父は家具職人だった。母の実家のある四国の片田舎の町。「求怐恂リ工所」という看板を掲げて数人の職人さんを雇って家具の製造販売の商売をしていた。工場は家の庭にある二階建ての蔵だった。さまざまな機械が沢山あったし、木切れは棄てるほどあった。おかげで小学校の低学年の頃は遊び道具には困らなかった。
家から5分ほど歩いたところには町で唯一の映画館があり、休みの日には結構な人出があったという、かすかな記憶がある。もう少し幼い頃には旅芸人の一座による任侠ものの芝居が上演され、家族とともに見物した記憶がある。その映画館の前に●●木工所の「ショールーム」があった。たんす、水や、机、本棚、さまざまな商品が並べられていて、私はそこでよく遊んだというこれもかすかな記憶がある。
私が小学校の高学年になった頃には「求怐恂リ工所」は解散し、働いていた職人さんもいなくなった。父は還暦をすぎ、事業欲などはなくなり、一人で黙々と家具を作っていた。まだ隣町の大きな家具屋さんに買いにいかずに、近くにあればそこで買うという「古きよき時代」のなごりが残っていて、うちのようなところにもお客さんが来るのである。すると私の出番となる。
当時はまだ車の時代ではない。二輪車のリヤカーがあり、父と私がたとえばタンスを積み込むと、私がリヤカーを引っ張り、父が後ろからついて来る。配達の帰り、父はちゃっかりとリヤカーに乗り、「よっしゃ、行け」と笑っている。道行く人はそれを見ると、「親孝行な息子やのお」と感心したようにささやく。帰ると母が「ほい」と駄賃をくれる。すぐにコカコーラとたこ焼きを買いに近くの駄菓子屋に直行。「孝行息子」の真の姿であった。
父は父方の親戚とはかなり疎遠であり、そのため私は戸籍簿にある姫路の近くの父の出身地を尋ねたときも、ああこのあたりなのかという感慨しかもてずに、近くの公園でボンヤリと父が好きだったお酒を一缶飲んで、そのまま帰ってきたことがある。親戚同士の付き合いという考え方を排していたように思える。自分の人生は自分が決めるということだったのか。話してはくれなかったが、少し暗い父の過去を感じる。父は先妻に先立たれて再婚したため、私には大正生まれの異母兄がいたが、その兄は自分で商売をしていたし、すぐ上の兄も家を出てしまっていた。私が高校に入る頃には父はすでに70歳に近い年になっていたこともあってか、自分の商売は終ったと納得していたように思える。結局誰も父の商売を事業として承継することはなかった。経済的にはかなりの成功を収めたが、妻子との死別・再婚・戦争などという悲しさ・運の悪さをくぐりぬけてきて、「もうこのくらいで充分」と感じていたようでもあるし、時代の移り変わりに気付いていたのかもしれない。私が大学を卒業してMという家電メーカーに就職したときは安心したようであったが、父の死後私は結局Mを退社し、こうして勝手な生き方をしている。「孝行息子」とは程遠い。
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