禅寺での「修業」をその内容とする社員研修が最近また増えているという。多くは一泊二日で座禅を中心とする。私も30年ほど前に新入社員研修の一環として、京都妙心寺だったと思うが、同様の研修に参加したことがある。座禅は目を閉じるのだと思っていたが、半眼だった。そのため視線の先は畳となり、しばらくすると畳がグルグル回りだして困ったのを思い出す。トイレ・入浴は勿論、食事も無言で行う行の一つだった。食べ終わるとお椀に湯を入れて頂き、お椀にこびりついている米粒を沢庵で拭い取り、沢庵をポリポリと音をせぬように食し、お椀の湯を飲み干して終る。一泊二日だったから、早朝の起床、掃除、法話の拝聴などいろいろとあったと思うが、あまり覚えていない。
ある新聞の夕刊に、そういう禅寺での研修の参加者の声として「自分の枠を広げるいい経験になった」だとか、「頭の中が整然として、自分のこれまでを振り返る貴重な機会になった」、「強制される体験は久しぶり。謙虚になり、自分に足りないところも見えてきた」などを見た。自費で参加したある大手企業の系列企業役員はご丁寧にも後輩を定期的に派遣するように会社に提言したいという。会社や研修の企画提供をした会社にしてみればしてやったりであろう。しかし私は以前に読んだ「食う寝る座る永平寺修行記」という本で、その強烈な修行体験に驚かされたのを思い出すと、すなおに賛同しかねるのである。
曹洞宗の大本山永平寺では古参雲水に対しては絶対服従。古参の目を見てはいけない。口にできるのは「はい」と「いいえ」だけ。修業全般の所作が定められており、少しでも間違うと古参雲水から殴る蹴るというやり方で定められた方法を叩き込まれる。抵抗することは許されない。殴られ蹴られして徹底的に叩きのめされるなかで、それまでの自分の人生で心を煩わされた様々なことの多くが取るに足らないどうでもいいことに思えてきて、気分が楽になっていったという著者の独白が凄い。結局肉体的・精神的な苦痛を極限まで体験するなかで、それまで自分自身が持っていた「自分」を捨て去る。
そこからが真の修業であり、見えてくるのが真理であるということか。世の中の理屈などとは無縁の世界であり、「よく覚えておけ。ここは永平寺なんだぞ」という古参雲水の言葉が重い。
つまり禅寺での「研修」も所詮は企業研修のひとつのパターンに過ぎず、自ずと限界があろう。たとえ禅寺で行おうと、企業のモラルや社員ひとりひとりの「こころ」のあり方が、一泊二日の研修で変わる
はずもない。
また社員一人ひとりの心のあり方が企業の法令順守に資するほど、日本の企業風土がシンプルで健全だとも思えない。そんな中途半端なことをやらせるよりも、むしろ徹底的に業務に直結した専門的な研修をハードに行うことにより、専門能力に長けた社員の増強の方が社会には資するのではないか。
「かたち」をなぞるだけでは自己満足に過ぎない。
ともあれ、若い頃の自分自身への厳しい姿勢は必ず自分を成長させる。そういう意識で若い方たちが研修を受け止めて欲しいものである。4月から人材投資(教育訓練)促進税制がスタートしている。
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