アラビアンナイトの一の夜

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  前編  

 千夜子ちやこは、いさぎよく服を脱ぎ始めた。ベージュのジャケットを脱ぎ、ひとりがけのソファーに適当に置く。次に、白のブラウスのボタンをひとつずつ外していく。
 シティホテルのベッドに腰かけている男は、にやにやと笑いながら千夜子を見ている。グレイのスーツを着た、なかなかにハンサムな男性だ。年は、三十六だったか三十七だったか。彼は、千夜子の勤める会社の、代表取締役社長の息子のうちのひとりだ。
 男の視線を受けつつ、千夜子はタイトのスカートを脱いで、ストッキングも脱ぎ捨てた。肌着も脱いで、ブラジャーとショーツのみになる。
 御曹司を見ると、彼はまだ愉快そうに笑っている。千夜子は驚く。自分の肌を見て表情を変えなかったのは、彼だけだ。
「さすがですね、課長」
 コネがあるとは言え、この若さで管理職をやっているだけのことはある。
「なぜほめられるのか分からない。私は、君の度胸に賛辞を贈りたいね」
 千夜子は、胸から下腹部の肌をなでた。そこは茶色になっている。普段は服に隠れているが、とても目立つものだった。まちがっても、セパレートの水着など着られない。
「子どものときの、やけどのあとです。これを見ても、顔色ひとつ変えないなんてすごいです」
 誰もが気まずそうに目をそらすか、同情に満ちた目で見つめる。大学生のときに付き合っていた恋人は、千夜子の肌を見るや否や去っていった。
 千夜子はベッドに近づき、ベッドの上のガウンを取って、さっとはおる。そして彼――篠原蓮しのはられんの隣に腰かけた。
「私は、君の社内でのうわさを知っている。なぜ驚く必要がある」
「けれど実際に見ると、またひどいでしょうに」
 千夜子のうわさは有名だ。千夜子自身の耳にも入っている。彼女は男に見せられないひどい体をしている、一生処女で、絶対に結婚できないと。
「じゃあ、やろうか」
 蓮は立ち上がり、背広を脱いで、ネクタイを外した。
「私の体を見ても、欲情できるのですか?」
 千夜子はびっくりした。それからベッドから立ち上がり、床に落ちた背広を拾おうとする。
「もちろん。で、君は何をしている?」
 蓮が、千夜子の手首をつかまえる。
「ハンガーにかけた方がいいです」
「私がやる」
 彼は千夜子の両肩を抱いて、ベッドに座らせた。クローゼットを開けて背広をつるし、ついでに千夜子のジャケットもつるす。
 ベッドに戻ってくると、ズボンのベルトを外し、シャツのボタンも外していく。彼は、あくまでやる気らしい。
「私が、どんな男にも相手にされないかわいそうな女だから、同情で抱くのですか?」
「ちがう。ただの性欲だ。目の前で脱がれて、興奮しないわけがない」
 蓮の返答は、すとんと千夜子の心に収まった。うれしかったのだ。
「なら、お願いします」
 ボタンを外し終わった蓮は、千夜子に顔を向ける。
「君は初めてだろう? 純潔を大切にしなくていいのか?」
 表情から、彼が心配していることが読み取れた。
「私はもう二十九才です。それに課長は、上手で慣れているでしょう?」
 今はたまたま独り身だが、多くの女性と付き合った経験があるにちがいない。ちなみに千夜子は最初、彼は既婚者だと考えていた。
「私は、あなたに抱かれたいです」
 ほかの男ならば、けっしてホテルの部屋に一緒に入らない。
「当然ですが、避妊は確実にやってください。あと、できるだけ痛くないようにしてください」
「痛くないようには、無理だな」
 彼は千夜子を、ゆっくりと押し倒した。
「我慢しろ。君の固い殻は、私がやぶってやる」
 真剣なまなざしに、ぞくりとした。ガウンの中に、男の手が入ってくる。千夜子の胸をもみ、ブラジャーを外そうとする。怖い、と感じた。だが、すぐに気持ちよくなっていく。
 千夜子は熱い吐息を漏らして、彼の瞳を見つめる。まるで恋人同士のように、唇が合わさった。今日の午前中には、こんなことになるとは思わなかった。

