千円)を履く。そして安物の半纏を着込み、手も冷たいので薄い手袋をつける。こう書くと滑稽(実際の姿はもっと)だが、暖房設備無しで冬を越そうとすると、このような姿になる。少々動きにくいが、仕方がない。それを見て、妻が真顔で言った。「頭だけ寒そうやね。」私「…」妻「毛糸の帽子買うたら?」私「やっかましい!!!」。
このような厳しい寒さに耐えながらも、ある日仕事を始めようと窓際の机に向かうと、太陽の光が射し込んでいるのに気づいた。冬の間は向かいの家の屋根に遮られていて、その時刻には顔をみせることはなかった。春がきたのである。南極越冬隊のような格好から解放される日も遠くはなさそうである
新潮文庫「食う寝る座る永平寺修行記」に次のような記述がある。「しかし僧堂はたった一つの火鉢の炭火で暖かくなる。だがこの暖かさはここで生活する者でなくては、おそらく感じることはできないだろう。(略)。それは自然の暑さ寒さ、そして冷たさをそのまま肌で感じ生きているものだけが、はじめて感じとることのできる暖かさなのである」。結局火鉢もストーブも使わなかった。決して自慢する訳ではない。はっきり言えば馬鹿な真似である。でもそれだけに春の訪れが今年ほど嬉しく思えた年はなかった。やはり私の場合は一つの火鉢よりも一杯のぬる燗のほうが肌に合っているようである。
H16/3