如来寿量品第十六              「法華経の勉強室」に戻る

寿量品総論

 法華経十講の第七講「如来寿量品」であります。本日は「如来寿量品」の総論として「寿量品」は佛教中どういふ位地に居るものであるか、いふことを、概略お分りになるようにしたいと思います。少し専門的になりますが、それを一往話してから、本文に入った方が分りよからうと思います。
「如来寿量品」といふ経文は、これを概説して申しますと、別頭佛教の根本本典であります。別頭佛教といふのは、此の前「涌出品」の時に申上げましたやうに、一般の佛教とは別類の佛教で、類が違ひます、どう類が違ふのであるかといひますと、一般佛教は共通の佛共通の菩薩があります。何のお経にも出て居る佛様、何のお経にも出て居る菩薩方、さういふ一般共通の佛菩薩が説いてあります。其の佛菩薩といふものが一般共通になって居るといふことは、何ういふことだといひますと、佛菩薩といふものは佛教の教理を人格化したものです。阿弥陀様ならば阿弥陀様、薬師様ならば薬師様といふ佛は、それは佛教の教理の一分を人格に現はしたものです。ですから何のお経にもある佛様菩薩方といふことは、それは一般佛教の共通の教理を人格にして示したものであります。ところが此の前の「涌出品」、あの「涌出品」になりますと、外のお経に全然ない地涌の菩薩といふ菩薩が出て来て居ます。それは釈迦牟尼佛の次に佛になるといふ免状をもらった弥勒菩薩が、数限りの知れない地涌の菩薩の中但の一人も知った菩薩はなかった。「法華経」以外此の上行等の菩薩は、どのお経にも出て居ない、さういふ菩薩がここに出て来ました。

         ◇

 そこで弥勒菩薩が此の菩薩のお師匠様はどういふ方でありますか、其の佛様がわからないけれども、其の我々の知らない佛様が教へるところの教はどんなものでありませうか。又其の教の帰着となる道理・・・・・理法はどんなものでせうか。又其の教を修行する修行法はどういふものでせうか。どうも自分等には全然わからない、斯ういって釈迦牟尼佛にうかがった、すると釈迦牟尼佛がこれらの地涌の菩薩の師匠は俺である、斯ういはれたので弥勒菩薩は驚いた、釈尊が佛になられてから四十餘年にしかならない、其の四十餘年の間諸所に法を説かれ又十方から沢山の菩薩が出て来た、自分も亦十方の佛様の所に行き、そして佛様のみお目にかかり十方の菩薩にもお目にかかって大抵知り合ひだ、然るに今知らない菩薩が出て来て、其のお師匠様が釈尊だといはれるが、釈尊は始終餘年前の成佛であるから、自分の知らない筈はない、自分は佛を絶対的に信じて居ますから、佛様の仰しやることは嘘偽りはない、必ず其の通りに相違ないとは存じまするけれども、信仰の上からは左様に承りますけれども、分らなんかといふと、サッパリ分りません、又私達は信仰上これは訳があることだろうと信じますが、後の世に新たに佛教の菩薩道を修行する新發意の菩薩は、それを聞いて信じないでせう、其の為めに竟に眞の佛法を失ふ因縁を起すことであらうと思ひますから、何卒どうしてこれら地涌の菩薩のお師匠様が釈尊・・・・・貴方でございませうか、その佛法の教理はどんなものでありませうか、その佛法の修行法はどんなことでせうか、どういふ教でありますか、それを是非うかがひたいものですとお願ひした、其の時に佛は唯信じろ、一心に信ぜよ、精進の鎧を着、堅固の心を以て一心に信ぜよと仰せられた、それから弥勒菩薩が、佛の御語は必ず信じます、さういってに拘らず、佛様は更に此の「寿量品」では、重ねて三度まで如来の語を信ぜよ、信ぜよ、信ぜよと仰しやった、そして弥勒菩薩も必ず信じます信じますと三度まで誓った、誓ったに拘らず更に重ねて、・・・・・『如来の誠諦の語を信じ解るべし』と三度繰返した上に、又念をおされて、そして又必ず信じますと弥勒菩薩が重ねて誓ってから、はじめて此の「寿量品」を説かれた、つまりそれは、一般佛教・・・・・・・これまでの「寿量品」が説かれるまでの佛教と、「寿量品」が説かれてからの佛教とは全然類が違ふ、一切経五千七千の経教はあるけれども、此の「寿量品」のみが別類の佛教の本典なのだ、だからこれを別頭佛教の根本本典とするのであります。

