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26 被害者感情

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突然の喪失を経験した人は、最初、心に大変な衝撃を受け、混乱のなかで、これが現実のはずじゃない、嘘であって欲しいと考えます。
喪失が動かし難い現実だとわかると、次には猛烈に腹がたってくるものです。

暴力被害に限らず、自然災害でも不慮の事故でも病気でも違いはありません。
自分の身にふりかかった災厄に憤り、「なぜ自分がこんな目にあわないといけない」と怒る気持ちをどこかにぶつけずにはおれません。
そこで原因を求め、理由をさがし、責任を追及しようという気持ちが働きます。
ふりあげた拳を誰かにぶつけなければおさまらない。
加害者がはっきりしている時には、この気持ちがストレートにそこに集中します。

加害者がいるから腹がたつのではなく、腹がたつから加害者を捜してなぐりつけないと気が済まないのです。

怒りのエネルギーは事故の真相の究明であるとか、稚拙な災害対策への糾弾であるとか、同じ苦しみを繰り返さないための原動力として働く時も、もちろんあります。
しかし、犯人をみつけないではいられない、誰かが悪いことにしてそいつにも同じ苦しみを味わってもらわないことにはおさまらない、という気持ちが走りすぎることも問題を生みます。

たとえば救急医療の現場で、患者を救えなかった医療機関を一方的に責めるだけでは治療の難しい症例の引き受け手を減らすだけです。
また、犯罪が疑われる場合でも、最初に逮捕された容疑者をともかく断罪しなければ被害者の気がおさまらない、といった考えでは冤罪を増やしかねません。

いっぽうで、真犯人をつかまえて正しく刑を執行すれば、それで被害者の気持ちはおさまるでしょうか。
殺人犯をつかまえて死刑にしても殺された人は生き返りません。
怒りをぶつけて一時的に高ぶる気持ちをおさめても、被害者が本当の喪失感にさいなまれるのはその後です。
「悪い奴はやっつけたのだからこれでおしまいです」
「だから、いやなことはさっさと忘れて生きなさい」
このような考え方は、遺族や生き残った被害者の感情に沿うものではありません。

被害者感情を本気で尊重するというなら、喪失をかかえて今までの予想とはまったく異なってしまった人生を歩む人たちに末永くつきあうことが必要となります。
報復は、たとえそれが司法の手続きを正当に経たものであっても、長期間にわたる被害者救済の役にはたちません。


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