アラビアンナイトの一の夜

戻る | 目次

  後編  

 千夜子は涙を止めると、
「泣いて申し訳ありません。今日は、お付き合いいただきありがとうございました」
 汗ばった体を、彼から離した。
「家に帰ります」
 体がだるい。夕食を取っていないために、空腹でふらふらだ。電車で帰ることも可能だが、ホテルのフロントでタクシーを呼んでもらって帰ろう。
 千夜子はベッドから降りて、床に落ちたガウンを拾ってはおった。さらに、ブラジャーとショーツを拾っていると、
「このまま君を帰せば、『篠原課長にやり逃げされました』と食堂で叫ばれそうだ」
 同じようにガウンで身を包んだ蓮が、ベッドに座って上機嫌で笑っている。
「そんなことはしません」
 千夜子はあきれた。
「腹が減っているだろう? ルームサービスで夜食を取らないか?」
「ありがとうございます。ですが、どうぞお気づかいなく」
 ソファーに置いてある服を取って、服を着るためにバスルームへ向かう。「開け、ゴマ!」で開いた洞くつの扉は、今、閉ざされた。アリババではない千夜子は、財宝を手に入れることができない。
 ところが千夜子の腕を、蓮がつかむ。振り返ると、
「帰る必要はない。明日は会社が休みだ」
 彼が真剣な調子で訴える。
「実は君のことが、四月から気になっていた」
 千夜子は驚き、四月からのことを思い起こした。千夜子は、営業部から商品企画部へ異動した。そして五月から産休に入る雅美から、仕事の引きつぎを受けていた。
 千夜子と雅美では性格や価値観がだいぶちがい、二人の関係は最初はうまくいかなかった。また、妊娠中だから仕方ないのかもしれないが、彼女はいらいらすることが多かった。
 しかしトラブルが起きそうになると、すかさず蓮が間に入った。もしくは、ほかの人を差し向けた。おかげで、引きつぎは順調に進んだ。
 雅美は彼に、ものすごく感謝をして、
「篠原課長は、上司としても男としても最高よ」
 とほめたたえた。さらに、彼は独身で恋人がいないと鼻息を荒くした。
「結婚を考えていた女性がいたけど、去年の年末に別れたそうよ。よって今はチャンスよ!」
 千夜子は、彼女の興奮ぶりに引いた。そんなに蓮に夢中になって、雅美の夫は怒らないのかと心配になった。そして千夜子と雅美に対する蓮の態度は、上司以外の何物でもなかった。
「ウソですね」
 千夜子は断言する。
「ばれたか」
 蓮は、にっと笑う。
「しかし真実は、ウソよりもウソみたいなものだ」
 彼は、ベッドに座れとうながした。千夜子は服や下着をソファーに置いて、隣に腰かける。
「社員食堂での君の度胸のよさにほれた。あと、性格が悪いのもいいな」
 彼はくつくつと笑った。
「周囲からの好奇に満ちた視線を浴びながら、平然とカレーを食べるし。この女は味方に引き入れたいと思った」
 千夜子は、片手で頭をかかえた。これは、ほめられているのか?
「私のプレゼンテーションは以上だ。次は、君が正直な気持ちを打ち明けてくれ」
 余裕のある蓮の態度に、千夜子は首をかしげる。もしかして初めからずっと、彼の手のひらの上で踊っているのではないか。
「あなたとのセックスは最高でした。それでは、さようなら」
 千夜子はベッドから立ち上がった。
「八木さんが産休に入る前に、私に耳打ちした」
 背後から抱きつかれて、悲鳴を上げる。
「多田さんは篠原課長を好いている。けれどやけどのあとを気にして、固い殻の中に閉じこもっている」
 耳の近くでささやかれて、ぞわぞわする。
「課長には恋人はいないと教えて、のみ会では隣の席にしたのに、ぜんぜん動かない」
 が、話の内容に意識をかたむけた。
 千夜子は四月、雅美とともに行動していた。なので彼女が、千夜子の恋心に気づいてもおかしくない。そして確かに、四月末に行われた商品企画部の親睦会では、
「私は妊婦だから、のめないんですよ。そもそも上司のお酌をするのは、新人の仕事よね」
 と雅美はしゃべって、千夜子を蓮の隣に座らせた。ただ実際には、蓮が酒をつげと要求することはなかったが。
「八木さんのかんちがいです。課長もうぬぼれないでください」
 千夜子は虚勢を張った。
「そりゃ、うぬぼれるさ。めったに笑わない君が、私の前では笑ってくれる」
 男の手が、胸をまさぐる。千夜子の口から、甘い声がもれた。もはや体中に、そして心にも彼の指紋がついている。
「『私はあなたに抱かれたいです』とまで言われて、気づかないと思うか?」
 千夜子を守っていたガウンが奪われる。
「八木さんから君の気持ちを聞いてから、君をひそかに観察していた」
 裸になった千夜子は、服とウソを求めて逃げた。