 これは私だけがいふのではありません、プリントに書いてある様に、天台大師もさういふ風にいって居られます、それは『發迹顕本之三如来永異衆経』(發迹顕本の三如来は永く衆経に異る)とあるのがそれなのです。迹を發き本を顕はすところの三如来は、永く他のすべての経教と異って居る、『迹』といふのは此の前にも話しましたが、

  足迹、影迹

といって足迹のやうなものです、本體の人が居るのではない、足迹が残っている、実際はない、実際はないけれども足迹がある、影迹といふのは影法師といふことで、釈迦牟尼佛が三千年前の印度に釋氏の宮に生れられ、そして伽耶城を去ること遠からざるところに於て、佛の覚を得られた、斯ういふことは、それは本體の佛が足迹を垂れられたものであり、恰度天の月が水の中に映ったやうな影である。それは本当の佛の本體ではないのだ、それは影であるといふことをば發かれる、そして本體を顕された、その本體の顕れたところの三如来といふのは、佛さまは三つの資格があることです、それは
法身如来
報身如来
応身如来
斯ういふ三つの資格があります。

 法身如来といふのは真理の本體です。それから報身如来といふのは其の真理をよく徹見する智慧、それから応身如来といふのは、よく真理を徹見して得た智慧から一切衆生を見ると、皆みづからの真理の本體を知らない、智慧の鏡が曇って居る、その為めにさまざまの間違ったことをするのであるからといふので、大慈大悲を起して相手に応じて形をあらはして利益される、形だけでなく教を説いて利益されるから形益聲益といふ二つを衆生に應じて施される。そのやうに佛の身を現はされて教を説かれるのは応身の所作である。その応身の奥底には宇宙の本體をよく覚った智慧の身がある、其の智慧があるといふことは、智慧の相手たる真理を自分の身に徹見した結果、真理そのものを自分のものにしてしまった。さういふ佛に三つの身がある。これは佛様ばかりではない、佛教で申しますると我々も矢張りチャットこの三つのものを有ってる。真理なる者ものは宇宙の何処か片隅にあるものだらうか、何処か真理の生れ所なんてものがあるだらうかといふと、真理は宇宙に徧満している。何処にも行きわたって居る。唯其の真理の中心部と、中心でない片隅や尾のところとは、あることはあるけれども、真理は宇宙に徧満して居る。それから真理も生きて居る。造りつけのものではない。真理は今申しましたやうに、中心部と周囲の縁とがあると假りにしたところで、それでは中心部と端の方とは造りつけに別になって居るのかといふと、私の頭にも矢張り血は通って居る、指の先にも通って居る、足の先にも通って居る。恰度我々の身體が生きて居る方からいったならば腹は中心部だけれどもものを考へ、そして此の一身を支配する方からいったならば頭が中心だ。頭が中心だけれども手の先も足の先も神経は通って居る、肉體生活の方では腹や胸が中心部だけれども、此の中心部から血管は諸所に通って居る。そんな塩梅に真理は宇宙に遍い、一カ所に固まって居るものではない。宇宙の全體に真理は行きわたって居る。其の點から申しますると、我々も宇宙の中のものであることはちっとも変らない・・・・・我々はしばらくおいて糞虫のやうなものでも・・・・・有名なことでキッコウ六即といふ・・・・・糞虫のやうなものでも、其の中には佛性が普遍して居る。然し真理は普遍的なものだけれども、普遍したる真理自身も、真理に中心のあることは自覚することが出来る。自覚した結果それを知らないものに形を以て示し、行ひを以て示す、声を以て示し、教を以て示す、さういふのが佛様の身なのです。
