本化妙宗の霊魂論の正義を示す

       佛教は無霊魂説なり     「幸せになれる道」に戻る


 【1】 日蓮聖人の御遺文にみる「聖霊」の意とは、また識神とは

 【2】 文学博士山川智應先生の霊魂説に対する破邪と顕正を掲載してあります。

 【3】 
高橋智遍先生「死後はどうなる?」にお書きになられた「無霊魂」説



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【1】 日蓮聖人の御遺文にみる「聖霊」の意とは、また識神とは

 聖霊とは(聖霊=霊魂とはお経にも御遺文にも無い、そのような理屈は計我謗法なり)

 (1) 死後の心霊。即ち死者の神識を尊称していふ。

 日蓮聖人御遺文「法蓮鈔」に云く

 今法蓮上人も又此の如し。教主釈尊の御功徳御身に入かはらせ給ぬ。法蓮上人の御身は
過去聖霊の御容貌を残しおかれたるなり。たとへば種の苗となり、華の菓となるが如し。其華は落て菓はあり、種はかくれて苗は現に見ゆ。法蓮上人の御功徳は過去聖霊の御財なり。松さかふれば柏よろこぶ、芝かるれば蘭なく。情なき草木すら此の如し。何に況や情あらんをや。又父子の契をや。彼の諷誦に云『慈父閉眼の朝より第十三年の忌辰に至るまで、釈迦如来の御前に於て、自ら自我偈一巻を讀誦し奉りて聖霊に回向す』等云々
 日蓮聖人御遺文「回向功徳鈔」に云く
 「
聖霊の苦患をたすけずんば不幸の罪深し。悪霊と成ってさまたげを成し候也。」
 (2) 転じて
死者を尊称する佛語
 (3) 更に進んで
佛果の因を行ぜし死者を『妙法聖霊』といふ。
 日蓮聖人御遺文「四條金吾殿御書」に云く
 「殊に今月十二日の
妙法聖霊は法華経の行者也、日蓮が檀那也。いかでか餓鬼道におち給べきや。定めて釈迦、多宝佛、十方の諸佛の御宝前にましまさん。是こそ四條金吾殿の母よ母よと、同心に頭をなで悦びほめ給らめ。あはれいみじき子を我はもちたりと、釈迦佛とかたらせ給ふらん。法華経に云く『若し善男子善女人有って、妙法華経の提婆達多品を聞きて、浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、地獄餓鬼畜生に堕ちずして、十方の佛前に生ぜん、所生之處には常に此の経を聞かん、若し人天の中に生れば勝妙の楽を受け、若し佛前に在らば蓮華より化生せん』と云々。此経文に善女人と見へたり。妙法聖霊の事にあらずんば誰が事にやあらん。」
 (4) 
『故聖霊』といふは、故の字を冠して其の死者なるを明にせるのみ。
 日蓮聖人御遺文「上野殿御返事」に云く
 「其上殿はをさなくをはしき。故親父(聖祖の御直檀南條兵衛七郎)は武士なりしかども、あながちに法華経を尊み給しかば、臨終正念なりけるよしうけ給き。其親の跡をつがせ給て又此経を御信用あれば、
故聖霊いかに草のかげにても喜びおぼすらん。あわれいきてをはさばいかにうれしかるべき。此経を持つ人々は他人なれども同霊山へまいりあはせ給ふ也・いかにいはんや故聖霊も殿も同じ法華経を信じさせ給へば同ところに生させ給べし。いかなれば他人は五六十までも親と同しらがなる人もあり。我わかき身に親にはやくをくれて教訓をもうけ給はらざるらんと、御心のうちをしはかるこそなみだもとまり候はね。」
 御義口伝に曰く
 「
聖霊を訪ふ時、法華経を讀誦し、南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、題目の光無間に至りて即身成佛せしむ。廻向の文此より事起こるなり。」
 識神とは普通にいはば精神なり。意識の能ある精神なり。
 日蓮聖人御遺文[佐渡御書」に云く
 「日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず。不軽品に云く『其罪畢已』等云々。不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし。何に況や日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ、旃陀羅が家より出たり。心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て蓄身也。魚鳥を混丸して赤白二Hとせり、其中に
識神をやどす。濁水に月のうつれるが如し、糞嚢に金をつつめるなるべし。心は法華経を信ずる故に梵天、帝釈をも猶恐しと思はず。身は畜生の身也、色心不相応の故に愚者のあなづる道理也。心も又身に対すればこそ月金にもたとふれ。」


【2】 文学博士山川智應先生の霊魂説に対する破邪と顕正を掲載してあります。


 第1 問答『佛教の輪廻説

 第2 山川智應先生「本化聖典新釈『生死一大事血脈鈔』」より

 第3 山川智應先生著「開目抄講話」より(P129、130)

 第4  【霊魂問題について「大法輪」七月号をよみて

                   (昭和28年「信人」6・10・11月号)より

       「無霊魂」 「肉体と精神の関係」 「個体霊魂

 第5 山川智應先生著「法華経十講」より

第1 問答『佛教の輪廻説
(昭和七年三月十六日発行「信人」「随問而答録」より)


