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OXFORD 夢見る尖塔の街

大阪外国語大学に助手として採用されてから数年後、文部省の在外研究員としてオックスフォード大学で勉強する機会に恵まれました。オックスフォードでの経験は、ヨーロッパの学問の重厚さを体感させるものでした。オックスフォードでは、20世紀の自由主義思想研究の第一人者、マイケル・フリーデン先生や、グラッドストーンの伝記で有名なH.C.G.マシュー先生、ベバリッジの伝記を書いたジョゼ・ハリス先生、そして新自由主義の研究の先駆者であるケンブリッジのピーター・クラーク先生に接して、イギリスの歴史研究の重みを痛感しました。以下は、帰国してから書いたエッセイと、最近書いたオックスフォードの街の成り立ちについてのエッセイです。 


            夢見る尖塔の街


         
オックスフォードは、ロンドンのパディンドン駅からインター・シティと呼ばれる急行列車に乗って西に40分程のところにある。羊がのどかに食を喰む,緑豊かな牧場に囲まれ威風堂々たる歴史的建造物が静かに並ぶ、イギリスでも一、二を争う美しい街である。名前の示すとおり、オックスフォードはテムズの上流にあたるアイシス(Isis)が、ちょうど牛が渡れる浅瀬になった川辺に位置している。                     

 
ケンブリッジのカレッジ群の庭(Backs)が、キャム川(Cam)の辺りにあってその清らかな流れを造園のポイントにしているように、オックスフォードでも、クライスト・チャーチ・カレッジ(Christ Church College)の広々としたメドウや、モードリン・カレッジ(Magdalene College)の端正なタワーは、このアイシスに遊ぶ白鳥や、川辺の木々の梢を景色にたくみにとりいれて設計されている。


 よく知られているように、才ックスフォードは伝統的なカレッジ・システムをとる、ヨーロッパでも数少ない大学の一つである。大学はいわばカレッジ連合体であり、35にのぼるカレッジの建物は、街のそこかしこに散らばっている。13世紀に創設されたマートン・カレッジ(Merton College)の静かなチャペルや、ベイリオル・カレッジ(Baliol College)の堂々とした石壁、トリニィティ・カレッジ(Trinity College)のさわやかな庭や、ニュー・カレッジ(New College)のあでやかな花壇は、ボドリアン図書館(Bodleian Library)、シェルドニアン・シアター(Sheldonian Theatre講堂)、各ファカルティ(学部)のセンターや研究所、古色蒼然とした本屋などと軒を連ね、歴史を刻んだどっしりとしたオックスフォードの街並を形造っている。


 カレッジは文字通り、教員と学生の大学における生活の拠点である。教員の研究室はもちろんカレッジの中にあり、学生も第一学年の間は.原則としてカレッジに住まねばならない。開架の図書を並べた各カレッジのライブラリーは、学生のための基本的図書を収め、タームの間、学生と教員は美しく飾られたカレッジのホールで、ラテン語の祈りをささげたあと、日毎食卓をともにする。カレッジの中で教員と原則として一対一で行なわれるチュートリアル(Tutorial)は極めて厳しく、タームの間は毎週報告を課せられる学生で、巨大なボドリアン図書館のリーデング・ルームも、あふれんばかりになる。ここで文字通り、早朝から深夜まで身動き一つしないで勉強に没頭する学生の姿には、まさしく大学の名にふさわしい厳粛な真理探究への熱気を感じずにはいられない。


 このホドリアン・ライブラリーは、イギリスに六つあるコピーライト・ライブラリーの一つで、イギリスで出版される本は原則としてすべてここに収蔵されている。いかめしい17世紀の建物の地下には、何階にもおよぶ広大な書庫が掘られて、雑誌類を別として400万冊に及ぶ本がここに眠っている。ブリティッシュ・ライブラリーにつぐ蔵書数を誇る世界屈指のこのボドリァン図書館と、そのわきにあるラドクリフ・カメラ(Radcliffe Camera)なる美しい分館、そして空高く錐える尖塔をもつセント・メァリーズ・チャーチに囲まれた一画(ラドクリフ・スクェァー)は、何百年来、寸分違わぬ静けさと荘厳さを保っている。