 佛様には斯ういふ三つの身があります、一つの身體だけれども三つの資格があります。法身は體、報身は性であって、応身は相です。佛様の相性體、これを我々にしたならば、報身は心、応身は身體であり、その心と身體を一緒にして居るものが法身であります。そんな風に佛様には三つの資格があって、それを三如来といひます。「寿量品」に於いて發迹顕本したところの三如来は、永く衆経に異る・・・・・佛教のあらゆる経典に斯の如き佛様は説かれていない、さういふ佛が説かれて居ないといふことは、佛が全然違ふ、所謂別頭の佛で、頭は類の意味です。一般の佛とは違った別類の佛です。ついては一般の佛をいへば、佛といふものはどういふものであるかといふと、元は人間です。人間であるが其の佛はチャント宇宙の理を徹見せられたから佛様になった。真理を覚っただけでなく、教を説かれた、教を説かれただけでなく、その教といふものは総ての人が行へる教でなければ、説いても役に立たない、それをチャント行へるやうに説かれた、これを教・行・人・理といひます。
 佛が違って居るといふに就て、普通に佛といふものは真理を覚り教を垂れ、そして修行の方法を定められたのでありますから、それは佛といふ人間で皆代表しています。佛法は法なので、その法そのものは理法、教法、行法と三つあります。佛といふものは此の法と一つになって居る。佛があって此の理法・教法・行法がある。理法・教法・行法といふものは佛の人格に表現された。そこで別頭の佛・・・・・發迹顕本の三如来といふものは「法華経」以外はない。斯ういふことはそれは理法に於いても、教法に於いても、行法に於いても、皆「寿量品」の教行理は諸経と違ったものである。斯ういふことを豫め示してあることなのであります。天台大師は其のやうに宣言せられて居ります。
 それから伝教大師も亦、「内証佛法血脈」といふ、佛法が自分に伝はって来たまでの系図を書かれましたが、その「佛法血脈」の天台宗の第一は、久遠実成の大覚世尊である。それが自分の受けた真実の佛法の源である。斯ういふことを示して居られるのであります。更に日蓮聖人に至りましては、これは有名は語ですが
 『一切経ノ中ニ此ノ寿量品マシマサズバ、天ニ日月ノ、国ニ大王ノ、山河ニ珠ノ、人ニ神ノナカランガゴトシ』                                                      (開目抄)
と仰せられて居ます。一切経の中に「寿量品」のあるといふことは天に日月のあるやうなものである。若し「寿量品」がなかったならば日月のない天である。星ばかりの天である。薄ら闇の夜である。さういふ佛法となる。大王がなくて国の統制がつかないやうに、佛法全體の統制がつかない。佛教の全體は勝手なことを説いてあって、それを一つにまとめることが出来ないものになるであらう。或は人間に精神のないやうなものである『人ニ神ノナカランガゴトシ』斯くういふ風にいはれて居るのであります。即ち「寿量品」そのものは別頭佛教の根本本典であって、他のあらゆる経文の佛教とは違った経典なのである。斯ういふことが天台大師、伝教大師、日蓮聖人の三大聖師によって宣言せられて居るのであります。

 であるに拘らず日本の叡山ではこれを忘れてしまった。「寿量品」が其のやうに大切な経である。本佛といふものを示されたことは、佛教の根本を示されたことだといふことを忘れてしまった。其の為めに「法華経」と諸経との価値を混淆して、そして帰着に迷ってしまった。佛教の帰着に迷ってしまった。その結果、法然上人の念佛や、道元禅師の禅宗やら、親鸞上人の念佛といふやうなものが起ったのであります。それから又叡山では天台佛法に慧心・檀那の両流といふのがありました。叡山は恰度古に於ける佛教大学のやうなものです。日本に於ける各宗の元祖は真言宗を除くの外皆叡山から祖師が出て居ます。其の叡山には伝教大師の天台宗について二つの流れがあった。その一つの流れである慧心流の元祖は慧心院源信で檀那流の元祖は檀那院覚運です。これは何方も偉い人であったのですが、二人共「寿量品」が佛教の統一原理である、根本聖典であることを忘れてしまった。慧心院源信は其の為めに法然上人や親鸞聖人の念佛の元祖になった。それから覚運といふ人は『念佛寶號』といふ書を作って、お釈迦様にも五百塵點のお釈迦様があると共に、阿弥陀様にも久遠の阿弥陀様がある。十劫正覚の阿弥陀様よりも久遠の阿弥陀様の方が有がたい、それがあらゆる佛法の元締であるといふので、此の阿弥陀様のことを覚運といふ人は、『顕密の教主』といっていって居ます。