リオノスの翼　―少女とモフオンの物語―

　　２−２　　

シフォンとともに医療小屋へ行くと，一匹のリオノスがいた．
リオノスは瞳に気づくと，甘えた声でくぅーんと鳴く．
緑色の目が，病院は嫌だよと訴えていた．
昨日ガトーたちが保護した，片足にけがをしたリオノスだ．
体つきや毛つやから，大人になったばかりのメスと分かる．
「なでてくれ，瞳！」
窓際の机から，白衣を着たガトーが声をかけた．
彼は白髪の老人で，集落では最年長だ．
瞳はリオノスのそばにひざをついて，首のあたりをなでる．
するとリオノスは顔を向けて，はやく山に帰りたいとくんくん鳴いた．
ところがガトーが近づくと警戒して，ぐるるとうなりだす．
「なんと恩知らずなリオノス．」
彼は大げさに嘆いた．
「けがの治療をした私に，感謝するどころか怒っている．」
奥の部屋からショコラが出てきて，くすくすと笑う．
彼女は看護師であり，ガトーの妻でもある．
シフォンも笑い声を立てた．
「先生が嫌われているのではなく，瞳が特別なのですよ．」
瞳は半分が人間で，半分はリオノスだと言う．
「今朝なんて，若いオスに求愛されたのですから．」
「シフォンさん！」
瞳が止めるのを聞かず，シフォンは川辺での話を教えた．
ガトーたちは笑うと思いきや，神妙な顔つきになる．
「瞳．」
まじめな調子で，ガトーは言う．
「そろそろ集落で暮らさないか？」
「集落で，ですか？」
彼はうなずいた．
「リオノスの巣穴ではなく，人間の家で眠らないか？」
瞳は答えられない．
シフォンの言うとおり，今の瞳はリオノスでも人間でもない．
昼間は集落にいるが，朝と夜はリオノスのサラにべったりとくっついている．
こんな中途半端な生活は，長く続かない．
それは分かっていた．
そしてガトーやシフォンたちが，瞳を人間社会になじませようとしていることにも気づいている．
サラが彼らに協力していることも．
けれどまだ，瞳はサラに甘えたかった．
特に，怖い夢をみる夜は……．
するとガトーは，優しく目を細めた．
「あせることはないか．君の心が決まるまで，私たちは待つよ．」
ショコラも，いたわるような顔をしている．
「ありがとうございます．」
瞳は心から礼を述べた．
ガトーたちには，感謝しきれないほどに世話になっている．
集落にいる人たちはみんな，瞳の親代わりだった．
そのとき，こんこんと扉がノックされる．
「先生，本が届きましたよ．」
木こりのビターが入ってきた．
彼は三十代後半で，集落ではシフォンの次に若い．
「あぁ，分かった．」
「はい．」
ガトーとシフォンが，同時に返事をした．
ビターは苦笑する．
「若い方の先生です．」
ガトーは首をすくめた．
「私は老いた方の先生か．」
ショコラが楽しげに笑う．
「六十八才は若いとは言えないわね．」
シフォンはビターについて，小屋から出ようとした．
しかし扉のところで振り返る．
「瞳，ついてきてくれ．新しい本を入れるついでに本棚の整理をするから，手伝ってほしい．」
「はい．」
瞳は立ち上がったが，
「あー，待ってくれ．」
ガトーが呼び止める．
「彼女には頼みたい用事がある．いいかな，シフォン？」
彼は，もちろんですと快諾した．
「じゃ，後でね，瞳．」
と言って，ビターとともに小屋から出て行く．
「用事って何ですか？」
瞳はたずねた．
用事とはたいてい，病気のリオノスをなでてくれとか，シーツを洗濯小屋まで持っていってくれとか，炊飯小屋までお菓子を取ってきてくれとか，ささいなものだ．
ガトーは，にこりとほほ笑む．
「先ほどの続きなのだが．」
「はい．」
夜も集落で過ごさないかという話だ．
「君さえよければ，シフォンとともに集落で暮らさないか？」
言われている意味が分からなかった．
「つまりだな，」
ガトーはこほんと，せき払いをする．
「彼と結婚してくれないか？」
「結婚！？」
瞳の声は裏返る．
ショコラが，くすくすと笑い出した．
いや，彼女は常に，にこにこしているのだが．
「駄目よ，ガトー．こういうことは口を挟まない方がうまくいくのよ．」
「だがな，ショコラ．」
彼は言い返した．
「そう思ってずっと黙っていたが，まったく進展しないじゃないか．」
瞳は口をぱくぱくさせる．
進展とは何ごとだ．
シフォンは，父親か兄のような存在だ．
母子家庭の瞳にとって，理想と言っていい．
優しく，頼もしく，自分を守ってくれる．
だから恋愛の対象ではないのだが，顔に熱が上がって，なかなか収まらない．
ガトーとショコラは，同じ顔を並べて笑う．
「いい傾向だな．」
「いい傾向ね．」
何がですか？　と聞きたいが，今は赤い顔を隠す方が大事だ．
「私，シフォンさんの小屋へ行きます．」
声がうわずっているし，足もとがふわふわしている．
「そうだね．いってらっしゃい．」
ガトーたちに見送られて，瞳は小屋から出て行った．