ある夜のテレビ番組で、銀座の高級クラブというものの実態が放映されていた。そこでは毎晩一本10万円のシャンパンが何十本と惜しげもなく飲まれ、8万円のケーキ、5万円のフルーツ盛合わせが供される。挙句の果てはでもなく、それほど驚くほどのこともなく一本120万円のワインを飲む人たちさえいる。500円のかれいの煮付けに、380円のぬたを肴に一本3000円の日本酒が揃えば、どこかのおばさんの冷たい視線もなんのその、これぞ贅沢と感じる私には到底理解できぬ世界であり、行きたくもないし、呼ばれたくもない場所である。うーん…。
似たようなものとして考えると面白いのが、ブランドではないか。かのルイヴィトンなどは今では何人かに一人が持っているらしい。持っているのがとりあえずの必要条件と考えている女性が大半かもしれない。だが実際にそれらのものを近くで見ても、デザインはともかくとして材質や造りが優れているとはあまり思えないのが正直な気持ちである。じつは私もあまりブランドらしくないロエベという仕事用のカバンを二つ持っている。これは中野孝次氏の名著「清貧の思想」の感化を受けて、多少高くても品質のよいものを大切に長く使うのが好いのではないかと思ったのが、購入の動機であった。大きなほうのカバンは余計なものが余計なところについていて、少し扱いにくいが革は上質のものであり、小さい方は満足して初期の思惑通りに大切に使用している。
もうひとつ、仕事に必要な自動車だが、数年前に買い替えるとき、何年かに一度は必ずモデルチェンジして、その車種のイメージをまったく変えてしまう国産車のメーカーに対する反発から、あるドイツ車の最も低グレードの車を買い一生のり潰すことに決めた。ところがいざ買ってみると、このドイツ車、いわゆるブランドのはしくれのはずなのに、なんともよく故障するのである。見かけ倒れもいいところである、「コノヤロー」。ワタシハバカデシタ。
ブランドとは自分にとって何ものか、そこを大切にしたい。美女に囲まれて120万円のワインをがぶ飲みすることに無上の幸福感を持つ人がいれば、うるめいわしをかじりながら一人ヌル燗を味わうことで満足できる人もいる。ヴィトンでなければいやだという女がいれば、100円ショップのズタブクロでも気品を感じさせる女性もいる。ある人はこう言った。「高いけれど買いました。高くていいものだったから、大切に大事に使おうと思うんです」。ブランド品のなかに実用品としての価値を認め、その価値そのものを評価する。仕事や日常生活のなかで、快適に永く使用できてはじめて良い物である。そういうものこそが本来の意味でのブランドである。ブランドに舐められてはいけない。
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