顕密といふのは其の頃の佛法の全體をばいったものです。阿弥陀様は顕教密教の教主で佛教の元締めである。斯ういふことを覚運といふ人はいった。親鸞聖人はこれを真似て其の流れを受けて、五百塵點久遠の弥陀といひ久遠実成阿弥陀佛本願寺といふのをその徒が造った。あの本願寺といふのはただ本願寺ではない、久遠実成阿弥陀本願寺といふのです。此の久遠実成といふことは檀那流から来た。  それから慧心院源信は「往生要集」を作って、どうも佛教は廣い又深い、顕密の教法・・・・・顕といふのは天台宗、密といふのは真言宗・・・・・主として天台や真言の教理といふものはなかなか深い、それから修行するのに難しい。それだから我々には到底合はない。一ばん易しく誰でも出来るのは南無阿弥陀佛と唱へることである。これならばだれでも出来る。だから南無阿弥陀佛が一ばん有難いといって、此の人も矢っ張り阿弥陀様になった。但し此の源信といふ人は四十三歳の自分にさういふことを書いた本を作ったが、それから十八年ほど南無阿弥陀佛を行じて、行じた結果六十一歳の時に、南無阿弥陀佛を唱へつつ豁然として覚った。その覚ったのは何の覚りを開いたかといふと、「法華経」の覚りを開いた。そしてはじめて一念三千といふ「法華経」の覚りを開いて、これが本当の佛法だと思い出した。さういふことをば源信自ら六十一歳になって書いた。それから四五年たって更に「一乗要決」を書いて、「法華経」が佛法の帰着であることを書いた。 そんな風に天台大師、それを受けた伝教大師は、此の「如来寿量品」を佛法の本典と見られたのでありまするけれども、叡山はそんな風になって行きました。そこへ出られたのが日蓮聖人であります。日蓮聖人は恰度慧心流の流れの名匠俊範といふ人に天台の学問を受けられた。それは蓮長法師として受けられた。以上は此の「寿量品」をば佛教の本典である、別頭佛教の根本本典であるといふことを主張されたのは、天台大師、伝教大師、日蓮聖人であって、これが法華正統の系図なのであります。そこで日蓮聖人は三国四師といはれました。印度の釈尊と、支那の天台、日本の伝教、それに御自身・・・・・印度、支那、日本の四人の佛教を教えた人、開いた人及びそれを伝えた人がある。此の四人が本当の佛教を転々相続して来たものである、さういふことを申されて居るのであります。

 以上は三国四師によりまして、此の「寿量品」を中心にした諸師、その系図を申上げました。更にこれを廣く佛教の、今日の如く各宗が出来ました。其の出来てまいりました三千年、乃至二千五百年の間の歴史から考へて、その間「寿量品」といふものは、各宗の人師方がどんな風に見ていたものである、斯ういふことを考へて見ます。
 先づ第一に原始佛教と今いっていますもの・・・・・これまでの小乗佛教なのでありますが、其の原始佛教で申しますると、佛は釈尊の外はない、この娑婆世界の成劫といふ時の、その第九の減の時、そこには釈尊の外佛はない。それよりずっと以前には過去七佛といふ佛はあるが、今は釈尊以外に佛はない、同じ覚りに入った人も・・・・・それは菩薩行といふものを長い間やって来て、一切衆生を救うために覚ったのでない。それは声聞縁覚で阿羅漢様の覚り以上には行かないものである。斯ういふ風にいって居って、原始佛教では佛は釈尊一人、それがだんだん発展して、今で申すと発展佛教といふが、昔の語でいへば大乗・・・・・この大乗仏教で申しますると、佛は此の娑婆世界だけに居られるのではない。十方の世界に佛様がおいでになる。十方世界に悉く佛はまします。そして十方世界の佛陀が菩薩であった時に、おのおの別々に菩薩としての誓願を立てられた、それはどういふ衆生を集め、そして自分はどんな理想の世界を造らうと、さういった誓願、即ち理想をいだいた。そして誓願が成就した、即ち理想が成就して、其處に国土といふものが出来た。それが佛の国土です。ですから十方に佛様があると、其の十方に佛様は、皆どういふ世界を造って、どういふ衆生を救はうといふ誓願から、これらの佛の国が出来た、だから皆特色があります。薬師様は十二の大願を立てて、其の願の成就によって造った国がある。阿弥陀様であるならば四十八願を立ててその願の成就によって造った国がある、といふやうな塩梅に、皆十方世界は佛皆格別であって、その佛には各々特色があります。即ち十方世界の諸佛の特色といふものがあります。さういふことを大乗佛教は教へて居るのであります。