問。佛教は業の不滅を以て輪廻を説き、霊魂不滅説を説かない。そういうのは佛教徒の誤解だといひますが、不滅説ならば霊魂は能作、業は所作といはれましょうが、反不滅説では業と輪廻と五蘊の関係はどうなりましょうか。

答。佛教は、
惑・業・苦の輪廻をいひますので、五蘊仮和合の我は実に我という霊魂ありと執着し、我の為めに利己的の業を作り、苦の果報を得るというのです。この時の能作者は、我ありと執する無明のです。そして輪廻は、その我ありと執して作ったの果報として、五蘊仮和合の我を継続して次のに行くというので、実には霊魂はないのですが、五蘊仮和合の我を堅く計著したから、霊魂みたようなものが存在する。それを「倶舎論」などでは『有』といっています。此の生から次の生を取るまでの五蘊を『中有』といひ、次の生の五蘊を『後有』といひます。『魂中有にさまよひて』など芝居でよくいうにはそれです。しかし『中有』の外に『魂』があるのではありません。『中有』そのものが『業果』なのです。業果が輪廻するのです。『中有』は五蘊ですから、『色蘊』即ち物質も含んでいますが、極微でありますから、肉眼では見えず天眼及び同じ中有からは見えるとせられています。人の肉体は或る一定の時で成長が止まり、老衰して行き、物質的要素は殆ど変ってしまふといはれていますが、精神的のものは、三四歳の事でも、七十八十歳まで記憶せられ、平素忘れて居ることでも、深く催眠術を施せば、それが出てくるのです。すると人は死ぬまで精神の方のものは、深く潜んで蓄えられていることがわかります。肉体は死んでも、此の精神の方に蓄えられている善悪の業はどうなるのでしょう。そこでそれが『業力』としての『中有』となり、次の生を惹くというのが、佛教の輪廻説です。



第2 山川智應先生「本化聖典新釈『生死一大事血脈鈔』」より

                           (日蓮主義講座


                                      

 生死一大事ということは、昔にあっては、そんなに大事であったかは知らないが、現代にあってはそれほどに大事でないという考えの人もある事でしょう。ことに佛教は無霊魂説であるということを、取りちがへたりしますれば、必要もないことのようにも思われるでありましょう。無霊魂とすれば吾々の『生』の間こそ大切だが、その後は、吾々すでに存在しないのであるから、少しも大切でない。『生一大事』ではあるが、『生死一大事』ではないなどと考えられるかも知れません。けれども佛教は、無霊魂とはいひまするが、無因果説ではないので、但霊魂という人々個々別々の魂を、或は神から貰ったとか、或は自然に持っているものであるとか、『我』の魂は確かに存在するという考えとは異ふのであります。それでは『我』のないものが、どうして現在に、我である彼である等という差別がたしかに在り、自己の観念というものが存在するのであるかといふと、それは『五蘊仮和合の我である』といひます。五蘊(色蘊という物質のあつまり、受蘊と云う感覚感情の集まり、想蘊という思惟想像の集まり、行蘊といって意志行作の集まり、識蘊といって自己意識の集まり)という物質及び精神に亘っての五つの蘊りが和合して、一人一人異なった人格を作って居るのであるといたします。
 それで因縁というのは、因は此の五蘊仮和合の我が、経験したことの多い事柄に就いて、それに利くあり敏活である傾向を持つことをば『
習果』というのに対して、その経験そのものを『習因』といひ、その経験するように促す所の外からの誘因を『』というのであって、因縁が和合すれば『習果』というものが生ずるので、そこで因即ち経験を積むことを『』といひ、『』を積むことによって、自己に仮和合している五蘊へ、一つの強い習性を与える。それを『業力』といひ、さて人は死んで物質そのものと他の四蘊との和合は一時離れたようであっても、それは全く離れたのではなく、『業力』は存在して、つぎの肉体を取るべく、丁度適当な生處へ生れて行く。それを『業果』というのであります。これ小乗の『業感縁起論』であります。それ故霊魂という本来からの個々別々の魂をば認めませんが五蘊仮和合のものに『我』という名をつけて、ひたすら自利を測るところの『業力』は存在するものであって、此の業力が生死にわたりて、生まれかわり死にかわりして居るのであります
 『自我』の為め、若しくは『自我』に属するものの為に、或は善業、悪業を積んで、その善悪の因果よって地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を輪廻して居るのであると説きます。



第3 山川智應先生著「開目抄講話」より(P129、130) 

                                    


