いい歳になったということ
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 奈良でギター教室を営む高校時代の友人が言った。「あのギターな、今はもう貴重品やから大事にしいや」。私が高校に入ったのは昭和42年、フォークソングやグループサウンズが若者の心をとらえはじめた頃であった。丸亀という四国の片田舎に私の通う高校はあったが、国鉄の丸亀駅の近くに楽器店があり、そのショーウインドウには当時ヤマハが売り出したフォークギターが二本、「欲しいやろ」と言わんばかりに飾られていた。アルバイトもしないのが普通の当時の田舎の高校生には見てるだけのお宝であった。安いほうのギターでも12,000円の値札がついていた。それをどう言いくるめることが出来たのか、今では見当もつかないが何ヵ月後かには母親を言いくるめて見事手にしていたのである。なんとも馬鹿息子ではある。しかしそれ以来37年間私はそのギターを使い続けてきたのであるから、お許し頂きたい。様々な思い出の詰まったギター

 そして毎年年末になると何とはなしにその頃の歌を歌いたくなる。ある日の新聞第一面の下の広告欄に自由国民社が「70年代フォークソングの本(ギターコード付)」というのを出していた。気になりながらも年末の仕事の忙しさについそのままにしていた。暮も押し詰まった頃、正月にはあの本で、あの歌を、あのギターで、雨戸を閉め切って(他人に聞かせられるものではない…)心おきなく歌ってみたいものだと思うと、もう我慢できなくなった。仕事を早めに切り上げると、梅田の旭屋書店、紀伊国屋書店いずれにも足を運んだが売り切れであった。残念、悔しいと思うと同時に、自分と同じ世代の人たちが同じ思いでいるらしいと思うと、逆に嬉しくなった。

 

 12月30日には、今年も大学時代の剣道部の同期生の忘年会を行った。OB会の名簿によれば、我々の同期生は11名となっている。?と思って確認してみると、よく我々と麻雀をしていた先輩が留年して、私たちと同じ年に卒業したためであった。その先輩は当時はやっていた石橋正次の「鉄橋を渡ると君の家が見える」という歌詞を口づさみながら、つもってきた麻雀の牌を左から右に滑らせるのがクセであった。その先輩を除く実質10名(途中退部の2名を加えると12名)のうち8名が参加した。髪の毛が薄くなったもの、白くなったもの、太ったもの、なんでやと思うほどまったく代わらないもの等々様々であるが、鍋をつつき酒を飲むにつれて、程なくタイムスリップは完了する。

「あの先輩は恐かったなあ|」

「お前のイビキはたまらんかったで」

「●●なんかな、おかずもないのに合宿で飯十杯食うとったで」

「なにゆうとんねん。あはは」(否定せえへんな…筆者)

「あの**の小手は痛かったなあ。あいつ今脳外科で手術ばっかりやっとるらしいで。大丈夫かいな」

「△●、お前またハゲがすすんだな」

「ほっといてくれ。」同じ合宿の飯を食った仲間達

切がないので、このへんにする。ほぼ同じ話を毎年繰り返す。ある同期生が言った。「今年はあの話が出えへんかったな」。しかしそれが我々の忘年会であり、それでいいと思っている。いつの間にか、そんな話を年に一度ぐらいはしたくなる年齢になった訳である。

 部屋の片隅のギターには高校時代の思い出がひそんでいる。剣道部の思い出となるべき竹刀はどこかに消えてしまったが、いずれの時代の思い出も、目を閉じれば懐かしく蘇ってきてくれる。それでいいのかもしれない。

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