ホーム :


24 応報の行き着く先

前へ 次へ

暴力は人を傷つけます。死や障害にいたる深刻な加害はもちろんですが、肌の疵痕が跡形もわからないほど治る程度のものであっても、暴行を受けたという経験は一生涯、被害者に忘れられることはありません。
そこで破壊されたもの、失われたものは決して取り返しがつかず、無かったことにもできないものです。
現実の法秩序のもとでは被害者に対する救済、加害者に対する罰則というかたちで何らかの弁済をはかることが考えられますが、所詮は次善の事後処理であって、被害が本当の意味で帳消しにされることなどあり得ないのです。
ありえない救済を追い求めることで被害者は状況をさらに悪化させていくことがあります。
「目には目を」を実践して加害者に暴力をくわえても、暴力被害が増大するばかりです。一時的な鬱憤晴らしにはなるかもしれませんが、被害者の痛みの記憶がなくなるはずはないのです。
「自分がされたことを誰かにやり返す」その相手が自分より弱い者であれば暴力の拡散に手を貸すだけです。
身内を殺された人が犯人を殺しても(法的には死刑制度という手段をとるわけですが)最初に殺された人が生き返るはずはありません。

私は、法の名の下に権威がふるう暴力(司法、警察など)の唯一の根拠は被害の拡大を防止することだと考えています。
ここに被害者の心情救済であるとか、加害者への報復感情がからむと(いわゆるオトシマエ)話がおかしな方向へ進んでしまいます。
たとえば「死刑を覚悟で人殺しをする」「後で償うのなら暴力をふるってもいい」「こっちから仕掛けるから、そっちもやり返してくればいい」などという人がでてきます。
殴り殴られ殺し殺されでおあいこなどというのは報復主義、懲罰主義から生じる誤解であって、死体がふたつ転がる結果は決して帳尻のあうものではなく、周囲の人たちを含めて大きなダメージを残す社会的損失でしかありません。


前へ 次へ
目次に戻る