 そこで外道が非想天まで行って、なぜ還って三悪道に墜つるを免れないかという點は考ふべき眼目である。外道と佛教との相違はそこにある。大論にも書かれて居るように、非想天以上は、『無所得になるから、彼等の心懼る』。有所得無所得といふことは、得る得ないといふ自らがなくてはならぬ。外道はすべて五戒十善四禅四定を行っても、所詮は自己の霊魂が永久の幸福を得るといふにある。自己の永生が目的なのである。此の自己の霊魂の幸福といふものを認めるかぎり、やがて三悪道に墜つることを免れないのである。すなわち仮に天上にあって幸福にひたるとすれば、その幸福に酔ってしまふからで、彼等外道が屈歩蟲のごとく上へ上へと登ったのも、要するに無常の幸福を去って、永久不変の幸福を念てたからである。外道の涅槃といふことはそれを意味してある。かく自己霊魂の幸福を念ふかぎり、所得のある處の以上には出られぬ。無所得となれば自己が積極的に何ものもないことになるからだ。ところが「得」といふときは、やがて『失』といふことを否定できぬではないか。非想とは個人精神が無いというてもよいほどの境地を意味し、それでは無いかといふと、全くないのでもないといふものが非非想であるから、有無のきはどい處まで行ったのだが、無所得をおそれて、霊的否定の無所得の涅槃には這入れないので、此の意味からいふときは、佛教と外道との相違は、我即ち個人霊魂の有を立つるか、立てないかといふことに帰着する。
 何でも佛教の関門は、小さい自己霊魂、自我心といふものを亡ぼしたところからで、此の関門を入ってから、佛教の地域に脚を入れたものとおもうべきである。大我といはうが、宇宙我といはうが、絶対我といはうが、対立的自我の心が根本において滅せられない時は、千経萬論を暗誦して居ても、決して佛教徒ではない。それがなくならねば執着を離れ得ないからである。




第4 [信人時談]

 座談会形式になっていますので、全文載せます。長いですが、読んで頂ければ、佛教の無霊魂説とはいかなることかが解って頂けると思いますのでお読み下さい。また、居主の山川智應先生の無霊魂説についての説明文は、文字の色を変えてありますので、そこだけを読んで頂いても結構かと思います。


 【霊魂問題について

       
「大法輪」七月号をよみて(昭和28年「信人」6・10・11月号)より

                                      

居主(山川智應先生) みなさん、今月は七月号でお盆の月ですから、人々が霊魂問題について、人間は死んでも魂などといふものがあるのだろうかとは、多く考えるらしいというのですが、六月に出た「大法輪」七月号は、その問題についての名ある人達の名論や座談会の記事があるとの、相当大きな広告が各新聞にでました。そこで私も買ってみたのですが、今日はそれについての座談会ということにしましょう。

A 先生、それは嬉しく存じます。実は私もあれを買って見ましたのですが、どうもよくわからなかったのですから、先生からお話を承ってみたいと考えていたのです。

B 私もあれを見たのですが、Y教授のお説は佛教は無霊魂論で、小乗も大乗もかわりはない。でも霊魂の輪廻などということは、今日地動説が真理だとわかっていても、『日が出る』という語が用いられているようなものでシナや日本の固有の霊魂信仰を結合したものだといはれていますし、浄土往生も親鸞などになれば、極楽往生も地獄への堕落も問題ではないなどとあり、全くの無霊魂論で、西洋の心霊学の実験についても、『霊媒自身の力に帰せらるべきもので、別に霊魂の存在を認めねば、説明のつかぬものでない』といはれています。あれを真とすると何だか『死ねば空に帰するのだ』といふ、今日の俗人の考えが佛教にかなっているように、間違えられはせぬかとも考えられます。私はあれではどうも落ち着かないのですが。

C 東大教授のG博士、A寺のS大僧正、小説家のN大人、K大教授のM博士の座談会でも、G博士は心霊学上霊界といふものを半ば信じてをられるように見え、N大人はなかなかの信者らしいのですが、M博士はY教授と共に無霊魂論ですが、しかし業の相続ということは認められているようで、霊魂はあるともないとも、いへないという風にいはれていますね。

D そこに行くとS大僧正は、やはり霊的のことはあると考えていられるようで、善光寺の住持を二十年して後に護国院の住持をしていた等順大僧正が、毎日光明法という亡霊を得脱せしめる修法をしていられると、檀家の館林の藩主秋元氏の未亡人が静かに来て側に立っている。そして『お十念を授かりに参りました』という。そこでお十念を授けると、『ありがとうございます』と帰った。大僧正は未亡人は病気だと聞いていたが、『あの時間に死なれたな』と思っていると、やがて侍が二人そのことを申しに来た。『お台所は何時頃にお亡くなりだろう』というと、『その通りです』と驚いたという話しだの、法華信者の奥さんが、一生懸命に法華経の信心をしていると、或日子供を連れた腹の大きい女の人が、ぬれねずみになって出て来た。びっくりして主人の處へかういふ人が来ましたと震えながら話すと、『どんな着物を着ていた』『これこれかういふなりで』というと、『実はお前に話さなかったが、私の従妹が嫁に行って子供が五つ六つになった頃、又一人腹にできた。が姑とうまくゆかずどうしてもをられない。そこで親許へ帰って来ると、”子供も一人半できているのだから、しんぼうして帰れ”といはれて帰ったが、それが途中で入水でもしたのであろう』といった。處がその通りだったといふ。その奥さんは主人の従妹と会ったことがなく、主人からはじめてその話を聞いたなどという話をして、『一種の幽霊ですね』ともいはれていますが、M博士は、『それは異常な特殊現象で、シナや日本の大乗佛教でも、それを正当づけて解釈するのはいけないと思う』といはれています。するとS大僧正が『それは本来の佛教ではないことだが、そうい風に発達した佛教には、さういふことも一つの学問としての大きな問題ですから、解決出来ぬようでは佛教が小さい。佛教も時と国によって変ってきている。その進歩し変って来たものには、解決してやらねばならぬ責任が佛教思想家にはある』といはれると、M博士は、『なかなかむづかしい問題で、それは中心をはづれて枝葉に走りすぎる、一つの研究問題として取りあげるにしても、それを何とか解かねば佛教ではないといふのは間違っていますね。そうすると新興宗教と何ら異ならないことになってしまふ。科学包容の宗教といへません』などと答へられていますが、それでは日本の寺院の仕事は、全部が非佛教といふことになりそうにおもはれるのです。

