大和国宝寿山龍象寺(広大寺奥之院)の歴史

本尊 本朝第一 行基帯解子安地蔵尊(宝物帳記載名)

○推古天皇21年(613)、聖徳太子光台寺(広大寺)を創建。

○天智天皇7年(668)、行基菩薩生誕の折、俗に袋子という状態で、胞衣に
 つつまれて生まれた。よって、外の榎の株に置くと、その袋が破れて、
 玉の如き男子が出生した。その時、母公は難産なる故、一心に地蔵菩薩
 を信念したところ、恙なく生まれたと言う。

 そのような仏縁なので、後(のち)に行基は出家するに至った。

○天平2年(730228日、光明皇后の安産の祈願を行基菩薩に命じられた。
 行基菩薩は、聖武天皇の勅願をもって光台寺(広大寺)の奥之院として、
 当寺を草創。光明皇后
無魔平産を祈願されました。
 かつ又、行基菩薩は、母公の報恩のため、一刀三礼にて腹帯を身に纏った
 帯解子安地蔵を彫像した。即ち、皇国にて最初の子安地蔵なるが故に
 本朝(日本)第一と言う。
 同時に行基菩薩は、末世の婦女の安産のために、帯解泰産の符を印造した。
 (その
泰産霊符は、当寺に現在に至るまで継承され、安産祈願の帯守り
 として授与されている。)それより当寺は
泰産寺とも別称された。

皇后は、帯解子安地蔵に対する崇敬篤く、御自筆の経巻(「阿含経」)
 を当寺に納めた。(寺宝となる。)


○天平7年(735)、藤原淡海公(藤原不比等)の子、当寺に塔一基を安じ、
 更に坊舍を数宇、諸の建物を建立し始める。


○天平
19年(747)、藤原淡海公の子、当寺の伽藍、建立を終える。(境内1町四方)



10世紀末、恵心僧都源信、行基菩薩の芳躅を尋ね来て、数年に亘って当寺
 にて修行。よって、寺の前の坂を
恵心坂と号す。(江戸期には当地は柳生
 の支配となり、恵心坂から
正木坂となった。正木坂は、柳生に存在する。)



○天文16年(1549)、古市播磨守、今市四郎右衛門と隙(げき)を生じ、古市
 兵を発して今市を攻める。この時、当寺は火災に罹る。


○永禄年間(1558-1569)に至り、松長久秀、来って当寺に陣を布き、火災を
 発し、本堂・開山堂・内仏堂の三堂のみを残し、伽藍、僧房等、灰燼に帰す。


○元禄8年(1695)、大和北部88ヶ所中、第67番となる。その御詠歌に言う。
 「気もやすく
身もかるがると 帯解けて 子安地蔵に 参るうれしさ」

○享保元年(1716)、皓峰住職、修繕を始むと雖も、千年経るに近き名刹なれば、
 容易に成らず。


○享保9年(1724)、南都興福寺貫首・一乗院門主・二品尊昭法親王は、行基
 菩薩草創の当寺に愁いて、高名な黄檗山の
百拙大禅師を京都より招聘し、
 当山に住せしめた。法親王は、当寺にしばしば来駕され、百拙禅師に参禅。
 その傍らに詩文・書画を百拙禅師より学び給われた。


○享保19年(1734)、法親王より御自筆の六字(龍象資聖禅寺)扁額を賜わる。
 ここに、堂舎荘厳されて、復興成る。


○寛保2年(17428月、大風に依って本堂傾廃す。筑前出身の瑞雲禅師、来寺
 して修復に着手する。師は、
筑前の黒田公の帰依を受く。よって、大阪の筑前
 の浜の蔵屋敷より米を寄贈さる。それを数十年に亘り資金に替えて蓄財する。


○明和2年(17653月、本堂等修復される。現在、本堂の前に、明和三年と彫ら
 れた石灯籠一対あるのは、筑前の浜からの寄進である。


○寛政の頃(1789-1800)、江州の泉水寺住職たる珉山西堂、修繕を加え、祠堂金
 を附属し、徒弟の
新州を住まわせる。珉山師は、鎌倉及び諸方において、衰頽
 せる有名寺院十ヶ寺を興起せしめた。当寺は、その中の一寺である。


○天保5年(1834)、相国寺塔頭光源院、拙庵大和尚、当山に移住(隠居)。
 爾来、相国寺派に属す。


○天保6年(1835)、当国郡山城主柳沢侯の帰依を受け、当山護持のため、勧財
 せられる。


○天保12年(1841)、当寺の梵鐘を再鋳する。円照寺の帰依浅からず、鐘銘の山号、
 寺号の書は、
山村円照寺第6世常応心院(大機文葉女王)宮御方の筆蹟である。

  この時、徳川将軍家(父恭院公)、御本丸(御台所は円照寺宮の御妹宮)、
 西丸(御台所は伏見宮の御姫宮)、両御台所御方より、御寄附金下賜され、
 並びに奥向女中
43名より寄進物あり。鏡150枚、金銀の簪(かんざし)・小道具
 類数百品、通用する金銀貨合計一百円等である。


