心 眼 〜shadow〜


 会場に着き、支度をすませると心地良い緊張感に押し包まれる。そこまでは、いつものことだった。いつも通りでなかったのは、思いがけない人物がそこにいたからである。
「布都彦!!」
 名を呼ばれ振り返ると、そこには那岐と同じ明るい髪色をした少女の笑顔があった。姉だったか、妹だったか定かでないが、那岐とは違いずっと本家で育てられた双子の片割れ、千尋である。自分と同じく弓道をたしなんでいる、とは聞いていたが会場で顔を合わせるとは予期しておらず、戸惑いながらも頭を下げる。と、千尋は少しばかり不満げな様子で近付いてきた。
「も〜、なに?久しぶりに会えたのに、ノリがカタいなぁ」
「そう言われましても」
 どうしても畏まってしまうのは、年上の異性であるうえに幼いころには那岐とのような交流がなかったためである。
「ま、いっか。なんてったって、今回の優勝候補の一人って話だし?緊張しない方がヘンだよね」
「それは買い被りです。今回は力だめしのつもりで参加したのですから。それより、女子部の調子はいかがですか?」
「あ〜、もう全っ然ダメ。参加することに意義があるっていうか、見学しに来ましたって感じ?だから今回は布都彦を応援しようかと・・・って、あれ?男子部の応援、誰も来てないの?」
「はい。なにぶん、男子部は現在、私一人しか部員もおりませんし。顧問の先生にお時間いただくのもはばかられますので」
 布都彦が謙虚に答えると、千尋はじれったそうに腕を掴んで揺さぶった。
「それならそれで、風早とか那岐に来てもらえばいいのに!応援があるとないとじゃ、気合いの入り方も違うでしょ?」
「い・・・いえ、中学の時は兄が来てくれたのですが、こちらが気恥かしくなるほど熱がこもっていて・・・その・・・どちらかと言えば、あまり騒がれるのは苦手なのです」
「あー・・・うん。まあ、お兄さんはね、確かに騒ぎすぎっていうか・・・あれ?何か、落としたよ」
 すかさず拾い上げたのは何かの植物だった。どうやら、袂からこぼれた様子である。
「何故、そのようなものが・・・枯れてもいないようですし、どこで紛れたものか」
「・・・ん?でも待って、何か良い匂い・・・あれ?これってもしかして」
 千尋は笑って、木の葉を布都彦に手渡す。
「ホントに心当たり、ないの?紛れたんじゃなくて、忍ばせたんだと思うけど。コレ、たぶん月桂樹の葉っぱだよ。香りが良いからお料理にも使うんだけど、乾燥もしてないしね。なんで二枚あるかは分かんないけど、元々の意味で入れてくれた人がいるはずだよ?」
「元々の意味?」
「ほら、マラソンとかであるじゃない。優勝した人に月桂樹の冠をかぶせるの。ギリシャ神話がルーツみたいだけど、あれってこの葉っぱに『勝利』って意味があるからなんだよ」
 と、不意に風早の言葉が脳裏によみがえってきた。常ならず早起きした那岐が部屋に入っていったようだった、と。耳にしたそれが、今になって心に落ちた。面と向かっては何も言わないくせに、と。
「・・・あ。思い当たった、って顔してる〜!!ね、ね!!その子、今日来てるの?彼女だったりするわけ?」
「いや、今日は・・・っ!?・・・い、今なんと・・・!?」
「だ・か・ら!!その子と付き合ってたりとか、しないの?」
「・・・・・なななっ!!わ、私たちは、そのようなっ・・・・・!」
 明らかに動揺している布都彦を見て、千尋はいっそう楽しげに笑った。
「え〜、まだ告ってないの?あたしの知ってる子?協力してあげよっか?」
 返答に困って押し黙っていると、永遠に続きそうだった質問の嵐は意外なほどあっさりと終り、溜息が漏れた。
「・・・なぁんてね。幸せそうな人が周りに増えると寂しくなっちゃうのも確かだし。布都彦だからばらしちゃうけどさ、姉さまと羽張彦さん、いい感じなんだ。今日もね、ホント言うとデートなんだよ」
「兄が・・・ですか?そ、それはそれでまずいのでは」
「うん。まだ、ナイショ。姉さまがこっそり、教えてくれてね。だから今日みたいに偶然っぽく会えた時じゃないと、って。実はそれを一番に伝えときたかったの。布都彦にとっても、お兄さんのことだから。・・・あの、競技前の集中しなきゃいけない時に、ゴメンね?」
 手を合わせた千尋に、いいえ、と首を振って布都彦はその場を離れた。確かに驚きはしたが、葦原の本家、それも総領と関わるからにはそれなりの覚悟があるはずで。生来の楽天家ではあっても、その分別がつかない兄ではないことを布都彦は知っている。
 けれど、順が迫っているからと会場係に名を呼ばれても布都彦の中には別の靄がかかったままで。これではとても結果など残せそうにない、と首を振った時、会場の入口あたりがさざめいた。混乱、というほどでもないがざわめく気配に整備する幾人かが対応し、人垣が正される。と、見知った顔がその中にちらついた。
「・・・那岐」
 さざめきの一因であろう彼が、千尋と並んで何事か話している。距離もあり、詳細は伺い知れないが、恐らくは千尋からの苦情に応じているのだろう。けれど、やがて翡翠のその瞳がこちらを向いた・・・刹那。
 すべてが、見えた。あたかも、雲の切れ間へ陽が射すように。薄暗がりの中、気付かずにいた細部が心の中で浮き上がって、胸を軋ませていた痛みまでもが嘘のように引いてゆくのがはっきりと分かる。それではじめて、これまで不可解だった姿絵の破片がそろった気がした。
「・・・そう、か。そういう・・・ことだったのか」
 呟きと共に肩の力が抜け、身体が軽くなる。合図の声を聞いても、こわばった緊張もなく足が進む。
 そうして引き絞られた弓は、群衆が見守る中、静かな志となって的へと飛翔していったのだった。



