龍象寺の帯解龍伝説について

「日本昔話」の帯解の龍

      紙芝居…平成二十二年初夏、奈良遷都千三百年記念という
      年に、当寺の有名な帯解龍王の話が紙芝居になりました。
      「奈良市民企画事業」の制作であり、県内の教育機関に
      配布されました。(非売品)
      本家本元の当寺でその紙芝居を上演すると、本堂の天井の
      帯解龍が今にも絵の中からぬけてきそうな雰囲気となり、
      子供達は目を丸くして聞いていました。

       (内容)
       昔々、奈良の帯解の地に大きな龍が棲んでいました。
       時々、大水を出したりして暴れるので皆が困ってい
       ました。その折、一人の旅人がやってきて龍を退治
       してやろうと言いました。旅人は広大寺池の中央の
       波立つところを目がけて矢を放ちました。龍は天に
       昇り一旦は死にましたが、生き返ってその後は仏様に
       仕え善い龍となりました。その龍の絵が龍象寺の本堂
       に描かれ、帯解龍として、安産の為に活動しています。



☆龍象寺(広大寺奥之院)の龍

 当寺は西側に存在する広大寺池のほとりに、かつて存在していた広大寺の
 奥の院に当たります。その池の主の姿が天井の龍です。

 龍象寺(りゅうぞうじ)の龍象(りゅうぞう)とは、今は大きな龍を意味し、
 広大寺池の龍を寺の名としています。この龍の威光はあちこちで語られて
 います。寺伝では享保年間に当寺を中興した名僧百拙禅師が、朝になると
 本堂の畳がいつも雫で濡れているのに不思議と思っていたところ、何と、
 夜な夜な天井の龍が絵から抜け出し、表の広大寺池であそび、朝帰りをし
 そのおりに髭から雫を落としていたということです。

 後日談があって、百拙禅師は、龍が抜け出さないように目に釘を打った
 とか、鱗3枚を墨で塗りつぶしたとかという話は、世の人の戯れの談です
 龍の体を痛め、汚すことをなぜ住職がしなければならないでしょうか。
 考えたらわかることです。

 ところで平成22年7月、一人のご婦人が参拝に訪れました。地元出身の方で
 あり、何と少女の頃、広大寺池で龍が首を出しているのを見たというのです。
 その時に幾人かの大人に一生懸命事実を告げたのですが『そう、そう、あの
 池にはいるのよ』とみな同じ返答をするばかりだったとのことです。

 実は何を隠そう、この私もこの龍を見ました。
 平成17年初冬、私はまだ高野山にいた時のことです。蓮華定院の師匠から
 『あなたもそろそろお寺を持ったらどうか、明日その話をしよう』
 『わかりました、明日参ります』
 という約束を交わしました。
 ところが翌朝、目覚める直前、大きな龍が眼をらんらんと輝かし、その長い
 髭を動かし、本堂まで見せたのです。

 見たのは事実ですが、それは夢か、幻か、はっきりとしていません。
 私は今まで修行をしている時などにしばしば霊夢を見ているので、直感的
 に何かの知らせであろうと考えました。むろん、その時はまだ師匠の方か
 ら、お寺の名前も場所も一切聞いていなかったのです。
 午前10時頃、師匠に会い、そこで奈良の帯解駅前の龍象寺が、住職を探し
 ている、と初めて聞いたのです。その時本尊の帯解子安地蔵尊のことに
 始まり、次に龍の話に及びました。そこで私ははっと気づき『じつは今朝
 の起き覚めに、大きな龍が現れました』と言うと、師匠は『それは貴方、
 ご縁があるかもしれない』との返答。

 その後、龍象寺の前住職と会うと、とんとん拍子に話がすすみ、後住に
 決まると、またかの龍が夢に現れました。それは本堂前の老桜に、その
 長い体をぐるぐると巻き付け、髭を垂らし、極めてうれしそうな顔をし
 ていました。

 当寺では広大寺池の竜神(帯解龍)は、天井の大画に向かって直接供養で
 きづらいところから、昔から弁才天立像にお魂を鎮めて、読経、供養して
 います。

  平成22年12月14日
             住職  浅井證善 記


 * 龍の存在 … ちなみに龍は単に想像上の生き物ではなく、
     大生命の世界で実際に存在しています。修行をすると
     その事がよくわかります。普通の考えで、本当は龍は
     いないなどと判断するのは誤りです。



帯解龍 本堂天井画(18世紀 狩野春甫筆)

    宝物帖では「九龍図」とも書かれている。むろん一匹の大龍
    であるが、九龍とは九頭龍の如く、一匹にして九体の龍の如
    き威神力を持つ意と理解できる。頭をいくつも持って出現し
    たとの話もある。
      
    春甫筆の帯解龍の画はトップページをご覧ください。


☆ 狩野春甫について

    狩野春甫の生没年は不詳であるが、江村春甫の名で京都の
    鶴澤探鯨(1687-1769 狩野鶴澤派第2代)に師事した。
    探鯨の弟子には、狩野鶴澤派第3代鶴澤探索(1719—1797)、
    歌川豊春(1735-1814)、石田幽汀(1721—1786)そして江村
    春甫がいた。春甫は、師探鯨とともに寛政2年(1790)に
    禁裏造営の際に障壁画制作に加わったとされており、
    当寺の龍画もその前後に描かれたものではないだろうかとの
    推測をしているが、神社への絵馬奉納などでは明和の年号も
    見られるので、今後の研究を待ちたい。
    ちなみに、狩野派は正信ー元信と続き、元信には三人の子供
    がいた。長男は早世し、宗家は三男の直信が継承した。元信
    の次男 秀頼の流れを汲む稲荷橋狩野家には春の一字を付く
    名前が多い。この系統に属する絵師であったかとも思われる。

    なお、敦賀市博物館には「気比社頭図」が収蔵されており、
    八坂神社、安井金毘羅宮、紫野今宮神社の絵馬や、
    和歌山県田辺の真砂家には幽泉に宛てた春甫らの手紙も残
    っているそうです。
    

☆書籍紹介
 『西国三十三カ所道中の今と昔』上・下
 (森沢義信著 2010年7月、ナカニシヤ出版)

        この著(上巻)の中、龍象寺が詳細されています。
        この本の内容からも当寺が本邦最古の安産祈願所
        と思われます。ちなみに森沢氏は同時に
        『西国三十三カ所道中案内地図』上・下を出版して
        います。氏はこれ等四冊の出版に四年の歳月を費や
        したとのことです。また、上・下巻の地図は西国
        三十三カ所の徒歩巡礼者にとって必携の本あり、
        極めて価値の大きいものであります。

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