「だが口説くつもりはなかった。君が食堂で、あんな大胆なことをするまでは」
 蓮が捕まえる。
「ホテルの部屋に入れば、いきなり服を脱ぎだすし」
 千夜子を強引に、ベッドに押し倒した。
「しかも、抱けるものなら抱いてみろ、みたいな顔をして」
 真正面から組みしいて、彼はにやにやと笑う。
「おかげで順番が逆になってしまった。君が挑発したせいで、私たちの関係は体から始まった」
 追いつめられた千夜子は、蓮をにらんだ。
「離してください」
「嫌だ。君の純潔を散らした責任を取らせろ」
 彼は、千夜子の鼻にかみつく。
「何をするのですか!?」
 千夜子は怒った。
「おせっかいな妊婦の置き土産が、こんな結末になるとは」
 どこ吹く風といった様子の蓮に、千夜子はため息を吐いた。
「なぜ八木さんは、あなたにそのようなことを伝えたのですか?」
 いったい何の嫌がらせだ。千夜子は彼女に嫌われているのか?
「八木さんは君を好ましく思っているのさ。だから課長はすばらしい男性だと宣伝して、君の背中を押した」
「彼女は不倫をしたいのかと疑っていました」
 蓮は爆笑する。
「まさに、のれんに腕押しだな!」
 結果として、雅美は千夜子の殻をやぶることができなかった。なので産休に入る前に、いちかばちか蓮をつついたと言う。
「さぁ、『愛しています』と白状しろ。でないと今から、二回目をやるぞ」
「やめてください」
 千夜子は抵抗したが、首すじに唇をはわされて、どんどんと力がなくなっていく。
 もう観念した方がいいのかもしれない。何のために、意地を張っているか分からない。彼に気に入ってもらえたなら、それでいいではないか。
 千夜子は覚悟を決めて、
「篠原蓮さん。――いいえ、キャプテン・シンドバッド」
 彼が顔を寄せてきたので、にこりと笑みを作る。
「私を、あなたの恋人にしてください」
 中世から語りつがれる物語の住民に。
「やっと殻から出てきたな」
 蓮は、にやりと笑う。
「今後、私以外の男に笑いかけないでくれ」
「承知しました」
 普段、ほとんど笑わない千夜子には簡単なことだ。営業の仕事をしていたときも、あまり愛想笑いをしなかった。
「今のは冗談だ。そんなことはしなくていい」
 千夜子のやけどのあとをなでて、蓮は楽しげに笑う。
「『私にだけ笑う君』よりも、『誰にでもよく笑う君』の方が魅力的だ」
 胸に触りそうになって、なぜか離れた。
「あぁ、でも、君の悪口を言うような失礼なやつらに、笑顔を見せる必要はないぞ」
 千夜子の上半身を起こして、しっかりとガウンを着せる。
「二回目をしないのですか?」
 少し拍子抜けして、千夜子はたずねた。実は、結構やる気だった。なんせ、蓮をいかすことができていないのだから。
「二回目はまた明日、三回目はまたあさってだ」
 彼は、千夜子の頭をなでた。
「そうやって千と一夜愛し合い、真実の愛を手に入れるのが千夜一夜物語アラビアンナイトだろう?」
 千夜子は意表をつかれた。
「私の名前の由来も、八木さんから聞いたのですか?」
「そうだ。彼女は、君のランプの精だ。君の願いをかなえてくれた」
 蓮は、にたにたと笑う。
「ちゃんと礼を言っておけよ。ちなみに出産祝いは、ベビー服がお勧めだ」
 千夜子は、心の中だけでくすりと笑った。
 彼はウソつきだ。千夜子は名前の由来を、雅美も含めて社内の人間には話していない。カンのいい彼は、自分で気づいたのだろう。食堂で名前を聞いたときに感づいたのか、さっきのキャプテン・シンドバッドで察したのか。
 けれど、雅美から得た情報にした。実際に、彼女がこっそりと種をまいていたから、千夜子は蓮と両想いになれたのだが。そして千夜子の体に負担をかけないために二回目をしないのに、こんなロマンチックなストーリーにするとは。
 千夜子は手を伸ばして、彼のほおに触れた。
「あなたのそういう優しいところが、私は好きです」
 わざわざ笑みを作らなくていい。心から、自然に笑えた。
「四月にあなたがかばってくれたときからずっと、あなたを愛しています」
 聞き慣れていても、面と向かって「本当にブスですねぇ」と言われて傷つかないわけがない。無表情を保ち、心にバリアを張っていた千夜子に、蓮は不敵に笑いかけてきた。
 彼は目をぱちぱちさせてから、あっはっはと笑う。
「なんという不意うちだ。君がいとしくてたまらない」
 千夜子の腕を取り体を引き寄せて、深い口づけを贈った。
戻る | 目次
Copyright (c) 2013 Mayuri Senyoshi All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-