
朝が来た。布都彦にとっては、大会という場で自身を極める目覚めだ。まだ早い時間で、室内は季節の移ろいのままに薄暗い。けれど、どこかで物音がする。襖の外、廊下を見ればそれは台所からで。醤油と、味醂だか砂糖だかが入り混じった匂いが遅れて届く。風早だと、すぐに分かった。那岐が作るものからは調味料よりも素材そのものの匂いが薫ることが多いし、何しろこの時間だからである。
「おはよう、布都彦。日曜だというのに相変わらず早いですね」
「いえ、今日は少し遠出にもなるので」
「ああ、そうでしたね。女子部からなら会場までそれほどでもないようですが」
頷きかけて、布都彦は足を止め、風早を見る。何故、知っているのだろう。開店休業に近い男子部の活動など、職員室で話題になるとすれば廃部の危機ぐらいしか思いつかない。けれど、それにしては時期もずれているようで。
「ああ、那岐がね。今日は大会があるらしいから、送っていってやれって言ってたんですよ。確かに車でないと不便な場所ですからね」
「そんな、顧問をされているわけでもないのに」
「ですよねえ。下手に世話を焼きすぎると、顧問をされてる先生のお立場がないし、乗り換えする予定の駅まで、ってことでどうですか?その代わりといってはナンですが、お弁当も作ったので」
「ありがとうございます。その・・・いろいろ、気を遣っていただいて」
風早にすれば、生徒である前に知己である羽張彦の弟なので困っているとなれば世話のひとつもしたいところなのだろう。だが、布都彦にとってはごく幼い時期の顔見知りでしかないこともあって恐縮してしまうのが正直なところだ。
それにしても、と布都彦は先日の那岐の様子を思い出す。大して興味もなさそうだったのに、そういう心配りだけは相変わらずで・・・だから、こちらも気にかかってしまうのだ、と。
「あり合わせでよければ、朝もしっかり食べて行ってくださいね。那岐はいらない、なんて出てっちゃいましたけど」
「出て行った・・・って、あの那岐がこんな早くからですか?」
「ええ、あの那岐が・・・って、あれ?ついさっき、出がけに君の部屋へ入ったみたいだったんですが。起こしてから出かけたわけじゃなかったんですね」
手早く食器を並べながら風早が言う。
「なんでも植物園で今日までの限定展示があるらしくて。そんなに早く行っても開いてないんじゃないか、とは言ったんですけどね。一人じゃないから、って言ってました。それも珍しい話だなあ、なんて思ってはいたんですが」
「・・・一人じゃない、って」
「遠夜が一緒みたいです。季節柄、リースを作ったりできる体験教室もあるって話でしたから、植物を通してこちらの風土とか気候なんかに触れるいい機会だと思ったんじゃないですか?」
「そう・・・ですか」
約束したわけではない。尋ねたわけでもない。那岐がなじみのない場所へ来ないことはむしろ自然なことで。遠夜と2人で出かける方が、よほど話も合うのだろう。けれど、胸は軋む。先日の様子を思い起こすほどに。痛むほどに、現実は確かになる。・・・ここに、那岐はいない。今の布都彦にとっては、それだけが確かなことだった。
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