うつくしさとは…
ホーム 上へ 真剣な笑い

 

 ある日の夕刊にイタリアの高校生のことが書かれていた。そのなかで彼はジーパンを下にずらしてはき、下着が見えているのがおしゃれなのだと言っていた。日本でもダブダブのズボンをずり落ちそうな感じではき、帽子(キャップ)を斜めにかぶっている若者をよく見かける。

 私はそういう姿を見ていると逆に画一的で窮屈そうに思えて仕方がない。流行にとらわれてしまって、精神までが束縛されてしまっているのではないかとさえ思えてくる。もっと自分自身を大切にすることを考えてみてはと思ってしまう。学校を卒業して制服から開放されたのに、流行という制服に着替える必要などないのでは?と不思議に思えてならない。

 もっともイタリアの高校生にしても日本の若者にしても、そこに彼らなりの美を感じているのかもしれないし、世代の違い、感性の違いなど様々な要素が多様な美意識を作り出すという意味では他人がとやかく言うことではないのかもしれない。 

 話は変わるが今、週二回の居合の稽古で師匠から課題が与えられている。一言で言えば、一気に切るということである。居合は武道であり、つきつめれば不意の攻撃に対して、受けて勝つということであろう。そこに無駄な動作は許されない。無駄は武道においては死を意味する。必然的に合理的な動きが求められ、「型」として定められ、日々それを習得しようと努力し精進する。

(写真:京都武徳殿における師匠の演武)

 外から見れば「型」をまねるという見方がされがちであるが、居合の本質は相手を切るという一点にある。「型」という言葉には進歩がないというイメージがつきまといがちであるが、永平寺の開祖道元が著した「正法眼蔵」は修業生活のすべての場面における作法がさだめられているという。つまり「型」の習得を通じて、その本質に近づくことを目標としているのである。居合においても同様であり、様々な局面、想定で技が定められているが、すべての技はその必然性において無駄のない内容である。

 私たち同門のものは皆その習得のため稽古に励んでいる。私は彼らを身近で見て、その真剣な姿にひとつの美しさを感じる。美しさにはたんに外見上の姿かたちではなく、意識のうえでの美しさというものもあるように思えるのである。人それぞれの考え方、感じ方はあるにせよ、下着を見せるイタリアの青年やダブダブズボンの日本の若者をかっこいいとは思えないし、ましてや若い女性がジーパンと短いTシャツの間に素肌を覘かせるその感性や電車内で化粧をするいわば本末転倒の美意識には到底ついていけない世代になってしまったようである。

“たいせつなことはね、目に見えないんだよ…”(「星の王子さま」より)

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