A M博士の意見は、アインシュタイン博士が、『将来の宗教は宇宙的宗教』だといひ、『擬人的の神や教義や神学をもたない、自然界と思想界を含めた全存在を、有意義な一つの統一體として體験するところの宗教感を基底とするもので、そして現在その要素を多くもつものは東洋の佛教だ』といったのを、頼みとされているわけで、いはば佛教学者の自然科学者への迎合に近いお考えのようで、昔の佛教が『生死一大事』といったのとは、大変ちがふ感じがされたのです。

C しかし今日の佛教学者は、みなM博士やY教授と同じ考えじゃないのですか。

 居主 C君のいはれるようにそうでしょう。例えば昔は梵語の経典が、必ず漢語の経典より優れていると考えたのと同じように、今日は自然科学全盛の為に、ユニテリアンや宇宙神教的の考えや、M博士のような考えが大勢を制しているのですよ。

D 私は自分で十四歳中学一年生の時に、学校から帰って家で食事をしていると、入口に入院中の叔父さんが立っているので、驚いて母に告げた處が、母が見た時はもういませんでした。そこでどうかあったじゃないかと、母がいそいで病院へいったら、ちょうどその時間に死んだのでした。かういう実験をもっていますから、いかに佛教が無霊魂論でも、ただそんなものはないというだけでは、納得がゆかないのでし。

B そんなのはあなたの幻覚で、それが偶然に叔父さんの死亡時に一致していたのだと、無霊魂論者はいふでしょう。

D それは私の実験の場合は、そうもいへないことはないでしょう。なぜなら私は可愛がってくれた叔父さんが大病で入院していることをしっていましたからね。ところが先生が、「まことの宗教信仰」というパッフレット其の他にお書きになった、「中央公論」の(昭和七年前後?)「梅幸芸談」に出たはなし、梅幸がまだ尾上栄三郎の頃に、養父の五代目菊五郎の供で、茅ヶ崎の別荘へ、ある夏いっていた。他の弟子と養父の供して夕刻近く海岸を散歩していると、留守の男衆の一人が飛んで来て、『親方!只今お弟子の某(名失念)が、ぜひ親方にお目にかかりたいといって来ましたが、いかがいたしましょう』との事に、五代目が、『栄や、わしはもう少し散歩して帰るから、お前さきに帰って相手してやってておくれ』との事に、梅幸が男衆と共に、別荘に帰ってくると、その某という弟子が見えないなです。今一人の留守番にきいても知らぬといふ。変なことだといっていると、やがて五代目が帰って来た。『何だいない、おかしな奴だナ』といっているうちに、電報!と来た。みると、その某の急死の報だ。そこで五代目が『栄やお前くやみにいっておやり』とのことで、知らせに来た男衆をつれてくやみにゆくと、おかみさんの話では、チョットした夏の風邪なので油断をしていると、急にいけなくなったので、その時に『親方にこれまでのお礼を申しあげないでは、すまないすまないと申しつづけてをりました』との事に、実はこれこれというとかみさんもビックリした。ことにその時茅ヶ崎へ着ていたゆかたのがらまで、死んだ時に着ていたものと同じなので、全く某のまごころが行ったものだとなった。そういうことを梅幸が芸談の中に話しています。處がこの方は幻覚というのにはおかしいです。たづねて来たのを見た男衆も、五代目も栄三郎もみな某の病気を知らないのです。おそらく今日の科学ではこれを解釈できますまい。またこれと全く同一の事を先生の養祖母の方が遭われて、先生は幼年の時から聞かされて」いられ、それが宗教心の遠因ともなっているのですが。その祖母君大阪の方で、堺の商家へ嫁していられた。或る日買ものに出た留守に、店へ大阪の父君が、『高はいますか』と尋ねて来られた。番頭が『あいにく今お留守ですが、ほどなくお帰りですから、どうぞ御ゆっくり』といふと、『今日はゆっくりしてをれないので』、『まァまァそうおっしゃらないで』と、『おいおいそこをよくおかたづけして』と、ちょっと横をむいてこちらむくと、もうおられない。変だな、どこへゆかれたのかと思っている處へ、祖母君が帰られたので、その事を話すと、『変なお父様だこと』と怪しんでいる。少しすると、大阪から赤紙付の飛脚が来て、『父 危篤 すぐ帰れ』との事に、ビックリして帰ってみると、父君が風呂へ行って帰って、中風が起ったので、大阪の子供達はみな枕邊にあつまったが、一人先生の祖母君だけが見えぬので、『高はどうしたどうした』といひつつなくなったといふことだった。着物も着ていたものと、おなじだったと後にわかったといふことでした。この両事実は、S大僧正の法華信者の奥さんの話よりも、一層痛切な例である、といわねばならぬでしょう。

