歴代最も幸運な姫路城主

池田家(1600〜)、本田家(1613〜)、松平家(1638〜)榊原家(1649〜)のあと松平家、本田家と
代わり、再び榊原家がきたのは1704年(宝永元年)であった。

その三代目が「榊原政岑(まさみね)」である。
この政岑が、歴代姫路城主の中で最も幸運な、いやユニークな人物である。政岑は、榊原家の分家の
榊原伊織(1000石)の次男坊で、「大須賀頼母(おおすがたのも)」と名乗って、姫路で500石の捨扶持
をもらっていた厄介者のような存在です。
ところが、1731年に生家の兄勝久が亡くなり、生家に帰ってその分家(1000石)を継いだ。ところが、
その翌年に姫路城主である本家の榊原政祐が亡くなり、なんと跡継ぎがなかったことから、本家のあと
を継ぐこととなった。即ち姫路城主(十五万石)となった。20歳だった。歴代最も幸運な男である。

ところが、この政岑はとんでもない城主でもあった。
江戸にいるときに(参勤交代で)、他の大名達と吉原で豪遊。名高い十一代目「高尾」を身請けするまでの
散財をしたのである。その豪遊ぶりは「播磨色夫録(はりましきぶろく)」に詳しい。
高尾太夫が姫路に下る道中は煌びやかなものであった。そして、千姫御殿に住まわせた。

これが、幕府から「行跡よろしからざるにより、隠居謹慎を申し付ける」となった。しかし、家老がなんとか
※言い訳をして取り成せたから不思議です。(幕府も平和な時代となっていたから寛容?)

家老の言い訳:小身の出の政岑の乳母は、当然身分のある者でないのですが、その娘が遊女になって
いるのを偶然目にして、哀れに思って身請けした。:幕府もこれを信じた。又はどうでも良かった。

その後、子供の政永が7歳で後を継いだが、越後高田に転封となり、高尾を連れて越後に移ったが30歳
で死んでいる。高尾は死ぬまで榊原家にいた。墓も榊原家の菩提寺(雑司ヶ谷の本立寺)にある。

18歳(500石)〜19歳(1000石)〜20歳(15万石)と波乱の人生と言ってよいが、城主としては、成り
上がり故か、善政の史実は聞かない。本人は満足の10年だったでしょうが、藩民にとっては、江戸から
次々と「金送れ」の催促がある、「貧乏人のお坊ちゃん」のような存在でした。

※ 言い訳:「城主政岑は、ご存知の通り小身の出ですから、乳母も農民でした。その乳母の子供が遊女
   高尾であることが偶然に解り、不憫に思って身請けするもので、浮ついた考えからではありません」
   なんと、いいこんな加減な言い訳を許した幕府も平和ボケの時代だったからでしょうか?