 然しながら、それらの佛の沢山の実在を説いて居るけれども、結局は、此の十方世界の諸佛の中、その中心は矢っ張り釈尊にとるのであります。「金光明経」などといふお経などでは、矢張り其の中心を釈尊にとったのがあるのであります。それと同時に又往生を主にして説いた教、その往生の諸経の中では阿弥陀経を中心に説いたのもあります。それらの十方の佛を説き、其の十方の佛の中、或は菩薩道を修行して、其の佛の国を得たといふところでは、さまざまの佛様があるけれども、結局釈尊を中心としている。何故釈尊を中心とするか、斯ういひますと、お釈迦様の特色は外の佛様と違っている。どんな風に違って居るかといふと、外の佛様は或は理想を立てて、その理想は美しい善いことばかりの理想で、その理想の世界に其の理想を願って来る者を寄せる。ところが釈尊は、それらの理想に憧れない衆生、無理想の人間・・・・・此の無理想の人間は理想の世界から皆残されたものです。それを捨てておいたならば無理想な人間の行く所がなくなる。始終悪道に居らなければならぬ。釈尊はその十方の諸佛の理想に如ふことの出来ない人間、十方の諸佛から残された者、その残された無理想の人間を救ってやる。その人間の集まったものが此の娑婆世界です。向上心の餘りない無理想の人間、少々向上心があり理想を立てたかと思うと、なかなか難しいからと止めてしまふすぐ転向する、やってみて難しいとすぐ転向する、転向々々また転向、どうなるかわからない、さういふのが娑婆世界の衆生です。其の転向々々何処へ行くかわからない人間、十方の佛土から掃き出された人間、さういふ者を救うてやる、それが釈尊の慈悲の最も優れたところであります。さういふ意味から釈尊の慈悲を、諸佛の中の最勝の位地とする。それから理想の方では、阿弥陀様が善いこと、勝れたことを考へた。此の方は又その方での中心になっています。そして其の有がたづくめの方は阿弥陀様、もう芥溜のやうで仕方のない人間はお釈迦様が引き受けた。一ばんヤクザな奴はお釈迦様が引き受ける。何でも有難いところのほしいものは阿弥陀様が引きうける。さういふ風に、十方の佛様を説かれたところはそんなのでありますが、それに対して又大乗の中には
 『諸法空の般若』
といふことを説かれた。一切無差別だ、阿弥陀様の善いこと勝れたことも、いけない者をみんな引き受けるといふ釈尊とは、違っているやうだが、若し其の阿弥陀様の覚りの心、釈尊の覚りの心、その心からいったならば、みんなこれは諸法は一切空だといふ。般若といふのは智慧といふことです。一切空だといふ其の無差別平等のもので凝滞しない、ものに拘泥しない、恰度水が常に流れている、流れなかったら汚くなる、西洋の哲学者は、一切の世は流るといったが、一切のものは無常で、無常は又一つの空に相違ないのですが、無常といひ常といふも、結局何かきまったことを考へるのは、悉くそれは偏曲して居る。常であろうが無常であらうが、そんなものを超越して一切の諸法は空である。此の諸法といふ中には、無常といふことも常といふことも這入っている。普通の小乗では無常だから空だといふが、常でも空だ無常でも常でも空だ、無常はやがてなくなるものだから空だ、これは早くいふと、折空といって、物を分析すると空になる。理屈から考へるといろいろに変わる、変わるのは本體がないからである。ところが常の空を體空といふ、常住にあるものでもそれは空だ、斯う見て諸法空の智慧・・・・・さういふものを説かれた。般若の教といふものをば佛がそんな風に説かれました。
 穢いものをみんな此方に引き取ってやらうといふことも、又あらゆる善いことばかりを集めて極楽世界を立てたといふやうな事柄も、どちらも本当はさういふ穢いことにも綺麗なことにも、何方にも超越して居るからで、超越して居るからそれが出来るので、超越するのは諸法空の般若の智慧によるのであるといふので、其の般若の智慧を説いた沢山のお経があるのであります。