A あのお話は、私も自然科学の人たちに聞き、心理学者の人々に尋ねましたが、誰も解釈はつかぬといひました。それに先生は人魂現象も事実あることをお信じになるそうでそれはどんあことなのです。

居主 それは二度あるのです。一度は大正二年の晩春だったでしょう。その頃、私は「本化聖典大辞林」の編輯を、故長滝智大君と二人、三保松原の最勝閣の三階の有徳の間という處で、早朝の六時から執筆をするので、私は五時四十分頃に三階へ階段を上って行くと、有徳の間へ行く左手に閻浮の間といふ高等応接間があったが、そこから外崎浦尾といふ婦人が駈けいでて、階段を駈け下りて来て、今上って行く私に『アア、おっかない』と、まっさほの顔してぶるぶる震えながら、私にとってつかまったものだ。私は驚いて『どうしたのだ』と聞くと、『ハッハッ』といって数瞬何もいへなかったが、やがて『私が有徳の間の掃除を終って、閻浮の間を掃除していると、薩?峠の方から、赤青い火の玉で、青い糸を引いたのが、閻浮の間めがけて飛んで来たのです。それを見ると総身ゾーッとして逃げ出して来たのです』との話に、まだ薄暗いから『君は何か幻覚を見たんだろう。私と一緒にきなさい。大丈夫だから』と、引っ張って行ったが、何もそんな形跡はない。『それ御覧、何もないじゃないか』といったのですが、十時頃になると『小山時従死ス』との電報が来た。その人は陸軍三等軍医正で、入信のはじめから、私の懇意な人で、軍職を辞して開業医となることにし、芝白金に地所を求め、独得の治療法の医院を建設中で恩師智学先生から善治医院といふ名もいただいていられた。私はその一週間ほど前に、上京の序でにその仮寓を訪ねたら、夫人が『普請場の方に行ってますから、今呼んで参ります』との事だったが、三保の方に帰る時間が迫っていた為、また次の時を期して会わずに帰った。それが烽火織炎とかいふ病で当時外科の大家H氏の病院で、院長執刀の下に手術されたのだがその手術に手落があったとかで、憤慨して急逝されたということで、逝去時間と浦尾君が怪火を見た時間とは一致していたのです。まアこれはいはゆる人魂現象でしょう。つぎに今一つは翌大正三年の四月十三日の午後九時過に、鎌倉要山の恩師の令息田中芳谷氏から、当時胸の病で三保の最勝閣で静養されていた経子夫人へ、『タマコシス』との電報が来た。そこで早速御本尊宝前に在閣の教職その他が、回向法要をしたが、その翌朝、毎朝勤行時に参詣する久保田家の老媼が、勤行中に、『新帰寂の霊位』としての、環子嬢の回向を聴き、『お嬢さんは何時おかくれになったのですか』と問ふから、『昨晩八時すぎだったよ』といふと、『ではやっぱりそうだったのです』といふ、『何か会ったのですか』と聞くと、『私は昨夜八時すぎに、屋外におはばかりにいって、戸をしめようとしますと、東の方に急に明かりがさしました。何かしらと見ますと、赤い丸い火の玉に、青いおをのついたものが飛んで来て閣の大屋根を越えて、恒子様のお居間の六角堂の方へいったのを見ましたが、総身にゾーッとしまして、驚いて戸をしめましたが、それは、ほんとに早いといったら、一瞬の間の事でした』との事だったのです。小山氏の入信にも私が関係し、恒子夫人も私が事実の媒酌でもあり、正婚式の式長をもし、夫人の臨終も私の膝の上でされたのだから、共に深い因縁がある人です。私が人魂を直接見たのではないが、見たと同じほどの確実さがあるのです。

C フゥーン。さういふことがあるとすると、単なる無霊魂説、無我説では、埒があきませんね。私は元来無霊魂論や無我説に共鳴していた者ですけれども、先生が田中大先生の四十歳の四月七日に急性肺炎で、鎌倉院の院長中浜東一郎博士が、九死に一生の御容態だといはれたので、全国から重要教職や会員代表が集まり、代り代りに御宝前に御祈願をしていたが別に何の感応らしいこともなかった。ところが御発病五日目の夜八時過に、『アア、いい心持だ』といはれ、両人の看護婦が全身の水をかぶられたやうの汗をふき、新しいお寝衣をお着せして、体温を計ると、九度八分から四十度以上だったのが、何と七度以下になっている。詰合の百原医師は驚き、中浜博士が来られると、博士は『肺炎は一週間毎にの外に熱の下がることはないものだから、一層用心が肝要だ』との事だったが、その翌日も翌々日も平熱だ。すると十三日に、大阪の立正閣の留守教職河合智目氏からの報に、『十一日夜に会員集合しこの御平癒御祈念中に、天井鳴動し、御本尊は左右に、佛子の間の中央の八間の大ランプも動揺し、一同身體もみな動揺を感じた。祈祷後互に”随分大きな地震でしたな”と語りつつ、屋外に出でて近所の人々に”可なり大きな地震でしたネ”といふと、”チッとも存じませんでした”といふ。自宅近き人は引返してその旨を伝える人数人。これによると、”けだしこれ感応であろう”とて筆執った旨』が書かれていた。午後八時半で時間も符合している。これは現代の自然科学では到底説明がつかぬ事なので、はじめて超自然的の何ものかのある事を信じたとのお話を承って、先生と同じ考えとはなりましたが、個人霊魂問題は、どうも信じかねましたが、その人魂事実と無我無霊魂論とは、どういふ交渉になるのでしょうか。

