、さっとうつむいた。翠と功の役に立ちたいと強く思う。お世話になるだけではなく、彼らを助けたい。そうすればきっと、ここが朝乃の家になる。
 朝乃は顔を上げて笑う。翠は、いつも明るい笑顔でいてくれる。それこそが彼女の思いやりなのだ。
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