 それから又廬舎那佛身を説かれた。一切空だといふならば、空では何にもないではないか。それはいろいろな偏った相対的の事柄は何もないけれども、さういふ迷ひを払った後の悟りの方には、悟りの世界・・・・・これは佛の内容だ。佛の大覚の悟りの内容だ。その悟りの内容からいふと、華蔵世界・・・・・此の世界、法界は一大蓮華である。一大蓮華蔵の世界、その沢山の無量の蓮華その葉の一々にも十方の世界の相がみんな這入って居るのだ。宇宙のあらゆる部分部分のものには、宇宙の全體を集めた程の功徳が皆這入って居るのだ。海の一滴の水の中にも、大海の全體の功徳は這入って居る、さういふやうに、廬舎那佛の内容はそんなものだ。阿弥陀様の世界なんてものは、これを華蔵世界から考へたならば、殆ど比較にならない。百千萬億不可計分の一にも足らぬものだといふことを、「華厳経」に説いてありますが、そんな世界が本当に佛様の境界だ、そんな風に説いたお経が「華厳経」であります。
 それから更に又「法華経」の寿量品の如くに、さういふ華蔵世界の佛様・・・・・宇宙法界が其のまま佛の大覚の身體だ、それから更にさういふ一つの宇宙法界が大覚の内容だ、その大覚は一體何時の大覚だ。十方の佛と其の廬舎那佛とはどんな関係だ。さういふ時分に、此の「法華経」の如来寿量品の佛様が又ある。これは後で話しますが、それから更に又大日如来のことを説いた蜜部の諸経、大日如来を中央にして多くの佛様が其の流出となって、大日如来から開発して来るのだ。そんな風なことを説いたお経も沢山あって、釈尊の後の印度で行はれました。

 そこで、それらの沢山のお経が行はれた中、印度では偉い菩薩、・・・・・印度では沢山の菩薩がありますが、・・・・・二人の菩薩が印度のあらゆる菩薩の代表者なのです。それは龍樹菩薩と天親菩薩であります。龍樹菩薩といふのは八宗の高祖といひます。佛教には沢山の宗門があるが、その宗門は日本では八つあります。その八宗は皆龍樹菩薩を祖師にして居るといふのでこれを八宗の高祖といひます。天親菩薩は千部の論師といひます。どう千部の論師だといふと、此の人は小乗と大乗と両方をやりました。最初は小乗の方に居って外道とたたかひ、大乗にも反対しましたが、小乗で五百部の論を作り、後に大乗を誹ったのを悔いて、大乗で又五百部の論を作ったので、千部の論師といひます。龍樹菩薩は八宗の高祖、天親菩薩は千部の論師、印度の菩薩方では、此の龍樹菩薩・天親菩薩の二人を代表者とします。
 龍樹菩薩はそれではどんな風に此の「如来寿量品」について考へられたか、斯う考へますと、此の龍樹菩薩といふ方はどういふ佛教をお弘めになったかといふと、此の方は「大品般若経」・・・・・先刻申しました諸法空といふ「般若経」をお弘めになった。そして「大智度論」といふ千巻の論を書かれた。唯今支那、日本には、羅什三蔵により、千巻をば百巻にちぢめて翻訳されています。その百巻はあらゆる佛教のことがみんな這入って居るといふので、佛教の百巻全書だといはれている位です。
 その龍樹菩薩の千巻の「大智度論」の中、百巻だけに大綱を縮めて翻訳された、それでは龍樹菩薩は「般若経」だけを弘められたのであるかと、斯う申しますと、「般若経」だけを弘められたのではない。だから龍樹菩薩は龍宮に行って「華厳経」を伝へたといはれて居るので、「華厳経」もまた龍樹菩薩が弘められた、だから龍樹菩薩は般若と華厳の両方を伝へた人です。
 般若とい方は一切の迷を払ってしまふ、遣蕩といって、理屈の迷も感情の迷も、あらゆる迷を払ふのが「般若経」です。華厳といふのは其の迷を払はれた悟の心にさまざまの功徳があらはれる、そのさまざまの功徳があらはれたのが華厳です。其の功徳からいふと此の世界全體は一大清浄の蓮華である、これを蓮華蔵世界といひます。で般若と華厳と両方を説いたのが龍樹菩薩であります。そしてその華厳に対しては「十住毘婆娑論」といふのを書いて居り、般若に対しては「大智度論」を書いて居ります。
 般若・・・・・大智度論
 華厳・・・・・十住毘婆娑論
