若いお母さんへ
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 福原愛さんが、中国の卓球スーパーリーグに参加している。先日も元世界女王の王楠選手とペアを組み、快勝したというテレビニュースを見た。年若いにもかかわらず堂々としたその姿は立派である。そして感心させられるのはインタビューに答える際の流暢な中国語である。中国語を喋ることも、聞きとることもできない私などが言うのも可笑しいが、きっと立派に通用するレベルなのではないかと思わせる雰囲気がある。好対象なのが先頃米大リーグで日米通算200勝の偉業を達成した野茂英雄投手であろう。地元メディアなどからのインタビューに対しても、自分の気持ちを正確に伝えるためか、決して英語は使わずに、日本語での応答に終始する姿が印象的である。

日本に来た外国人プロ野球選手でもインタビューで日本語を使ってくれると、ぐっと親近感を持てるし、わかりやすいが、母国語でしか応対してくれなくとも、プレーに対する姿勢やインタビューでの雰囲気でその心情は充分に伝わるのではないだろうか。福原選手の場合積極的に中国語での自己表現をし、野茂投手はしなかったという違いはあるものの、その道のトッププロとして精一杯のプレーをしているという意味では同じであろう。その国の言葉を勉強して、喋る努力をするのがベターであることは間違いないが、彼らに求められているのは選手としていいプレーをするということであり、言葉は次のことのはずである。大阪城近くのNHK

ある日の新聞に次のような記事があった。ある夫婦は「特区制度」で設立された学校に6歳の娘さんを通わせることにした。その学校は国語と社会、道徳以外はすべて英語で教えるという。イマージュンというそうである。言葉漬け教育のことらしい。他にも二歳から英会話教室に通わせるだとか四歳で海外親子短期留学ツアーが盛んだとかという事例が紹介されていた。

福原選手にしても野茂投手にしてもまずは卓球があり、野球があった。大切なのはその人自身である。グローバルという言葉が言われて久しいが、グローバルというのはむしろ言葉の障壁を取り払った上でのお話ではなかろうか。現実は逆のような気がする。外国語さえできれば、世界に通じるという安易な誤解が横行している。自我も日本語も不確かな段階から英語漬けにしてどうなるのか、その考え方がどうしても理解できない。

あえて選択するならば、まずは日本語であろう。まずは親子の会話であろう。子供に絵本を押し付けておいて自分はケータイに夢中、そんな母親を見ると「今が一番大事で、一番楽しい時期なんだよ」と気持ちは説教親父になりかけてしまう。上智大学教授の猪口邦子さんは、「子供の頃父親が毎週書店に一緒に行ってくれて、そこで購入した本を一緒に読んでくれた。そのために漢字や内容が難しくて詰まる箇所を乗り越えさせてくれた」と回想している。ある意味で非常に贅沢で、うらやましい環境であろう。しかしそのことにどれだけのコストがかかるというのか、外部支出は本代だけである。お金を出すだけでは決して得られないものが親子にはあるし、知恵を絞ればいくらでもそういう教育そして躾けは可能であろう。それを妨げるものがあるとすれば、それは大人の、親のワガママでしかない。

先日電車の中で母親と一緒になぞなぞの本を楽しんでいた4歳ぐらいの男の子の楽しそうな笑顔が忘れられない。

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