我々の世代にとって、子供の頃の遊びといえば、やはり「チャンバラゴッコ」だったと思う。東映の時代劇映画が全盛の頃であり、東千代之介、大友柳太郎、黒川弥太郎、市川歌右衛門などが銀幕を闊歩していた。
「A子ちゃんが悪者に捕らえられたお姫様で、Bちゃんが悪者。ボクが正義の味方で悪者からお姫様を救い出す役。あと、●●ちゃん(私のこと)はそうやなボクの家来にしてやるわ。」などという近所の大きな子の配役に、何となく納得していた。大きくなったら正義の味方をやってA子ちゃんを…などと考えているうちに、東映は時代劇映画路線から撤退し、ヤクザ映画路線に方針転換してしまった。子供達も次第にチャンバラから離れていってしまい、ついに正義の味方をやる機会はまわってこずじまいであった。 その頃の欲求不満がボンヤリと残っていたためか、中年真っ盛りの今、「居合」の世界にはまり込んでしまっている。そして先日ついに本身(真剣)を買ってしまった。●▲万円。我家の姫君様は怒り心頭。
「そのような高価なもの、そちにはもったいない。ええいーぃ、不届き千万。このうえはそちの好物の地酒買うことまかりならぬゆえ、しかと心えい。いやいやそれだけでは姫の怒りはおさまらぬ。城下引き回しの上ウチクビ申し付けるものなり」などと言い出すかと恐れたが、それでは生命保険しか入らない、それよりはあとしばらくは働かせ、生かさぬように、殺さぬようにと方針を変更したらしく、現在も私はこうして仕事の合間に駄文を書いている。
そして夜家人が寝静まったころ、買ってきた刀を取り出す。口に懐紙をくわえると、鞘からそっと抜き出す。下拭いをすると、打粉をかける。上拭いをする。そしてうっとりと我が刀を眺める。もはやわが子同然である。そしてうすく油をひくと鞘にもどして大切にしまいこむ。なんとなく居合もうまくなったように思えてくる。それだけでも買った甲斐がある(?)。
刀をしまうと今度はお酒をちびちびとやりながら、藤沢周平、「用心棒日月抄」などを読み、その世界に入っていく。すぐに青江又八郎になりきってしまう。そうするとそのうちに江戸嗅足組の佐知が凛として現れたりする。テレビとは違い、読み物の世界は自分の想像、過去の記憶が登場人物を作り上げていく。これはもう一人で楽しむチャンバラの世界である。かくて夜はふけていき、私は時代劇に浸りきることとなる。そして毎週稽古で先生に指摘されることとなる。
「また、下切っとる」、「切っ先下がった」、「もっと鞘引きせな」、…そして最後に一言。
「段、返してもらわなあきませんな」。
本身はもっているだけでは上手くならないということのようである。