 やけどのあとのせいで、千夜子はものごころつくころからいじめられっ子だった。人は、自分よりも弱い者や劣った者に敏感だ。隠されている傷をたやすく発見し、あばきたてて攻撃する。
 なので千夜子にとって、陰湿ないじめはもはや日常だった。それは、いわゆる"いい大学"や"いい会社"に入っても、変わらなかった。よって、ブスだの根暗だの聞き慣れている。
 ただ、母のために、変な名前という悪口には反論していた。千夜子の名前は、母の好きな千夜一夜物語アラビアンナイトからとられているのだ。
 ところで、今年の四月の人事異動から、そのいじめが激しくなっていた。加えて、いつものいじめと雰囲気がちがう。いったい、どうしたのか? 千夜子は首をかしげ、五月のゴールデンウィークが明けてから気づいた。
 新しい上司の蓮が、原因だ。彼は大層、女性に人気がある。従業員数が一万を超える上場企業――有名な化粧品会社の御曹司だからだ。常に人の悪そうな笑みを浮かべているが、実際はとても親切だ。
 たとえば、四月に千夜子は、
多田たださんって、本当にブスですねぇ」
 と、別の課の男性に面と向かって言われた。彼は自称正直者で、思ったことはすべて口に出すらしい。千夜子は無表情を保ち、彼を相手にしなかった。
 そもそも会議室で、商品企画部内のミーティングが始まる直前である。千夜子は隣の席の彼と会話するよりも、配布された資料に目を通すことに意義を感じていた。が、
「多田さん、ちょっとこちらを向いてくれないか?」
 少し離れた席から、蓮が声をかけた。
「はい、何でしょうか」
 彼はにやりと笑う。千夜子は分からずに、笑みを返した。
「そんな失礼な男に、君の笑顔を見せる必要はない」
 すると、蓮の隣に座っていた八木雅美やぎまさみが、あははと笑った。
「クールな多田さんが私たちにだけ笑ってくれるって、いいわねぇ!」
 赤ちゃんが入っている大きなおなかをなでて、明るくしゃべる。
「クールですか?」
 千夜子は驚いた。
「そうよぉ。あなたはほとんど笑わないから、私は嫌われていると思っていた」
「笑顔は、会話の潤滑油だぞ」
 蓮は、にたにたと笑う。
「従って私は、絶え間なくにこにこと笑っている」
「課長の場合、悪いことをたくらんでいそうですよね」
 雅美のつっこみに、思わず千夜子はふき出した。千夜子にとって、四月の人事異動は当たりだった。課の雰囲気は明るくて、楽しいのだ。
 たとえるなら蓮はシンドバッド船長で、千夜子は、六人いる船員のうちのひとりだ。蓮の指揮する船は、多少の嵐ではびくともしない。
 けれど、社内でのいじめがひどくなっていく。そして六月に入った金曜日の今日、昼休みに更衣室に戻ると、千夜子のロッカーのかぎが壊されていた。
 床のすのこの上に、カバンとカバンに入っていた折りたたみ傘や家のかぎや替えのストッキングなどがぶちまけられている。さらに、社員販売で買った口紅とファンデーションは、折られたり中身を捨てられたりしていた。
 千夜子は驚きのあまり、立ちすくんだ。ぼう然としてから、ぼーっとしている場合ではないと、無理やりに頭を働かせる。
 ポケットティッシュや文庫本などを拾いながら、盗まれたものはないか確認した。財布やスマートフォンなどの貴重品は、制服のポケットに入れて身につけていた。しかしカバンをあさられて、恐怖や不快感を覚えないわけがない。
 千夜子はスマートフォンを使って、庶務課の同期にメールで事情を説明した。ロッカーの修繕を依頼してから、ぶち切れた。
「そんなにも、篠原課長のそばにいるのがうらやましいのね」
 いじめを行っているのは、千夜子が確認できたかぎり、全員千夜子と同世代の未婚女性だ。彼女たちはきっと、蓮が好きなのだ。ならば、千夜子に嫌がらせをするよりも、彼に言い寄ればいいのに。彼女たちには、広範囲に渡るやけどのあとなんかないだろうに。
 千夜子は、ロッカーにつるしてある私服をたたんで、カバンに入れる。かぎが直るまで、ロッカーは使えないだろう。なので、パンパンにふくらんだカバンと心を持って、廊下を早足で戻る。
 目指すのは、蓮の机だ。彼はたいてい、タブレット型コンピュータで読書しながら、サンドウィッチやパンを食べている。
「事情は後で説明します。どうか私と一緒に、社員食堂へ行ってください」
 千夜子は蓮の前に立つと、がばりと頭を下げた。顔を上げると、蓮は食べかけのアンパンを持ったままで、目を丸くしている。彼と同じく、机で弁当を食べていた原田桃子はらだももこも驚いていた。
 この課は、シニア向け商品を扱っているからなのか、社員たちも年配者が多い。桃子も四十代であり、三児の母親でもある。彼女は、尋常な様子ではない千夜子を心配していた。
 一方の蓮は楽しげな顔をして、残りのアンパンを二口で食べる。ペットボトルのお茶を飲んでから、
「部下を大事にするのが、私のモットーのうちのひとつだ」
 彼は千夜子とともにエレベータに乗って、自社ビルの最上階にある食堂まで足を運んでくれた。
 この食堂は、テレビで紹介されたこともあるほどに、立派なものだ。壁は全面がガラスで、窓際の席では都心部の眺望が楽しめる。値段が手ごろなので、大勢の社員が利用し、いつも混雑している。
 普段は食堂に来ない御曹司に、若い女性たちの注目が集まった。千夜子はそれを確認してから、食堂の入り口付近で、
「篠原蓮さん。私を、あなたの恋人にしてください」
 大きな声ではっきりと言った。
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