振子
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 O・ヘンリーの作品に「振子」というのがある。

 結婚して二年。彼は単調な生活にうんざりしている。彼の日常生活の辞書には「もしかすると」という言葉はない。すべては予想通りに流れていく。そして毎夜8時15分になると帽子に手をのばす。すると妻は「あなた、どこへいらっしゃるの?教えていただきたいものだわ」と問いかける。彼は言う。「ちょっと玉突きに」。10時か11時には彼は家にかえるのだが、ある夜異変がおきた。妻が書き置きを残して消えたのである。「母が重病との連絡があったので取り急ぎ実家に帰ることにしました。明日むこうから手紙を出します」というのである。 彼は妻がいなくなったことに驚き、衝撃をうけ、過去を反省し、今後はこれまでの償いをするのだと殊勝な気持ちになる。

 そのときドアを開け、妻が帰ってくる。「ああ、帰ってこられてよかったわ。母は大したことがなかったのよ。それで、つぎの汽車で引き返してきたの」。

 彼は時計を見た。8時15分だった。帽子をとって出て行こうとする彼に妻は言う。「あなた、どこへいらっしゃるの?教えていただきたいものだわ」。彼は言う。「ちょっと玉突きに」。

 私たちの日常生活は起床、洗面、食事、仕事、食事、仕事、入浴、食事、就寝…たいていこんな構成になっている。人間関係の面からみれば、家族、職場の人たちということになろう。テレビをはじめとするメデイアからの情報がはいりこむことはあっても、たいていの場合「変化」ということはあまりないはずである。だからこそ「日常」といえることも確かであろう。

 しかし人間というものは変化のない「日常」にも疲れてしまうもののようである。彼の、玉突きに行くという行為も変化を求めてからだったろうが、そのことでの妻とのやりとりも含めて、それらさえ変化のない「日常」に同化してしまっている。「変化」とは前後を裁断するから、変化なのだろう。

そんな救いようのない状況にもたらされた「変化」は彼の心にいきいきとした感情の起伏をおこさせたのであるが、妻の帰宅とその言動から「変化」は消滅し、一瞬のうちに「日常」が戻ってきたわけである。止まっていた「振子」は何事もなかったように、また動き始めたのである。

 私たちには「振子」がいつものように動くことを望むこころと「振子」が止まって何かが起こることを望むこころが同居してるようである。

 我家の時計にはどれも「振子」はなかったと思う…

17/5―2

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