 すべての競技が終わり、表彰もすんで帰途につく頃には陽は傾きかけていた。多くの生徒は貸し切ったマイクロバスやワゴンを利用する様子だったが、元より布都彦にそれはない。そして会場から最寄りの駅までのバスは、やはり不便極まりなく時間がずれていた。
「仕方がない。歩いた方が早くて確実なようだ」
 その言葉に、那岐も不肖不肖ながら頷き返す。そうしてなるべく駅に近いルートを、と選んで行くと川べりに出た。土手からは、遠く鉄橋が見える。駅はその近くにあるはずだった。
 途中、布都彦が振り返ると後ろを歩いていた那岐は、川面を眺めている様子である。
「・・・下りてみるか?」
 駅そのものには土手道の方が近いが、長く歩くには土や草のある堤防の方がいくらか負担は少ない、と知ってのことだ。とは言え、斜面はざっと40度ほどで、自然と手が伸びる。
「・・・なに?」
「いや、滑ると危ないだろう?」
 至極当たり前の口調に、揶揄の響きはない。重ねてみれば、強くもなく弱くもなく。ゆっくりと歩みを促すその手は、もう自分と変わらぬ大きさだった。生まれた時期の差は、ほとんどなくなってきている。年下だから、とはそろそろ言えそうもない。
「・・・惜しかったよね」
 那岐が言うと、布都彦は苦笑した。
「今はその程度、ということだ。二番手でも運が過ぎるぐらいだな。技を極めた方には、正直まだまだほど遠い」
「・・・いいんじゃないの、それでも」
 堤防に降り立ち、繋いでいた指をそっとほどくと、今度は並んで歩く。風はさほど強くなく、陽射しは柔らかに2人の足元から影を伸ばす。いつか見た景色だ、と布都彦が思っていると那岐は更に言った。
「誰もいなくなった部を一人で守ってくのって、さ。現実問題、多少は予算も取らなきゃだし、それには結果が出てないと厳しいんだろうけど・・・充分だよ、準優勝でも。けど、お前のことだからもっと上、見てんだろ?」
「そうだな。だが、自分のため・・・だけでもない。結果はいつも、裏付ける形としてその先にあるだけだから」
「ホント、面倒臭いヤツ」
 随分な言われようだが、悪意がないのは穏やかな面差しから知れる。と、その歩みはやがて止まって。
「けど悪くないと思うよ、そういうとこ。一人で頑張ってても、愚痴ったりしないとこ。結構デキるくせに、天狗にならないとこ。ほっとけないから、面倒なんだけどね」
 がさり、と手にしていた紙袋に手を入れて那岐は言った。
「ちょっと、そこ座って。あ、目も閉じてよね」
「・・・こ、こうか?」
 弓と荷物を傍らに置き、正座した布都彦に苦笑している様子が、ほどなく独特の香りに包まれて消える。と、何かが僅かな重みで髪に触れた。
「・・・もう、いいよ」
 目を開けると、膝立ちした那岐が驚くほど近くにいて。頭上の違和感に手をやれば、そこには先刻と同じ月桂樹の葉が輪になって連なっていた。
「これは・・・勝者の証、ではないのか?」
「いいんだよ。競う相手もいなくて、指導らしい指導もなくて、いつ廃部になったっておかしくないとこから今の結果を出したんだから。自分に勝った、って思っていいんだよ。それに・・・受け取ってもらわないと、なんて言うか・・・何年かぶりの早起きがムダにな・・・っ・・・」
 途中から、ぷいと横を向いてしまった那岐が立ち上がりかけるのが、嫌で。手を引いた形のまま、倒れこんできた身体を抱きしめた。
「・・・見つけた」
「布都彦・・・?」
 心を研ぎ澄ませ、理屈や慣習といった余計な枝葉を取り払った先で、とても大切で得がたいものを。
「・・・やっと、見つけたんだ」
 その、鼓動がいま、腕の中に在る。確かなその熱を感じる一方で、落葉樹の彩りがひとつ、またひとつ風に舞い、やがて水面に落ちた。幾重にも波紋を描き、やがてもがきながら沈み消えゆく、前触れとして。



第一部 Fin