読売新聞の「人生案内」というコラムに、ある日次のような相談があった。
私は幼い頃から“
まじめ”と言われてきた。自分でも自覚しているし、自分にとってはそれが自然で精一杯の生き方である。しかし飲み会などで自分では楽しく飲んでいるのに、まわりから「暗くて神経質そう」とか「かたいよ」とか「それで楽しい?」とか言われる。自分の“まじめな”性格が他人に不快感を与えているようだが、どうしたらいいのだろう。

そんな相談に回答者として、ある作家が「あなたはまじめなままでいい。その性格をベースにして一生懸命学業に精出して立派な職業人になってください。人はそんなあなたに信頼を寄せる。そして人への思いやりを忘れずにいれば誰もあなたに不快感を持つはずがない」と答えている。この作家の方も指摘されるように、現代は“まじめ”が悪徳のように評される“いやな時代”である。“軽薄で、ふざけた言動”が面白いともてはやされ、“まじめ”は“暗い”と冷やかされる
身につまされる相談内容だった。どちらかというと私はこの相談者と同じタイプであり、似たような体験もしたことがある。おまけに口数が少ないためか、何も考えていないにもかかわらず、何か言いたいことがあるように見えるらしい。そうすると妻は「何を考えているのか分からない」とか「はっきり言うたら?!」などと言う。何も考えていないのだから、当然「えっ、何を言えというのか」と困惑してしまい、余計に押し黙ってしまうことになる。
人間様々なタイプがいるのがあたりまえであろう。みんながみんな「あかるくて、たのしい人」だったら困るだろうし、みんなが自分と同じ性格だったら気味が悪いではないか。ところが、すべての人が「あかるくたのしい人」でなければならないような風潮が世間を覆っているのが、今の日本のように思えて仕方がない。
つまり「あかるい」とか「くらい」とかの問題ではなく、こうあらねばおかしい、という風潮自体がおかしいのではないか。誰が作り上げたのかわからないが、こうあるべきスタンダードができあがり、だんだんと人がそこへ寄り集まっていく。そうすると仲間はずれになりたくない人たちはそこにすり寄っていく。多数派をかたちづくり、「正統派」としてその地位を固めていく。近寄る必要を認めなかった人たちは「異端」とみなされる。「正統派」はもう安全である。人は本能的にまわりと同じでないと安心できないものなのかもしれない。関西では阪神タイガースのファンであれば、どこへ行こうと結構居心地がよいはずである。でも私はそういう雰囲気は好まないので、入った飲み屋で野球中継が放送されている間は黙ることにしている。
京都大学名誉教授で数学者の森毅さんが仰った言葉がノートにあったので引用する。
「元気になれ、がんばれというメッセージが多すぎる。みんなが毎日ハイになることないやんか。元気がない人もいてええんや。」
そのとおりと思います。
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