 荘大なこうした建造物に囲まれた庭に腰をおろせば、土地貴族のエリート教育の頂点として君臨し、何世紀にもわたって大英帝国を支えてきたオックスフォードの伝統の重みがひしひしと身に迫ってこよう。ヨーロッパ文化は石造りの文化であり、築きあげられたものが牢固として崩れない文化である、とよく言われる。オックスフオードを訪れる人は誰しも、このことを改めて感ぜずにはいられまい。チャールズ1世が王党派の本拠を置いたその同じ建物で、今日もドンと呼ばれる教員は、黒いガウンをまとって無駄のない整然とした講義をし、学生は一心にペンを走らせている。


 薄っぺらで新奇なものをあわただしく追いかけるのが「文化」であるかのようになってしまったこの国とは違って、こうして横み上げられた歴史と伝統へのイギリス人の誇りは、まことに根強い。特に「自由の祖国」であることの自負は、今日なお実に強烈である。日本の「成功」の裏側にひそむ「異常」な労使関係がテレビで取りぎたされた時、隣に住む年金生活者のドリスさんはきっぱりと「ああすればお金はもうかるだろうけど、私は自由を選ぶわ」と言った。興味深いことに、その年金を削ったサッチャー首相も、これと全く同じ論理で、失業のない東側を攻撃していた。

現代のイギリスは確かにいろいろな問題に苦しんできた。にもかかわらず、北アイルランドを別とすれば、イギリスの警官が今だに普段何の武器も身につけていない、という事実を忘れてはならない。話せばわかるはずだ、という、同意による秩序の形成に対するこのゆるがぬ信念こそ、おそらくイギリスにあのどっしりとした安定感を与えているのではなかろうか。


大学街・オックスフォード

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オックスフォードは、ロンドンから80キロあまり北西のアイシス川の畔にある。オックスフォードとは、牛の渡る浅瀬の意味。ちなみにケンブリッジは、ケム側にかかる橋という意味である。このテムズ川の支流の川辺に、大学の基礎が作られたのは、はるか12世紀のことである。パリ大学が外国人を追放した時、イギリスに帰ってきた教師や学生がこの地に大学を創った。やがてユニバーシテイ・カレッジ、マートン・カレッジ、ベイリオル・カレッジを皮切りに、学生が寄宿するカレッジ(学寮)が建設され、独特の大学街が形成されていった。

日本やアメリカの大学と違って、オックスフォードには、大学のキャンパスがない。街のあちこちにカレッジや学部の建物が散在している。レストランやパブの隣にカレッジがひしめきあい、裏どおりには学部のセンターが建つ。大学街というよりも、街自体が大学だ、というほうが近い。講義は、イグザミネーション・スクールとよばれるハイ・ストリートに面した美しい建物の他、あちこちに散らばるカレッジや学部のセンターで行われる。学生は、自転車で街を走り抜け、レクチャー・シアターに駆けつけねばならない。講義の間に休憩すらおかれていないから、文字通り街を疾駆して講義室に飛び込む光景も珍しくない。

これはケンブリッジやダラムなどと並んで、オックスフォードが、今なお残る古いカレッジ制の大学であるためだ。実はオックスフォード大学というのは、厳密には一つの学校ではない。オックスフォードは、39のカレッジと7つのパーマネント・プラィヴェート・ホールとよばれる独立した教育施設の連合体なのである。教員と学生は、原則としてカレッジないしパーマネント・プラィヴェート・ホールに属する。カレッジは、学寮という邦訳のとおり、教員・学生に食事と宿舎を提供し、古いカレッジでは、いまだに食事の度にラテン語で祈りがささげられる。映画ハリー・ポッターの魔法学校は、オックスフォードのクライスト・チャーチ・カレッジのホールを模したものだといえば、雰囲気がお分かりいただけようか。もっとも、裕福なカレッジと貧乏なカレッジとでは、ディナーの内容は雲泥の差がある。また教員は、学生を見下ろす一段高いハイ・テーブルで、一際高価な料理やワインを楽しむ。カレッジは、イギリスに相応しい身分格差を尊ぶデェファレンシアルなコミュニテイーなのである。

