仕事柄、専門書を書店で立ち読みしなければならないことがたまにある。そんなときというのは、あるテーマを持って読んでいるのであり、面白そうなものを探し出すだとか、たんに暇つぶしのみを目的としてページをめくっているのではない。どちらかといえば必死の思いで、ひとつひとつの用語を確認しながら、文意を把握するために、ない頭をフル稼働させている。つまり必要にせまられて、真剣勝負をしているのである。
先日も梅田旭屋書店の三階のある専門書のコーナーで何冊か読み比べていたところ、二〜三メートルはなれたところで、世間話を始めた男達がいた。ところがそのうちに一人ふえ二人ふえして四人になった。そして一人がケータイで連絡をとり始めた。何と書店の中で待ち合わせをしていたのである。書店の前ではない。書店の中である。しかもどちらかというと専門書のコーナーである。図書館の中を待ち合わせ場所にする人はいないだろう。書店でも同じことなのだと思うのだが、その違いあるいは同質性に思い至らない。感覚の違いではない。ただの馬鹿である。
もっとも家庭も似たようなものだと苦笑せざるを得ない。朝、新聞を「読もう」と食卓に座ると、すでにテレビからの「来客」があり大声で談笑している。私が入ってこようと頓着することなく自分達の世間話に花が咲く。「新聞読みたいんですけど、少し静かにしてくれないですか」などと言おうものなら、「お前がスイッチ切ったらええやないか」と怒られそうである。彼らは喋っていくらである。大宅壮一氏が「一億
総白痴化」と予言したのはテレビの創成期のころであるが、その慧眼には今さらながらに驚かされる。
他人の話声がすると、気になって集中できない人と気にならない人がいるはずであるが、私はどうもダメである。今さら変えられそうもない、とすれば我慢するしかあるまい。財布にひとつ居間にも一つ、「耳栓」を置いておこうと思うが、また家族に変な目で見られそうである。
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