息子が生まれるときに、男女どちらが生まれてきても大丈夫なように、男の子の名前と女の子の名前それぞれ一つずつ私が考えた。姓名判断とか画数とかそんなことは一切気にせずに、まったく感覚だけで決めた。妻もそういうことにはあまりこだわりがなく、私の考えた名前を
喜んで受け入れてくれた。男の子だったので「Y介」という名前が使われた。
四年後に妻が死産した。その当時私は無職の状態にあり、そうした経済的な不安、そして姑との同居という精神的なストレスが原因の一つであったであろうことは否定できない。当時を思い出すと、何ともやりきれない悲しさに苛まれるとともに、自分自身の不甲斐なさに腹立たしい思いを抱いてしまう。以来毎年の水子の命日には宝塚にある中山寺に参って供養してきた。十数年続けた後に、自宅に仏壇を置き、過去帳に水子の霊として書き入れて頂いた。
お盆。ご先祖様が帰ってくるというが、正直言って複雑な思いがある。決して平穏な家族関係ではなかった。反対され続けた末の結婚、結婚後間も無く父の死去、願い出ての仙台への転勤、
息子の誕生、妻を説得しての大阪への転勤、母との同居、親族との軋轢、その長い年月のベースには常に平穏でない親族関係があった。私たちの水子の死に、それらのことが無関係だとは思えない。誰かの無責任なほんのひとつの我侭が相手の心に癒しがたい傷跡を残す。最初の原因を作ったのは一体誰なんだと
、はらわたが煮えくり返ることがあった。翻って考えれば、自分自身の、家族・親族への接し方は後世の子孫の在りようにも影響を与えるということであろう。他者へのほんの少しの思いやりが相手の心に温かさと安らぎを感じさせる。それが人間に求められることであるとともに、人間にできることである。
生まれていれば、もう二十歳を過ぎている。夫婦それぞれ様々な思いで、水子の霊を迎えたお盆であったろう。もちろん診て頂いていた産婦人科では男の子だったか女の子だったかは知らされてはいないのだが、私たち夫婦にとっては女の子だった。用意していた名前は「めぐみ」という。夫からの手紙目次へ