居主 無霊魂論は、キリスト教その他の霊魂というものを、佛教はみとめない。無我である。霊魂などといふ肉体を離れた純精神的のものがあるということは認めませぬ。しかしそれは佛教の教理上みとめぬといふことで、大法輪のY教授もM博士も、『業の相続』といふものを認めていられる。その業といふものは五蘊仮和合の我執が、造り出したものですから、その『業』が、佛教による解脱に入らない限りは『業』が相続すると共に、その『業』の造り主たる、五蘊仮和合の妄執の我も相続する筈で、『倶舎論』等では、その五蘊仮和合の妄執の我を、『有』といっています。現在の五蘊は『現有』で、未来世の五蘊は『來有』、その『來有』となるまでの中間の『五蘊』は、『中有』です。『有』は五蘊で、五蘊は色・受・想・行・識で、色蘊は物質ですから、『中有』でも物質的即ち肉体を為していた、微細の物質はなくならない。肉体を離れた純精神の霊魂というのはありません。「梅幸芸談」や、私の祖母の談のは『現有』の臨終の強い念が、一時的仮物質を伴うて第三者に見せしめたものでしょうし、人魂現象も、やはり人體の精神組織を為す物質的部分のものが、臨終の強念によって、さういふ現象を起したものと考えられます。それに私は現に幽霊をば見たことはありませんが、それに似たものには事実接しました。
 明治初年に各藩から有為の青年を、東京に学問に出しました。謂ゆる『進士』といったようなもので、その時に盛岡からは三秀才といはれた人がだたのですが、一人は原敬氏、一人は金子彌平氏で今一人の名は忘れました。この金子氏は司法省法学校の出身で、西南戦争前に大西郷にも面会に行ったりし、乃木将軍が台湾総督だった頃に、総督府の参事官をされてましたが、のち野に下って福岡や秋田に鉱山をもち、大亜細亜協会創立者の一人でした。この人は明治四十年頃に、恩師の「宗門之維新」を見て入信し、京都の住居を立正安国会の支局にしてをられました。そして私に京都大学入学の資縁とその居室を提供する事とし、私の行くのを楽しみとしていた人ですが、「本化聖典大辞林」の編纂で、京都大学入学を断念した後、中村智蔵君が懇意にしていました。大正十年に中村君が豊田剣陵君と、恩師先生に背いて「円融生活」という雑誌を出す時に、金子氏は誤って両君に同情して、その資金を提供したりしたものだから、国柱会へは一時休会となったのでしたので、私とも音信不通でした。
 すると昭和三四年頃、ある夏の朝自宅で日刊天業民報の時談を、茶室の入口の襖をあけて書いていると、スーッと入口の前を通って座敷の方へ行った人間がある。私が座敷の病母の看護婦に声をかけて、『今そちらへ誰か行ったようだが』といふと、『いへどなたも見えません』といふ、『では家内の方にたずねて御覧』といったが、そこへも誰も来ぬといふ、『では、別枝君でも見えて、執筆中なので帰られたのではないか』と、庭づたいの総務部長の宅に人をやったが、『今日は早く社へ出てゆきました』との事で、実に不審に堪えなかったので、社で幹部の昼食の時に、『たしかに人が通ったに相違ないのだが』と談していた。すると午後二時頃に、久しく来ぬ豊田剣陵君が私に面会をと来た。とにかく会って見ると『年来まことに御無沙汰していまして、突然で相すみませぬが、実は金子東山先生が、女婿の東大教授宮崎虎一工博の處へ見えていましたが、今朝九時半に朝食中、脳溢血の発作で逝去されました。ついてはかねがね申されまして、万一死亡の際は国柱会は休会になっているが、葬式は外にしてもらはうと思う處はない。やはり国柱会にお頼みせねばならぬ。それには山川先生にお頼みするようにとの事でしたので・・・・・・』との事に、時間が恰も一致するので、ではあれは金子君であったのだとわかり、恩師先生に申しあげて、復会の手続をして葬儀を営んだが、恩師先生にもこれと同じやうな事があった。堺の某(名失念)といふ弁護士が宮部という医師の会員の紹介で、一度御挨拶に来たものだが、ある日恩師が胃病で臥蓐して午睡せられていたが、ふと醒められると、人が平伏している。『あなたは誰だ』といはれると、その弁護士だった。『何か御用か』といはれると、また平伏した。そこで手を打って『誰か来いよ』とよばれたら、もういない。おかしいなといっていられると、この人も急死して立正安国会で葬儀を願えたらと、予て宮部氏に頼んでいたが、その時刻に逝去したのであったといふことでした。ですからさういふ事実を解釈なしに否定することは、むしろ非科学的なものだといへるでしょう。
 それに就いては、私は霊魂は佛教徒として認めないが、五蘊仮和合の『我』がつくる『業』は、肉体は死んでもなくなりはしない。その『業』の相続に対しての菩提回向といふことは、私は信じる、その回向の事は、別に談しましょう。