だがカレッジは単なる食堂や寄宿舎ではない。財政的に独立して運営される教育のユニットでもある。大学に入ろうとする学生は、学部で選抜されたあとで、カレッジ毎に選抜を受ける。教育の中心も、チュートリアルとよばれるカレッジでの個別指導に置かれている。世界的な学者が、チューターとして毎週一対一で学生を指導するのだから、贅沢この上ない。教員もカレッジのチューターやフェローとして雇われる。ただし教員も学生も、専門に応じて大学の学部に所属し、大学の講義を担当する場合には、教員は大学からレクチャラーとしても雇用される。ただしプロフェッサーは、大学に直属しもっぱら講義を担当することになっている。英国では、プロフェッサーは、学問分野の長を意味する身分だからである。カレッジを横に串刺しにする形で、オックスフォード大学が存在しているのである。

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オックスフォードは、歴史を刻んだ建物で埋め尽くされている。大学の中心にあるボドリアン・ライブラリーは、1602年に創設され、ブリティッシュ・ライブラリーにつぐイングランド第二の規模を誇る図書館である。コピーライト・ライブラリの一つとして、イギリスで出版される本は、すべてここに収蔵される定めとなっている。歴史的景観を守るため、地下へ地下へと掘られた巨大な収蔵庫は、延長176キロにおよび、蔵書は900万冊を超える。地上部分には、リーディング・ルームとカタログだけしかしない。

 これに対して、学習図書館の役割を果たしているのが、ボドリアンの横にある美しい円筒形をしたラドクリフ・カメラである。17世紀のロンドン大火の後、セント・ポール寺院を建設したことで名高いクリストファー・レンの代表作の一つに数えられている。中に入ると、オープン・シェルフに基本的な書物がぎっしりと並べられ、朝から身じろぎもせず一心不乱にノートをとる学生の真剣な姿は、学問の厳しさを教えてくれる。

 ボドリアン・ライブラリーの横、ラドクリフ・カメラと反対側には、シェルドニアン・シアターが建っている。これは大学の講堂というべき存在で、学位授与式などが執り行われる。大学の学長であるチャンセラーが、美々しいフル・ローブをまとって執事と儀仗を従え、学位授与式に向かう姿は、中世の頃と今も寸分違わない。ちなみにチャンセラーの最大の仕事は、ラテン語でこの式典を取り仕切ることにある。実際の大学の実務は、ヴァイス・チャンセラーが掌握しており、トップは名誉ある閑職に過ぎない、というイギリス社会の範例の一つがここにもみてとれる。

 ボドリアン・ライブラリーからラドクリフ・カメラの横を通り、ユニバーシテイ・チャーチの美しいゴチック建築を愛でながら南へ抜けると、オックスフォードのメインストリートであるハイ・ストリートに出る。このハイ・ストリートに沿って東へゆけば、モードリン・カレッジの美しい塔とボタニカル・ガーデンがある。この川で船を浮かべ竿であやつるパンテイングは、観光の定番だが、実は意外に難しい。

ハイ・ストリートを西へ道をとれば、古い塔とオックスフォードの市役所がたつカーファックス(四つ角)にでる。そこを左に曲がって南へゆけば、オックスフォードで一番大きな、そして裕福なカレッジの一つ、クライスト・チャーチ・カレッジのトム・タワーがみえてくる。このクライスト・チャーチ・カレッジの南側に広がっているのが、クライスト・チャーチ・メドウ。兎がとびはね、きらめくアイシス川で、ボートレースのための訓練が行われている光景は、クライスト・チャーチに席をおいていたルイス・キャロルが、アリスに物語を話した頃といささかも変わらない。

