アラビアンナイトの一の夜

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  中編  

 水を打ったように、食堂は静まりかえった。次に、ひそひそ声が聞こえてくる。
「何、あの女?」
「バカじゃないの?」
 しかし、千夜子には勝算があった。蓮の部下になってまだ二か月程度だが、彼は女性に恥をかかせないと分かっている。衆目のあるところで、彼が千夜子を振ることはない。蓮ならばきっと、ひととおりことが済んだ後で、人目のない場所で交際を断る。
 案の定、彼はにたりと笑って、
「いいよ。さっそく今夜、デートしよう」
 どよっと、ざわめきが起きた。
「私の恋人として、私に嫌がらせをする女性たちに報復してください」
 魔法のランプを手に入れたアラジンのように、千夜子は強気になった。
「嫌がらせ犯のうちの三人は、名前が判明しています」
 実際にいじめに関わっている者は、もっといる。だが、メインで動いているのは、この三人だ。廊下でわざとぶつかってきたり、女子トイレで千夜子を囲んで、会社を辞めろと要求したりした。
橋上優子はしうえゆうこ澤田葵さわだあおい河内真奈美かわうちまなみです」
 痛いほどの沈黙が、食堂を支配する。調理場で料理する音や、レジで会計する音さえ止まった。蓮はぽかんとしていたが、やがておもしろそうに笑い出す。
「なるほど、君は嫌がらせを受けているのか」
「あなたのそばにいるせいで、嫉妬されているのです」
 新商品のプレゼンテーションのように、胸を張って堂々と発言する。
「橋上優子、澤田葵、河内真奈美です。篠原課長のことが好きで、たまらないそうです」
 わざわざ二回も言った千夜子に、蓮はくっくっくと笑った。食堂のギャラリーからも、
「澤田って人事の……」
「橋上さん、……ほら、受付の、……美人なのに」
 くすくすと笑いがもれる。しばらくすると、蓮は首をすくめた。
「気がすんだか?」
「はい」
 もしも優子たち三人が食堂にいれば、面目丸つぶれだ。しかも想い人である蓮に、自分たちの悪事が伝わった。これからさき、彼に近づくことはできない。
 そして、もしも彼女たちが食堂にいなくても、もはやもの笑いの種だ。当分の間ばつが悪くて、会社にまともに来れない。
 蓮は唐突に、千夜子を抱きしめた。周囲から、ブーイングや歓声が上がる。
「自分の復讐に、私を利用したな」
 低い声でささやく。
「申し訳ございません」
 千夜子は震えた。ランプの精、もといシンドバッド船長が怒っていらっしゃる。かんにん袋の緒が切れたとは言え、だいそれたことをしてしまった。
「私を巻きこんだツケは、体で払ってもらうぞ」
 千夜子は蓮から離れて、顔を上げた。
「課長は、私のうわさをご存じないのですか?」
「知っている。処女を抱くのは楽しみだ」
 おそらく彼は、やけどのあとはたいしたものではないと考えている。なので、千夜子が服を脱いだとたんに、気を変えるにちがいない。大学時代の恋人は、「肌のことは気にしない」と約束しておきながら逃げていった。つまり、蓮とホテルの部屋に入っても、襲われる心配はない。
 安心した千夜子は、蓮と楽しく食堂で昼食を取った。彼は完全に悪乗りをしていて、
「実は君のことが、先月から気になっていた」
「私のために、バージンを取っておいてくれてありがとう」
 などと、しゃべった。加えて、千夜子から下の名前を聞き出すと、わざとらしく何度も"千夜子"と呼び捨てにする。
 何という性格の悪さだ。彼は、部下の千夜子をいじめた女性たちに腹を立て、報復をしているのだ。この男は敵に回したくないと、千夜子はカレーライスを食べながら思った。
 そして仕事が終われば、ふたりでホテルへ行った。一緒に帰る千夜子と蓮を、大勢の人が目撃している。ここまで見せつけられたら、千夜子に嫌がらせをした女性たちは、さぞかし悔しいだろう。
 千夜子は蓮とともにホテルの一室に入り、服を脱いだ。ところが、その後の展開は予想外だった。
 彼は千夜子を組みしいて、大きな手で愛撫しながら、ガウンや下着をはぎとる。千夜子は遠慮しつつも、シンドバッドの体に触れた。最初は左腕に、次は白いシャツの中の胸――素肌をなでる。
 彼はにんまりと笑って、千夜子の胸の先端を口に含む。彼の舌で、千夜子の体はびくりと跳ね上がった。すべてが未知の体験だった。声を上げるのを我慢していると、
「声を出せ」
 蓮が、千夜子の唇を指でなぞる。千夜子は、ほおが赤くなるのが分かった。こんな状態になっても、あえぎ声を発するのはためらわれた。恥ずかしいし、プライドが邪魔をする。
「刺激が足りないのか?」
 彼は、千夜子の太ももに手を滑らせる。千夜子は思わず手を出して、彼の手を止めた。
「今さら抵抗するな」
 いらいらした調子で、蓮がとがめる。いつも余裕のある彼が、そんな風に機嫌が悪くなるのは初めてだ。千夜子の体から、くたりと力が抜けた。
 蓮は、千夜子の秘部に触れる。我慢できるわけがない、彼の指に反応して声がもれる。
「そう。いい子だ」
 彼は満足げに笑う。
「もっと高いところへ連れていってやる」
 空飛ぶ魔法のじゅうたんで。彼は、最高の運転手だった。蓮の腕の中で、千夜子はどんどんと高みにのぼっていく。
 そのうちに、彼がこちらの表情をしっかりと見ていることに気づいた。千夜子の踊るリズムに合わせて、彼は動いている。蓮のエスコートで、千夜子は初めて絶頂を経験した。
「千夜子、足を開け」
 彼は避妊具をつけた後で、命じた。千夜子は恥じらいつつも、素直に従う。もうすっかりと彼を信頼し、体をゆだねていた。恋人ではない男に純潔をささげることになるが、まったく後悔していない。むしろ子どもみたいに、わくわくしていた。
 が、彼を受け入れてすぐに、想像以上の痛みに絶叫した。「やめてください、お願いします」と口走りそうになる。痛みのあまり顔をしかめている千夜子に、蓮がまゆをひそめる。優しい彼のことだからやめてくれると、千夜子は期待した。
 けれど彼は苦しげな表情をして、体を押し進める。千夜子の目から涙があふれる。彼は千夜子の体を、ぐいっとつらぬいた。圧迫感に、千夜子は意識が飛んだ。蓮は息を吐いてから、
「大丈夫。これで終わりだ」
 ゆっくりと引き抜く。しかし千夜子はそのときも痛くて、ひいひいと泣いた。自分が情けなかった。抱いてくれと頼んだくせに、こんなみっともない姿をさらすとは。
 蓮は避妊具を外すと、千夜子を抱きしめて、よしよしと背中をなでた。
 千夜子は処女だが、二十九才ともなると、ある程度は耳年増になる。彼は、気持ちよくなっていない。本当は千夜子が彼をいかさないといけないのに、できなかった。体にやけどのあとがあっても、そういうことはできただろうに。
 蓮にとっては、おもしろくないセックスだったはずだ。なのに彼は今、千夜子を労わっている。やはり彼は、とても気づかいがうまい。
 課の雰囲気がいいのが証拠だ。蓮の部下は、千夜子と雅美を除くと、全員が彼よりも年上である。彼は、年下の上司という難しい立場でありながら、部下たちから支持されているのだ。
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