京都休日散歩
ホーム 上へ 「風の良寛」より

 

 事務机に座って冬の曇り空を眺めていると、京都に行きたくなってくることがある。休みの昼近くになって言い出したものだから、「どうぞおひとりで」と妻が嫌味たっぷりに言う。思う壺。池波正太郎の文庫本、“散歩のとき何か食べたくなって”とガイドブックのコピー等々を用意すると、防寒用の帽子で頭をカバー。デジカメも忘れない。ほぼ40分後にはJR京都駅に降り立っていた。冬の賀茂川

 

今更名所旧跡をまわりたいなどとは思わない。最初に目指したのは端泉寺(ずいせんじ)という木屋町近くにあるお寺である。もっともその寺に興味があったわけではなく、池波正太郎の文庫本、“散歩のとき何か食べたくなって”に紹介されている「松鮨」というすし屋さんがその端泉寺の横にあるという理由である。

端泉寺はすぐ見つかったが、「松鮨」はいくら探しても見つからなかった。池波正太郎が絶賛し、ここの鮨を食べるために新幹線で京都に足を運んだという話がその本に書かれている。“にぎるときの、包丁をつかうときのあるじの、神経を張りつめた顔は美しい”とある。最高のものを生みだそうとする、そのために神経を集中する。その瞬間人は無心になるのではないか。

 包丁は適切に仕事をし、思い通りの鮨を造りだす。「欲」が勝つと、雑念・余計な力が入る。すると「無心」からは離れてゆき、結果としてゆがんだものを作り出す。すべて真理は同じという気がする。凡人の私は雑念・余計な力にいつまで悩むのだろう。雑念・余計な力から解放されたとき、そこに美しさがあるように思える。そしてその美しさは修業をつんだ同じ境地の人にしか味わえないものなのかもしれない。

 端泉寺は高瀬川を開削し、京都伏見間の水運をひらいた角倉了以が、豊臣秀次の悲運を哀れみ建立した寺である。豊臣秀吉の側室淀の方が産んだ鶴松は三歳で病死する。老境にあった秀吉はもはや実子を儲けるのは無理と悲観して、甥の秀次を跡継ぎにした。ところが淀の方が再び秀頼を産んだことから悲劇は始まる。秀吉の心に大きな変化が生じ、疎まれた秀次は高野山に追いやられ、ついには切腹を命じられる。そののち秀次の妻子、側妾たち39名はこの寺近くの京都三条河原で処刑されるわけである。

写真端泉寺(豊臣秀次一族の菩提寺)

 寺町通りに入ると、すき焼きで有名な三嶋亭だとか、大正7年創業と書かれたバー「サンボア」などがその古びた店構えで私を迎えてくれる。池波正太郎はこの「サンボア」について「この店に、女は似合わぬ」男の酒場であると書いている。私はいまだにこの「サンボア」に入ったことはないが、外から見ただけでもそんな感じがする。

 カウンターに向かいグラス片手に黙って飲む、決して店のマスターと常連客ぶって、くだけた話などしない、それぞれの酒の時間を邪魔しない、それが私の酒の飲み方である。しかしそんな飲み方をしていると大抵は疎まれてしまう。陰気な客だと嫌われてしまう。酒は楽しく陽気に明るく飲ま「ねばならない」というのが半ば社会の常識のように思われているが、静かに味わいながら楽しむという飲み方が認められていいのではないかと思う。一度試されればいいと思うのだが、自分の好きな静かな音楽に耳を傾けながらたとえば地酒を一口、口に含んで目を閉じてみられるといい。その酒が感じられ、音楽が感じられ、静けさが感じられ、自分が感じられる。そんな酒もいいものだと思う。

サンボアがどんな酒場かということとは無関係の話ではある。

 近くの骨董品店で見かけたエビスビールの看板

 昭和47年4月30日九刷とある。新潮文庫「檸檬」。値段は140円。

学生時代に購入したものである。表題作の「檸檬」は7ページしかない非常に短い作品であるが、文学的評価は極めて高い作品である「らしい」。「らしい」というのは私には全くその良さがわからないためである。そして主人公が檸檬を買った果物屋さん「八百卯」が寺町通りと二条通が交差する角にある。梶井基次郎のこの小説の読者が訪ねて行くので、この店にはいつもレモンが並べられているそうであり、私も行ってみた。

 月に一度の定休日であった。

所詮私には似合わぬ世界である。

 少し不貞腐れながら二条通に曲がってしばらく行くと、もっと似合わないと思う建物があった。「島津創業記念館」。ここは、あの田中耕一さんが勤める島津製作所の発祥地であるらしい。

入場料300円(ちょっと意外であった)。館内に入ると田中さんが勲章を受けられたときの天皇陛下からの賞状が飾られている。すごいなあと思ったが、そこから先は物理オンチの私には理解不能。次から次へといろんな実験用器具類がこれでもかといわんばかりに押し寄せてくる。ほとんどへとへとになりながら

          島津創業記念館

も一念発起、ワレ物理学の権威トナラム…と考えて、入り口で売っていた「ニュートンの七色ゴマ」と「ベンハムのコマ」のセットを買い求めた。これも300円。前者は七色に彩色してあり、回転させると灰白色一色になり、後者はその逆白黒のコマが回転すると、いろいろの色が見えてくる。研究して物理に強くなろうと思ったが、家に帰って家族に見せると「フーン、それで?」。

せっかく買ってきたのだからとコマをまわしながら考えつつお酒を飲んだが、勿論その理屈は不明のままである。まあノーベル賞とまではいかないまでも、これだけ日本酒の消費に貢献しているのだから「飲ーめる賞」ぐらいはどこかの酒蔵が用意してくれるのではないかと秘かに期待している。

左:ベンハムのコマ    右:ニュートンの七色ゴマ     

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