 クライスト・チャーチには、市民革命期にはチャールズ1世の宮廷がおかれ、オックスフォードはこの時期王党派の首都でもあった。しかしオックスフォード大学は、なにより夥しい政治家や学者のエリートを育てる揺籃として、歴史に貢献してきた。政治思想家では、トマス・ホッブズはモードリン・カレッジの出身。ジョン・ロックはクライスト・チャーチ・カレッジでフェローを勤めていた。オックスフォードを嫌っていたとはいえ、アダム・スミスも、スネル奨学金で一時ベイリオルに席を置いている。政治家では、ピールも、グラッドストーンも、アトリーも、マクミランも、ウイルソンも、そしてもちろんサッチャーもブレアも、オックスフォードの出身である。合衆国のクリントン大統領が、セシル・ローズが野蛮人を教育するという帝国主義的な意図で設立したローズ奨学金で、オックスフォードに学んでいたことも良く知られている。

ただしチャーチルは、オックスフォードの北にあるブレニム・パレスで生まれたが、オックスブリッジに行くような学力はなかった。ロイド・ジョージも、ウェールズの平民として、大学には縁がなかった。労働党の最初の首相マクドナルドも、労働者のたたき上げである。伝統的エリートにかわって登場したこうしたアウトサイダーが、しばしばイギリス社会を大きく動かしてきた。

とはいえ、オックスフォードが、イギリスの思想と政治、そしてファンタジーを育くむ源の一つだったことは否めない。アリスのみた不可解なティー・パーテイーや、トランプの女王は、実はカレッジのあちこちで見かけられる現実だったのかもしれない。

 

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オックスフォードという大学街は、ある意味で学問共同体の原型といえるのかもしれない。世俗権力と宗教的権力の双方から自立した、真理を探究する学徒の共同体として、オックスフォードは成長してきた。大学が真理を探究する学徒の共同体である以上、まず成員のための衣食住が整えられなければならない。世俗と宗教の権力に立ち向かってたじろがず、真理を唱え続けるためには、逞しい生活の拠点がなければならなかった。オックスフォードに聳えるどっしりした石造りの建物は、宗教紛争や革命や内乱の風波に耐えて、営々と積み上げられてきたイギリスの学問共同体の持つ矜持を視覚化したものに他ならない。

現代の扉が開くころ初めて世界史の動乱に巻き込まれた日本は、世界の歩みに遅れていたがゆえに、国策の名の下、古いものを遮二無二に踏みつぶし、西欧の生産技術を取り入れるため、一見どこよりも効率的で現代的なシステムを作ってきた。一方イギリスには、大学を始め、牢固とした歴史をもつさまざまなコミュニテイーが、今も社会の基底で頑強に息づいている。もちろん資本主義的な市場の原理は、イギリスでも、古きものの抵抗を一歩一歩ねじ伏せ、社会に君臨する地位を築きあげてきた。だがオックスフォード大学のような古い共同体は、新たな時代に適応すべく幾度も脱皮を繰り返し、伝統を巧みに革新しつつしぶとく生き抜いてきた。最も早く工業国に成長したイギリスは、逆説的ながら、最も進んでいたがゆえに、効率的とは言いがたい伝統的な存在を広範に残す余裕を持っていたともいえるかもしれない。

ひたすら効率を信奉し、すぐに建て替えの効く木の家に住まう我々には、数百年の煤にまみれ、黒光りする石造りの建物に喜々としてしがみつく気持ちは、なかなか理解が難しい。しかし長い年月をかけて熟成した文化に、短期的に促成されたものにはどうしても真似のできない豊かな味わいがあることはおぼろげながら想像がつく。真に創造的な文化とは、オックスフォードのようなずっしりとした重い器のなかで、異質な文化が、時間をかけて溶融発酵する熱の中から、産み出されてゆくものではないか。何世紀にもわたる蔵書のタイトルが糊で貼り付けられた古色蒼然たるカタログを、ボドリアン・ライブラリーでおもむろに開いた時、そうした痛烈な思いに襲われたものであった。古い歴史を持つ東洋の島国の人間としては、それは妙に気恥ずかしい思いであった。