足の指の間が痒くなる心意気
2003年6月16日(月)「頑張るのは誰のため?」 |
頑張る、と言う言葉は好きじゃない。他人に言うのも好きじゃないが、言われるのはもっとキライだ。 日本語の中で最も便利な言葉の一つである「頑張れ」。スポーツを観ているとき。落ち込んでる友人に。仕事の仲間に。受験生に向かって。ありとあらゆる場面で油断するとつい口をついて出てしまう「頑張れ」。ときには「頑張らんかいゴルァ!」だったりもするが。 でも「頑張る」という言葉に面と向かったとき、いつも考えてしまっていた。その「頑張る」はいったい誰のために「頑張る」ということなんだろう。 くじけそうなとき、というのは誰にだって、しょちゅうやってくる。例えば「もう、仕事、辞めちゃおうかな」と思うときや、もっとひどいときには「死んじゃおうかな」と思うとき。 月曜日の朝、一大決心の末、布団から抜け出すことができるのは自分のため、じゃない。駅に着いたら着いたで知らず知らずホームの端に立ってしまいかねない自分を、辛うじて一歩後ろへ引きずり戻すのも、決して「自分のために」じゃない。自分のためや、自分の将来のために「頑張る」には大変な意志の力と、己に対する厳しさが必要だ。それはとてもしんどい。そう、頑張るのは誰かのため。 自分のことを大切に想ってくれている誰かのためなら、もうちょっとだけ頑張ろう、ってそう思えるじゃないか。あの人を悲しませたくない、って思うことができるじゃないか。あの人が悲しむところを想像するくらいなら、もうちょっとだけ頑張ってみよう、って。 誰かのため。そう思うことで、かなり責任転嫁的で、多少ヒロイック的なセンチメンタリズムな感情だけど、肩の荷がふっと下りる。何かが浄化される。 自分のことをかけがえのない人だ、と想ってくれている人が、たった一人でもいれば。たった一人でもそんな人がいれば、明日もまた、頑張れる。 そう、頑張れるのは、キミのため。 |