A 私は先生のやうな迷信を持たない方が、人魂だの幽霊だのをお信じになっていますのを承って、少し驚いているのです。五十年近く前の私が佛教を信じはじめた頃、「新佛教」の特輯に、「来世の有無」といふながでました。その時に佛教の当時の青年学徒に、霊魂だの未来の転生だのを信じた人は、何でも数人しかなかったと憶えています。

居主 それは今日でも同一です。しかし私は前にあげた実例が、今日の科学で、迷信だとの遺憾のない説明ができればそれを迷信としますが、到底その説明はできないのですから、これを信ずる外はないのです。
 また輪廻転生ということも、昔の俗男俗女達には信じしめたような、地獄極楽物がたり的のことは論の外ですが、しかし精神といはれているものが、肉体の死と共に滅無に帰するといふことは、首肯しにくいのです。
 肉体というものは、生れると成長して、或程度まで大きくなり、その後は老年になると肉体の機能又は機質に、何等かの変化を来たして、漸次死に赴くのですが、その一生の間の肉体は毎日食事をとり、両便汗垢などあらゆる機関で、補充と排泄をくり返しているもので、幼少青年からの物質が、老年の時まで持続しているものは、骨、髄、神経、脳の基本的の機質機能の外には、ほとんど同一のものはないでしょう。然るに精神と称するものは、いかに老年になっても記憶のよい老人は、幼少の時をもシッカリ間違わずに憶えていますし、普通の老人でも幼少の友達に遭えば、それをおもい出しもするし、談し合えば些少の事でも互いに平素は、まるで憶えていないことも、あたかもタンスの中にしまひなくしたものを取り出すように思い出すのが、どの人にも共通の事実であます。すると肉体そのものは日々補給され、消耗されてゆくものですから、それが一定の年齢になって、老衰又は病症によって機質なり機能の活動に、正常の活動ができなくなれば、その活動が止み物質としてのみのものが残り、捨てておけばいはゆる佛教の九想の如くなれねばならぬ。そこで土葬、火葬、水葬等のことになるのだが、それは身體が元来幼少から日々新陳代謝していて、六十七十八十年の積集したものはないからそれですむのです。然るに精神そのものは、元来が肉体と全然法則を異にして、六十七十八十年の経験が積集して、いつでも記憶の中から取出せるといふものです。それが肉体が死んだから無に帰するといふことはこれは理論上不合理なことです。もっとも精神といふ現象は、肉体の六官を通じねばできてこないもので、それは物質によって成る脳髄に、印象せられるものであることは勿論です。しかし脳髄に自覚意識そのものがなければ、一生を通じて消えない印象が保存せられることはないのです。佛教ではその一生を一貫している意識に、生存中に印象して死ぬまで、潜在して消えなかった勢力的のものを業力といひ、それは肉体は死んでも相続するとするのです。この方が肉体が死んだら精神も空無に帰すといふのより、はるかに実際的ではありませんか。そして佛教の場合などでは死後相続するものは、やはり五蘊であるとしこれを『有』と名づけ、その中に微細な色蘊即ち物質的なものも存在するとするのですから、臨終の一念によってその精神的なものがラジオ的の速さでその志す所へ、その仮象をあらわしたり、又は人魂なる現象があらわれても必ずしも不思議なことはありますまい。そして佛教では今日の心霊学その他で、死者の霊がいつまでも存して、何時でも現世と交通し霊の写真を取ることができるなどといふのは、私は信じにくいのです。佛教の方ではその業力としての霊的なものは、前生の間の業の善悪に相当するところへ、自然力として生れゆくものとしますから、いつでも霊媒に引きよせられて出てきたり、又は写真にうつるなどといふことは、どうもおかしいことといはねばなりますまい。

B 先生のそのお話しによりますと人々は、生きている時の善悪の業によって、業の相当した生れる處へ行くものだと、お信じになっていますのでしょうか。

居主 そうです。その方が私の身と心といふものの、生きている時の状態から考えて、肉体と全く異なる精神のゆくへを、『業力』とみることの方が、はるかに合理的と信じ得るからです。

B 私は叔父の死んだ時に、その幽霊を見てをりますし、また先生のお話をも承り、なるほど全くその通りだと考えますが、さういふことを肯定しますと、いはゆる霊魂があるといふ通俗信仰に、まぎれ易くなるようですが、そのけじめを、どういふ風に説いたものでございましょうか。

