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8 なぜ損得論を語るのか

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「暴力はいけない」ということを語るのに、人権、人道、法律、福祉などの立場から「べき論」を援用する人はたくさんおられると思いますし、私なんかがするよりずっと立派な論議はいくらでもあると思います。
ここであえて「損得勘定」の話をするのは、「建前論なんて現実には役に立たない。本音は別のところにある」という考えがはびこっているからです。
手段としての暴力を行使する人たちは、
「相手の立場ばかり尊重していたのではこちらが被害をこうむってしまう」
「実際に有効な手段であるのに理屈で抑えられるのは心外だ」
「みんな口ではきれいごとを言っていても、いざ自分の立場になればやってしまうはずだ」
「そっちは暴力を否定するなら、こっちは好き勝手させてもらうけど、文句はないな」
といった屁理屈を展開しがちですし、
暴力を否定する人たちのなかにもいろいろあって、
「ともかくだめなんだ」
としか理解していない人は
「相手が好き勝手やっててもこっちは我慢しないといけないのか」
「相手が先にルール違反をするならこっちだって受けて立っていいのではないか」
「どのみち暴力に訴えるような人は暴力で抑えるほかにつける薬はない」
といった考えに走りがちでしょうし、よほど理屈をふまえた人でも
「そうはいっても例外的に必要になる場面はあるだろうし、状況次第では使いようだろう」
と考える人はたくさんいると思います。
私がここで文章を書いているのは、暴力の有効性を信じるのは考えが足りないですよ、あなた早まったことをするとあとで大損しますよ、ということをどちらの立場の人にも知らせたいからです。
そうすれば、加害をしようとする人にも
「被害者がどうこういう以前に自分が不利益をこうむるのはごめんだ」
と考えてもらえるだろうし、被害にあいながら手を控えている人にも
「相手はわざわざ墓穴を掘っているのだ。同じレベルで応戦するのはこっちにとっても損害だ」
と考えてもらえるからです。
そのために、なるべく具体的で身近なレベルの話を積み上げていけたらいいと思っています。


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