「戻りニート」の弁明
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 以前にこんな夢にうなされたような気がします。こわいおばさんが出てきて、ぼくに言います。「こらっ、なにしとんねん。なんでもええから、働かなあかんやないか。」ぼくは言います。「これでも女房、息子がおんねん。●●●になるんが先や。」おばさん曰く「誰にいうとんねん。女房の顔わすれたんか?」どこかのオバサンのブログに出てきそうなお話ですが、20年程前の私はまさにこんな感じでした。

一応上場企業のM社を自己都合で退職してしまうという、世間の常識からすればとんでもないことをして、「無職」としか言いようのない境遇に自己をおき、資格試験に受かるまでの資金は貯金の取り崩しに頼ることとしました。年老いた私の母までが見かねて、しばらく生活資金の一部を提供してくれました。いってみれば「戻りニート」とでも言えたかもしれません。妻にはとんでもない夫としか映らなかったと思います。今になって思えば、私の人生における最大の山場だったかもしれません。散歩の途中で見かけた花

ただその真意はむしろ逆でした。我武者羅に働くということは家族にとっては非常に頼りがいのある美しい行為に映るかもしれませんが、場合によっては必ずしも賢明な策であるとは言い切れないと思うのです。少し回り道をしてでも自己実現を図ることは、長い人生を考えれば妻子を大切にするということにつながるはずです。一見愚行とも見える行動は逆に必要不可欠であり、真に自分と家族のためを思う行動であったと今でも信ずるのです。

●●●の資格を得た後も、一時会社勤めのまま終ろうかと弱気になったことがありました。いろいろと悩んだ末の結論は失敗するまでやってみようということでした。「息子が将来私を見たときに筋の通らない生きかただけは見せたくない」それが最後の結論だったことを今もはっきりと思い出すことができます。

現代は高度経済成長期の就業状況のイメージのみが残り、家庭および学校教育における職業選択についての教育・指導という面が置き去りにされたままなのではないでしょうか。つまり未だによい学校を出ればよい就職ができる、だからよい学校に進学させねばならない、ひいてはそれが子供にとっては一番幸せなことだという意識だけが残っていて、子供の適性や興味の芽を見極め引出し伸ばしてやるという本当は一番大切なことがおろそかにされているという気がしてなりません。親として自分自身の考え方をしっかりともち、子供が遭遇する様々なステップにおいて、適切なアドバイスをすることが求められているはずであり、それが「ニート」を生み出さない社会環境のひとつなのではないでしょうか。

千里山のオバサン、テーマお借りしました。有難うございました。

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