週末恒例・大人の五体投地


2002年8月17日(日) 「自家発電

 30を半ばになっても辞められないことの一つに、オナニーがある。別に辞めても辞めなくてもいいのではないか、とは思うのだが、なぜか後ろ暗い。その後ろ暗さは別に30になろうがなろまいが昔から後ろ暗いのであるが、やはりこの年になると余計に後ろ暗く感じるのはなぜだろう。

 「オナニー」という語は、旧約聖書の登場人物「オナン」氏から採られており、ご想像のとおりこの「オナン」氏は人類史上初めて自慰行為を行った、いや自慰行為を人に見られたとされる人物である。当時、人類は部族単位で暮らしており、「部族の人口」すなわち「部族の力」であった。数の多い部族のみが他の部族を圧倒し、征服し、糧を得ることのできる地面を広げていき、ひいては生き残ることが許されるのである。であるからして、「人を殖やすことに結びつかない性行為=罪悪=部族の神に対する背信行為」であり、コレを源流として、現在でも自慰行為はユダヤ・キリストならびにイスラム教社会とその周辺では罪悪とされている。その思想的影響と、日本古来の「恥」文化とがあいまって、殊更に我が国では後ろ暗さを伴うのではなかろうか?

 セックスのほうがキモチイイと言う人が大半だとは思うが、オナニーのほうがいいという人も少なくないことは確かである。ワタクシの場合は、断固として「セックス派」であり、それはどうせ手で触るのなら、断然他人の手で触ってもらうほうがよく、手よりも口がなおよく、口よりもアソコがいい場合もあるがそうでない場合もある、という次第である。オナニーはあくまでもセックスの代償行為としてのレベルを超えるものではなく、ましてやそれに取って代わるべき存在ではない。

 ならばなぜ、オナニーが辞められないのであろう? それには「オナニー派」に属する人たちはナニをもって「オナニーがセックスよりもキモチイイ」と主張するのか、考察してみる必要があろう。

 そこでワタクシの友人で筋金入りの「オナニー派」に属するD氏(36歳・既婚)にご教授願ってみた。D氏はワタクシとは正反対の「セックスこそオナニーの代償行為であり、オナニーこそ人類が人類たる証である」という信念のもと、四半世紀にも及ぶ彼自身のオナニー歴から得た「オナニー哲学」を、酔うたびごとに披露に及ぶ困った友人の一人である。要約するとオナニーには以下の如き、彼曰く「セックスと比べての優位点」があるらしいのだ。

一.いつでもどこでもできる気軽さ! 
   思い立ったら即実行。
   トイレ、風呂は言うに及ばず、家人の隙さえあれば台所でも娘の部屋でさえも。
一.己独りのタイミングでイケる自由さ! 
   相手に合わせる必要も、そこへ至る面倒な手続きも一切生じない。
   所要時間さえも調節可能。
一.相手をとっかえひっかえできる奔放さ!
   あなたさえその気ならモー○。の全員一度に相手できるのだ。
   想像力・空想力・妄想力が知らず知らず身につく。
一.場所もシチュエーションも思いのままの自在さ!
   時空を飛び越えることすら可能である。
   クレオパトラでも小野小町でも。穴があろうがなかろうが。
   建造直後の仁徳天皇陵の玄室の中でいたすことすらもできるのだ。

 他にもいろいろあったのだが、特に目を引くところは以上である。なかなか立派なお説であり、“断固セックス派”を標榜していたワタクシですら「オナニー派」転向への揺らぎを感じたほどだ。想像力如何によっては、この世のあらゆる美女を我が物にできるのだ。ただしあくまでも脳内での話なのだが。

 彼曰く「AVやエロ本などに頼るのは想像力の退化につながり、最初の点火時以外に用いるのは愚の骨頂」である、という。
 またさらに曰く、「オナニーのための想像力を鍛える最適のトレーニング法とは、道行く美女を脳内でじっくりじっくり脱がせ、じっくりじっくり責め立てることなのだ」と言い切るのだ。
 そのトレーニングに埋没している時のD氏の目は、おそらくまるっきり変態の目をしているのではないか? そしていつか彼の名が、新聞の片隅をこっそり飾る日が繰るのではないか、と、実は密かに楽しみにしているのである。

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