斯う二つ説かれた、ところが其の中でどういふことをいって居られるかと、斯う申しますると、此の「大智度論」の方に、佛教の百科全書であるから、「法華経」のこと及び一切の大乗経のことをば矢張説かれています。どんな風に説かれたかといふと、斯んな風に説かれています。「法華経」は二乗作佛・・・・・阿羅漢様をば、声聞乗・縁覚乗の二乗といふ・・・・・その阿羅漢様を佛にしてしまふ、これは一切外の経では出来ないことだ、「般若経」では出来ない、「法華経」は佛の秘密の経である。二乗作佛を説いたのは法華が秘密の経であって、諸経にすぐれたところだ。「般若経」は秘密ではない、法華は秘密にして般若は秘密に非ずと。自ら般若を弘めたに拘らず、般若は秘密ではない。法華の方が本当の秘密の教である。般若のことは菩薩で議論出来るが、法華に至っては最早菩薩の智慧では知ることが出来ないのである。さういふことを法の上から説かれました。
 それから又、今度は更に佛の上で、佛に二つの佛様がある、所謂随世間身即ち生身を示すのと、法性生身とて法の上の生身とがある。人間の身體を以て人間の世界に出て来る佛様、その随世間身の佛は、二乗とそれから文殊や弥勒等の菩薩を眷属として居る佛様で、法性生身の佛は例をあげると又二つある。その一つは「華厳経」のやうな佛様である、一つは「法華経」の涌出寿量の両品に示された佛様である。斯う説いて居る。若し法にしたならば法華のみが一切経の中で、阿弥陀佛を成佛せしめる。阿弥陀様は外の経ではどうすることも出来ない。「般若経」は佛の智慧を説くお経であるが、二乗といふものは心を空に入れてしまったのであるから、これに智慧・・・・・般若を与へ、そして菩薩の修行をさすことが出来ないのである。「華厳経」も阿羅漢を成佛させることはできないのである。然るに「法華経」は此の二乗を佛にすることが出来る。その點に於いて「法華経」は秘密の経である。また佛には生身の佛と法身の佛とあるが、法身の佛の中「華厳経」と「法華経」の寿量品とあるが、何方が深く大きい佛身かといふと、どうしても「法華経」の涌出寿量の方が眞に高いものを説いたのである、といふことを龍樹菩薩が「大論」にいって居る。それによると、これを法に約しても佛に約しても、龍樹菩薩は「法華経」をば佛教究竟の本典であるといふことを示されたものと認めなければならないのです。
 それから天親菩薩は、これは小乗と大乗と両方を弘められたが、大乗中、天親菩薩は「般若経」の大乗と違ふ瑜伽といふ大乗を弘められた。そして「攝大乗論釋」といふのを書いて、大乗のあらゆる道理を説いた。「攝大乗論」は無著菩薩といふ天親菩薩の兄に当る方が説いて居られる。それを解釈されたものでありますが、此の「攝大乗論」の方の教では、ちょっと見ると、二乗は佛にならないといふことをば説いて居るやうに見える。二乗不作佛・・・・・菩薩の教を専ら説いたのでありまして、二乗は佛にならない。斯ういふことを説いて居るかのやうである。それに対して、「攝大乗論釋」、その眞諦三蔵訳に依るときは、矢っ張り二乗が佛になるといふこと、その方が本当なのだとて、二乗作佛の方を肯定せられた。それから又天親菩薩には「往生論」といふのがある。此の「往生論」は釈尊中心に対して阿弥陀中心を説いた、此の阿弥陀中心を説いたのが「往生論」である。盡十方無礙光如来・・・・・盡十方に功徳の光を出して、悉く徹底するといふ阿弥陀様である。だから信頼するのであるといふことを説いてあるが、それが佛教無上の教義だとはいはない。然るに他に「法華論」と「佛性論」と二つを説かれて居るが、此の中の「佛性論」によると、あらゆる三世十方の佛は最後に「法華経」によって佛様は眞の佛教の本質を明かにするものであるといふことを、此の「佛性論」ではいはれて居る。それより以前の教は皆「法華経」を説く前の方便に過ぎないとも示されています。
 それから「法華論」にまいりましては、十無上といふものを説き、「法華経」には外の佛教にはないところの十の無上の教がある。その中一ばん大切なことが二つある、又或は三つある。二つと申しますると、一つは種子無上といひ