波乱の人生千姫の秘密

現状の姫路城と城下町を作った池田輝政(1600年より城主)から、その長男池田利隆(1613
年〜)、その子池田光政(1616年〜)続いた池田支配は光政が鳥取因幡に移り、その後に、
本多忠政が伊勢桑名10万石より入封した。その時に忠政の長男忠刻(ただとき)に嫁いでいた
「千姫」も移ってきたのです。
初代将軍徳川家康の長男徳川信康は織田信長から武田勝頼への内通の嫌疑をかけられて自
刃。次男徳川秀康は豊臣秀吉に養子、後に結城家に養子、後、越前福井城主(68万石)他家に
養子の秀康には冷たく、将軍の道はなかった。そんなことで家康は三男徳川秀忠に二代征夷大
将軍の地位を与えた。その秀忠の長女が「お千」(千姫)である。
千姫(1597〜1666)は7歳で大坂城の豊臣秀頼に嫁ぐ(まだ家康より秀吉の力が強く人質の政
略結婚)後、大坂城落城炎上のとき、秀頼は自害。千姫は火中より逃れるときに「坂崎直盛」に助
けられる。家康が「千姫を助けた者に妻として与える」と言ったと伝えられ、千姫が江戸より桑名の
忠刻のもとに向かおうとしているときに、その輿を奪おうとした。これも家康は予想していたらしく、
なんと直盛の家臣に襲わせて殺害。
話は戻りますが、落城大坂城より江戸に向かう道中桑名で本多忠政の長男忠刻を見て一目ぼれ、
美男と評判の相手であった(千姫まだ18歳)。好きな相手と結婚できるなんて考えられない時代
に忠刻と結婚できたのは家康も秀忠も溺愛していたからである。
そして、この結婚が父の本多忠政の出世をももたらした。国替えで姫路城に移ったときに5万石を
加増されて、15万石となった。そして千姫(忠刻)には秀忠より持参金としてなんと10万石が与え
られた。10万石がいかに破格のものであるか、以前の伊勢桑名が10万石だったのですから。
忠政は若い二人のために三の丸に武蔵野御殿と西の丸に中書丸(ともに焼失)を造り、その他に、
千姫に写真の長局と化粧櫓(写真長局と右の張り出しが化粧櫓)長局は100間廊下とも言われ、
侍女と下女の居室がある。(千姫には23人の侍女と16人の下女、子勝姫には3人の侍女が付いた)
化粧櫓は18畳、15畳、6畳の3間です。
千姫は勝姫に続いて嫡男「幸千代(こうちよ)」にも恵まれたが、2年後に死去。男山に天満宮を祀り
朝夕化粧櫓からお祈りしたといわれている。(今は千姫天満宮と呼ばれている)
そればかりか、結婚10年目には忠刻が(1626年)死去29歳。千姫は勝姫と共に江戸に出る。
勝姫は6歳で父忠刻を失ってのち、千姫と江戸に出るんですがおじいさんの将軍秀忠の養女となり
姫路城主から因幡鳥取城主になっていた池田光政に嫁ぐ。

池田光政(1609〜1682) 姫路城主池田輝政の跡を継いだ父池田利隆が31歳で死去したため
に僅か7歳で姫路城主となったが、翌年には因幡鳥取に32万石に転封。その地でなんと千姫の
長女勝姫(将軍の養女になっていた。千姫や孫を溺愛。)と婚姻(光政22歳、勝姫11歳)。のち、
1632年備前岡山城に国替えとなる。岡山藩では仁政を敷き、名君と称えられて今に残っている。
「岡山城(烏城)」、「後楽園」、「閑谷学校」は今も観光客を集めている。