居主 人々の個体霊魂があるというのは、総じて人類の古へを通じての信仰なのでしょう。そして宗教と名のつくものは、多くはそこに根ざしているといってもよい位のものでしょう。儒教が天地をまつり父祖をまつることは、宗教的でありながら宗教と異ふのは霊魂不滅をいはないからともいへますでしょう。
 佛教が他の諸宗教と異って、今日哲学的科学的宗教に近いといはれるのは、他の宗教でいふ霊魂=個別霊魂の我といふものを否定し、それは五蘊=色・受・想・行・識=の仮に和合したものに、『我』といふ個別の體が不滅にあると考える迷いであると、『無我』を教えるところにあり、この『無我』の真理を体得しなければ、人類の世界に真の平和は、決して来らないのだから、小乗と大乗とにかかわらず、『無我』の一線はどこまでも守らなければ、佛教ではありません。しかし、『無我』そのものは佛教の解脱=すなわち覚り=の道、生死の輪廻をまぬがれる道なのですから、迷っている衆生は決して『無我』ではなく、自我にひつかたまり、我欲か我見かのかたまりなのです。いひかへれば、『五蘊仮和合』の我即ち霊魂があると、妄信しているのです。私たちが『業力』の作す所として、梅幸芸談のようなことや、人魂現象や、幽霊現象のやうなことを肯定しても、それは佛教を知らぬ人からいへば『霊魂』のことといってもよいのですが、それは『業力』であるとして、佛教の門に入れしめるよすがとすべきものと心得べきでしょう。



第5 法華経十講より

 「それから一般の人々の考えでは、一切のものに、我である彼である、此である、其れであるといった主我性があります。此の物は此の物として決まったものである。他の物でないという決まった区別的主我性があると考えます。またキリスト教では天国に生まれるという条件としては、必ず霊魂がなければなりません。区別的の霊魂がなければならないはずでありますが、仏教では区別的の霊魂というものは、それは或る一個の集合体=色・受・想・行・識という五つの要素のあつまりに過ぎない。実体的にはそんなものはない、但し集合体としては存在する。が、徹底的にいったならば、個別的な霊魂などはないものだ、此だ彼だという区別的の存在は、変化するもので、本体ではない、と申すのです。常住の世の中はないものだ、天国もないものだ。」
更に

 「此の欲界・色界・無色界の三界を出るのが『出三界苦』というのです。外道からいひますならば、此の人間から天に生れる、天界に入ったならば欲を成就することが出来る、それよりもっと高い宗教的の地位を望むものは、そんな欲・・・・・物質的の欲を満たすなどといふことを目的として居ては駄目である、そんなものを俟たないで存在して居るのでなければ駄目だといふので物質に対する欲そのものがなくなって、物質的の最極の身體となりなほ身體があるのはいけないとなって、それから精神的存在に入ればよいのだとなり、その精神的存在の一ばんの究極の所になると、どうなるといひますと、非想非々想だとしてあります、この天は最早精神といふものが存在して居るか居ないかわからない、有も無も絶して存在するといったやうな存在です、そこまで行かなければ駄目だといふやうに、宗教思想が進んで来て居りました、釈尊以前は此の非想非々想天なんてところを涅槃といって居ったのです、それに対して釈尊は、我々に霊魂があって、霊魂がそんな風に進化して非想非々想までいって常住の生命に入るのだと、斯ういふことをいっていましたのに対して、此の三界は生死の苦をまぬがれない、何故ならばそんな霊魂なんてことを考へて居ることが間違って居るので、霊魂がありとするならば、やがてなくならねばならぬといふので、破折せられたのでありますから、其の三界のすべて、彼の非想非々想天もみなこれ火宅なりと解釈せられたのです。」


【3】 高橋智遍先生「死後はどうなる?」にお書きになられた「無霊魂」説


 「死後はどうなる?」119ページに高橋智遍先生は次のようにお書きになられています。

 『倶舎論九にこの十二因縁を説かれた目的を、人或は過去・現世・未来において、過去に曾て「我」存在せしや否や、未来に当に「我」存在するや否や、現世にて何ものか「我」なる、「我」は何に因って存するや、「我」は後に何物をのこすやとの疑惑を除遣かんがために説かれたとあります。
 佛教は小乗大乗一貫して「無我」を説きますから、キリスト教でいうような我の主体としての「霊魂」はときません。しかし業の輪廻をときます。因果が果報をひくから来世が無いとはいえない。無我だから我は実在常有ではない。煩悩精神・作業(行為)とが因となり縁となり、この因と縁が和合して我々は三世に流転していると説いてます。』
と。

 しかし、不思議なことに135ページで一旦終っているにも拘らず、137ページに「追善回向が霊魂に作用すること」という言語が第五版から入っているのです。ではここでいう「霊魂」とは何を指しているのかの説明もなく、その基づく原典とすべき根拠も全く明らかにされていないのです。
 佛教経典のどこに「霊魂」なる定義があるのか、御遺文のどこにその根拠があるのか。また、キリスト教及び釈尊時代の外道のいう霊魂と同じなのか否か、について全く説明がなされていないのであります。
 もし同じだとするならば、上の文章(119ページの文)と自語相違しているのであり、もし違うとするならばその定義を明確にするのが、佛教の大義名分でもありますが、全くそれについて書かれていないということは摩訶不思議なことであります。
 故に、ある人は「聖霊=霊魂」というような自語作製をし、何の根拠もなく、原典もなく、自分の我見を以て得たりとし、得々としている傲慢な人もいます。これほどの附佛法・学佛法の外道者はいません。
 計我謗法、浅識謗法、驕慢謗法等々を犯して、弟子檀那共々堕地獄疑いなきものか、と哀れむ結果を招く基ともなってしまっているのです。


                          
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