○慶応の頃(1865~)、地蔵講が結成され、当寺の修覆銀行手形として、銀札を
 発行(銀
1匁と銀5分の2種)。1匁の銀札には龍と象の絵が画かれ、龍象寺の意で
 ある。「地蔵講中 揔代中 帯解 油屋善右衛門」の記載がある。


○幕末の頃、国学者の藤木良弼は、当寺の北側の高井氏宅付近に住み、
 帯解「たちばなや」(当寺前)に宿泊。同じく国学者伴林光平と語り合った

 という。後に境内の北側に藤木良弼の石碑が建立される。その名にちなみ、
 藤の木も植えられ、現在も開花し続ける。


○明治13年(1880)鐘楼再建される。なお、円照寺伏見文秀女王殿下あつく信仰
 せられる。
山村円照寺の御寄金あり。舜堂師の記録誌あり。これに相国寺大僧正
 獨園
の銘が載る。

明治17年(18849月、龍象寺境内右側に「六村小学校」(窪ノ庄、田中、山村、
 今市、柴屋、池田)設置。もと寺小屋の所なり。


○明治20年(18875月、六村尋常小学校と改称。及び同境内に帯解高等小学校を
 設立。
(境内図面あり)

○明治44年(19119月、本堂の前(北側)に木原保吉(宝巌鉄了居士)功労碑
 建立された。氏は当寺の檀家であり、奈良県で最初に教科書の販売権を持っていた。
 その権利を諸氏に分け与えた。明治
39年没。

○昭30年(1955310日~77日、大改修工事(本堂屋根瓦葺替等)あり。
 修繕の木札(
52cm×14cm)には以下の如き記載あり。
  住職 松本耕宗代46才 總工費85万円 是時職人手間1800 是時米一升代130
     大工棟梁  木村房之     屋根 武村常太郎
     大工    木村正治        武村弥次郎
           家根末吉        手伝 3
           染井
           其他弟子
      なお、この木札は大般若経600巻によって祈祷されている。

○昭30年(195510月、藤堂藩古市陣屋から帯解小学校に移された最初の校門が
 当寺に移転される。

○昭和35年(1960)頃、当寺、以下の歌詞にて歌われる。
 ―昔々の子守歌
 「ここは帯解け 帯をたばるは子安の地蔵 奥の院」 
たばる=いただくの意

○昭和44年(1969)、理由あって相国寺派を離れる。単立寺院となる。(住職松本耕宗代)

○平成23年(2011)、行基菩薩の法灯護持のため、単立から高野山真言宗に加入する。
 (住職浅井證善代)

○令和3年(2021)12月、現住(浅井證善住職)が平成に発願した大修理・建立の功が成り、落慶法要。
 仏堂(明王堂)、客殿の建立。鐘楼堂、壁などの修理。(事後行程全了、令和5年)

○令和4年2022)3月、賓頭盧尊者像を住職個人(浅井證善)の発願にて建立。

※寺歴、本尊略縁起、境内案内(末に詳述)、百拙禅師のページ等もあわせてご覧ください。
 



当山の宝物(古記録)
 注:以下は古記録によるもので、既に失われて現存していないものもある。本尊、龍の天井画
   百拙禅師著作などは、サイト内の各ページを参照されたい。


一、阿含経(光明皇后御筆) 壱巻
一、百拙伝記(西京法蔵寺百拙徒弟蓮峰筆) 壱巻
一、当山縁起式(石山前権中納言基香卿筆)
一、大祖行基菩薩(この中の安産腹帯は行基菩薩の自作)壱巻
一、寺号勅額(尊昭法親王筆)壱面
一、扁額(霊元帝御夢ノ和歌題字ヲ韻トシ詩及作文ス。尊昭親王ノ命ニヨツテ
  百拙禅師、之ヲ作ル。)一面

一、開山行基菩薩泰産帯 一軸
一、料紙御和歌 尊昭法親王御筆 一幅
一、扁額 木作金字 支那人霊峰筆 一面
一、不動明王刻像記 前相国祖縁筆 一幅
一、観世音菩薩 14寸 運慶作 一躰
一、勢至菩薩  14寸 運慶作 一躰
一、紺紙金泥大日如来画像(恵心僧都筆) 一軸
一、青面金剛 65分(円照寺門跡ヨリ伝来) 一躰
一、宝寿山八勝図 後藤竹軒筆 一紙
等々である。


