女の城 姫路城

羽柴秀吉が西国の要の砦として「姫路」を欲しがり、御着城(小寺豊職(とよもと))の出城であった
姫路砦を、当時任されていた「黒田官兵衛」が、主に背く形で差し出したことから、姫路城の体裁が
整いはじめた。秀吉は、ここに三層の天守閣を築き西国へのにらみとした。(当時の石垣や油壁も
現存)その時に秀吉の愛妾として「姫路殿」がいたが、ここでは徳川政権の一翼として、池田輝政
が、ほぼ現在の姫路城を築いた後の「女の城」を考えたい。


最初の姫は、「督姫」(ごうひめ。名は「おふう」とくひめと読む書物多い)であった。督姫は、政略結
婚(和睦の手段)として、7歳で北条氏直に嫁ぐも秀吉に攻められ北条氏は滅亡。氏直は家康に嘆
願して助命されるも間もなく死亡。
14歳で江戸に帰っていた督姫に池田輝政との縁談を進めたのは、なんと秀吉であった。
(輝政はまだ秀吉派であった)
輝政(三男)は、父と兄(長男)を家康に殺されていたことから、喜んだ縁談ではなかったかも知れ
ない。
しかし、結果的に家康と秀吉の対立が決着すると、家康は西国の要「姫路城」を娘婿である輝政
に任せた。輝政は8年の歳月をかけて、姫路城を、城下町を築いた。

次に姫路城に来たのは、桑名10万石の本多忠政の嫡男忠刻(ただとき)に嫁いだ「千姫」(徳川
秀忠の娘
)である。5万石の加増と千姫の化粧料10万石が加増されたから・・・秘密24」を参照
して下さい。
千姫の為に、池田家は鳥取藩と岡山藩に分かれて移封させられてしまった。かの地で徳政をひい
た池田家が姫路にいたなら、疲弊した藩政もなかったかも知れないし、藩校も「閑谷学校」のよう
に栄えたかも知れない。

ただ、二人は本当に仲がよく、新築された「西の丸」での生活はどんなものだったのでしょうか。
西の丸は「武蔵野御殿」とも呼ばれ、金泥、銀泥など贅をつくした襖絵は武蔵野の風景画描かれ
ていた。(残念ながら焼失)
最初、桑名に嫁ぎ(元和4年、1618)、翌年姫路にきた時に二人の読んだ「連歌」が残されてい
る。

「初秋の 風を簾に まきとりて」 忠刻
「軒端ににほふ 竹の葉の露」 お千(千姫)

そして、次が「秘密30」の榊原政岑(まさみね)1732〜です。幸運にも500石の身代から一挙
に15万石の太守になったから、遊び放題で、遊女高尾」を身請けするのに莫大な費用でもって
散在した。
高尾身請けに対しての費用:総額6000両=4億8000万円。身請け=2500両+吉原五町の引き祝いの惣花=3000両+その他雑費(吉原の道路に玉砂利を敷き詰めた等=500両)


その姫路へ下る道中さえ煌びやかなものであった。

もうないと思われる「女の城」は、幕末近くになって天保2年(1831)のことであった。
城主酒井忠実(ただみつ)が、犯した失敗である。
江戸城に登城するときに甥(おい)の忠学(ただのり)を、将軍、徳川家斉(いえなり)に拝謁させ
たことであった。
なぜか家斉はこの忠学がいっぺんに気に入り、側衆としたから事態が変わってしまう。将軍の身辺
にいるということは、徳川家斉の娘喜代姫」の目にとまり、恋慕されてしまった。
封権社会は、血というもの尊び、士農工商の身分制度の根幹ですから、甥という身分だから、江戸
に連れて行ったのに・・・・。しかし、絶対権力の将軍は別の魔物でした。
家斉は、忠実に喜代姫と忠学との婚姻を認めさせ、その上、忠学を姫路城主にすることを約束させ
てしまった。あ〜あ!忠実には、実子忠儻(ただよし)がいたのにである・・・・。

余談:汽車などに中抜きで乗車する不正に「薩摩の守(さつまのかみ)」というキセル乗車の謂われは
薩摩の守忠度(
さつまのかみ ただのり)からきている。忠学もただのりだが、歴史上有名でなかった
ので・・・・・。