欠席します
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 高校の同窓会がお盆のある日、郷里で行われるという案内状が届いた。35周年とある。たった3文字であるが、35年は重くそしてあまりにも短かったという気がする。私たちの通った高校は県内では進学校と見られていて、現に何人も現役で東京大学に進学する人たちもいたが、その反面多種多様な才能に満ち溢れていたという一面もあった。ある日突然旺文社の懸賞小説に入賞した女生徒がいた 。「梧道の歪み」という題名だったと記憶するが、当時の私にはチンプンカンプン、その人が大人に見えた。少年ジャンプの懸賞漫画に応募して、「たばこのけむり」という漫画が佳作に入賞したS君はその懸賞金 のなかから、私にさぬきうどんをおごってくれた。私の幼稚な詩に作曲してくれたS君(上記S君とは別人)は現在 奈良でギター教室を経営している。ときおり便りを寄せてくれる「遠くの友人」は文化祭で「絵姿女房」というクラス演劇 の主役を熱演してくれた。進学校らしからぬ魅力的な学友たちがその才能を垣間見せてくれたという気がする。祇園、昼下がり

 そんな中で私は当時どうだったのか。多くの学友がのびのびと青春を楽しんでいるなかで、あまりパッとしない思い出しかない。1年のときはいわゆる赤面恐怖症だった。とにかく学友の前で普通に喋ることができずに、悪戦苦闘した記憶がある。これではいけないと思い、2年でクラス替えになると、意識して人前で喋る努力をして、克服した。 他にもいろいろと思い出すことは多いが、「死」という命題との出会いもこの夏だった。

  ことさら大げさに言うほどのことではなく、皆一度はとらわれることだが、自分という存在がなくなるということが恐かった。 そんな意識は徐々に哲学への関心という方向へと変化していったが、悲しいかな能力の不足のため、未だに一冊の文庫本さえ読みきれずいる。加えて一人になると自分が自分を意識するときの不気味さが追い討ちをかけ、私はほとんど何もすることができないままに、夏の日々を送らざるをえなかったのである。 その夏、甲子園でユニフォームを泥まみれにしながら、野球に没入していた青森県代表三沢高校のナインの姿が羨ましく てならなかったのが忘れられない。しかしそれがまさに私の青春だったのかもしれない。

いつだったか、母校から最寄り駅までの裏道を一人で歩いてみたことがある。普通に歩いて十分間程の距離だった。母校の裏門を出て少し歩くと車の通行量の多い国道沿いの舗道が真っ直に商店街の方向にのびている。とりたてて美しい道でもなく、ごくありふれたただの舗道である。歩きながら当時を思い出そうとするのだが、不思議とすぐに別のことを考えてしまう。本当に思い出そう、考えようとすることとは全然別のたとえば明日からの仕事の課題のこととか、ふとするとそこに転がっている石ころをぼんやりと脳裏に浮かべていたりする。そんなことを何度か繰り返すうちに十分間ほどの時間が過ぎてしまい、商店街の入り口まで歩いてしまった。

 茫然として振り返った私の眼に、母校の北にそびえる古城の石垣が映し出された。その背後には力強い夏の青空がひろがっている。蝉時雨のなか に立ち尽くしていると、時間がとまったような気がした。そしてたしかにあれからながい歳月が過ぎ去ってしまったのだという事実の中に、独り置き去りにされたような強い孤独を感じた。無限の時の移ろいの中でぽつんと十分間があった。しまっておきたい過去は私の心の中にある。

 返信用葉書には欠席と記した。

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