龍象寺歴代住職
(平成2510月現在判明分のみ。数度の兵火に罹り資料少なし。)

行基菩薩(開基、天平2年)
以後しばらく行基菩薩の法脈に属する僧が続く
恵心僧都源信(仮住、10世紀末、数年在住)
皓峰  (享保~)
百拙元養(中興、享保~)
浄譚(じょうたん)(仮住)
瑞雲  (寛保~)
珉山西堂(寛政~)
新州(ていこう)(寛政~)(注)の字は鼎の俗字
月舟古帆知客(寛政~)
光源院拙庵(天保~) これより相国寺派)

恵操圓明尼(嘉永冬~)
法印信的 (幕末~明治3年)  真言宗
法印鑁海 (明治3年~同12年)真言宗
法本舜堂(明治14年)  相国寺派
井上敬林(明治27年) 副司、禅海
芝帝龍雲(明治41年住職)
中川苔巌(昭和16年住職)
松本耕宗(義正)(昭和20年住職、昭和44年単立本山とする)
松本慈峰(昭和63年住職代務)
浅井證善(覺超)(平成19年住職、平成23年高野山真言宗に入る)



当寺の護持に尽くした主要人物
1.聖武帝
2.光明皇后、
3.藤原淡海公の子(天平年間)、
4.興福寺貫主・一乗院門主・二品尊昭親王(享保~)、
5.筑前黒田公(寛保~)、
6.郡山城主柳沢侯(天保~)、
7.山村円照寺
6世常応心院大機文葉女王(天保~)、
8.山村円照寺伏見文秀女王(明治~) 等




広大寺(光台寺)池
 広大寺(光台寺)池の歴史は古く、垂仁帝の35年(AD.6)に始めて作ったと伝え
られ、仁徳帝
13年(325)、和珥池(わにのいけ)として造り、推古帝21年(613)、
聖徳太子が勧農のため大きくしたと伝える。『日本書紀』には和珥池の名称が出る。

 この池の南面に一段高くなった畑地(約一反歩)に瓦等の出土ありて、広大寺
(光台寺)の址
と推定されている。この寺は聖徳太子創建とされ、龍象寺は、この
奥之院と称されている。

 大和の益田池(現在の橿原市)は弘仁13年(822)着工、天長2年(825)に完成と
伝え、弘法大師の「益田池碑銘」は有名。この頃、弘法大師、広大寺池を検察し、
当寺に巡錫された。

 なお、この池には、古来より龍神が棲むとされ、龍象寺の守護神となっている。

 ※広大寺ならびに広大寺池については、寺歴、竜の伝説のページもあわせてご覧ください。




当寺を非難する記事がありますが、本寺(広大寺奥之院龍象寺)の開祖行基菩薩および
本寺を支えて頂いていた諸先徳への報恩謝徳、ならびに現在本寺を支えてくださってい
る檀信徒の方々のため、本寺の歴史の一端を公開します。(平成
2412月)

ここに、『高野山教報』平成2511日号掲載の高野山真言宗管長猊下の御言葉を紹介
いたします。


「冬天暖景」     総本山金剛峯寺座主 高野山真言宗管長 松長有慶猊下
 (前文省略
 
「冬天(とうてん)に暖景(だんけい)なくば、梅麦(ばいばく)なにをもってか花を生ぜん」。
これはお大師さまが奈良の元興寺の僧、中璟(ちゅうけい)の罪を赦しを乞い、朝廷に提出し
た文の一節です。

 冬の厳しい寒さの中でも、わずかに暖かい光が差し掛けるからこそ、春になれば美しい花
も咲くのです。

 このようなお大師さまの温かいお言葉に接すると、他の人を責めることだけに血道を挙げ
る現代社会の風潮に違和感を抱くことが少なくありません。

 他人の気持ちを少しでも思いやり、理解を深めることによって、非難の矛先がかえって
親近の情に変わることもありましょう。

 昨年の十月一日号の「高野山教報」に掲載された中国の赤岸鎮の空海紀念堂に駐在されて
いた中島能範師の「日中の死生観の違い」の文に教えられました。

 死を美化する日本人、生にしがみつく中国人の性格の相違について説明し、文化や価値観
に違いがあって当たり前であって「相互理解の第一歩というのは、ちがいを知り、ちがいを
おおらかに受け容れることから始まります。どんな国家、どんな民族であっても同様です」
と論じておられます。

 国でも、民族でも、あるいは人間同士の関係でも、相手を非難し、責めることをひとまず
措いて、それぞれがもつ相違を知ったうえで、相手の特徴を認め、尊敬しあう、このような
気持の変化が私たちの冷えた心にゆとりを取り戻すきっかけになるに違いありません。冬天
に少しばかりの暖景、今年私たちは心掛けたいものです。
 
                (『高野山教報』平成
2511日号より)

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