関西の歴史街道
奈良街道
奈良街道は、大阪と奈良を結ぶ幾本かの街道のなかで最短ルートとなっているので、江戸時代から最もよく利用されてきた街道である。
ここでは、大坂から伊勢へ行く伊勢街道の一部として位置づけている。
記述しやすいように、伊勢街道を便宜上3つに分類した。
  奈良街道とは  大阪玉造~奈良猿沢池
  初瀬街道とは  奈良猿沢池~初瀬
  伊勢本街道とは  初瀬~伊勢神宮  としている。

奈良街道の概要

行程記 
区間 
距離(約) 
ウォーキング適格度 
 第1回
大阪玉造~東大阪市豊浦町 
12km 
2点(5点満点) 
 第2回
 東大阪市豊浦町~尼ヶ辻
15km 
5点 
narakaidomap.pdf へのリンク

第1回 大阪玉造~東大阪市豊浦町  距離 約12km

お伊勢参りの出発点を大阪玉造とする。玉造は近世まで大阪の東の玄関口であった。JR玉造駅北の長堀通り(国道308号)の南側の歩道を東へ行くと二軒茶屋跡碑が立っている
二軒茶屋跡碑
 (碑文)「玉造名所 二軒茶屋/石橋 旧跡  (東面)寛永八年十二月朔日架橋」
道を挟んで北側に「ます屋芳兵衛」、南側に「つる屋秀次郎」の2軒の茶屋が向かい合っていたので二軒茶屋と呼ばれていた。
お伊勢参りの人々は、親類縁者、朋輩らと朝早くにこの二軒茶屋で酒の一杯も酌み交わし、見送りを受けて奈良へ向けて旅立ったのである(図101)
また、碑に書かれている石橋とは、近くを流れる猫間川(ねこまがわ)(現代は消滅)に架かる橋のことで、江戸時代の初め、大坂で初めての石橋であったため珍しがられてこのように呼ばれるようになったのである。
跡碑から次の信号を渡り斜め右の小路へと入っていく。玉造駅東商店街通りで旧街道でもある。
商店街の中ほどに矢田地蔵道標がある。
 (碑文)「矢田地蔵尊 此より東」
  「従是(ここより)二り松原 一り余りくらがり峠 一里余小瀬(おぜ) 一り矢田山」 と書いてあるらしい。
矢田山とは、奈良県郡山市にある矢田寺のことで、正式名は金剛山寺といい、日本最古の延命地蔵菩薩が祀られ、地蔵信仰の中心地となっている。また、あじさい寺としても有名である。これから行く暗峠にも矢田の出迎え地蔵という石仏が安置されている。
やがて商店街の旧街道は南北の大きな道路に突き当たるので、この道路と斜めに走っている長堀通を突っ切って商店街の続きの道を東へと進む。平野川に架かる玉津橋が現れる。欄干に6枚の絵地図が掲げられている。
橋を渡ったところを右に折れ南に進む。
この辺りから次の大今里村、深江村までは昔の堤道で、道の両側は田んぼであった。現代でも大今里までの道は、周辺の敷地より1~1.5mほど高くなっているのが確認できる。
玉津橋から南下してしばらく進むと、常善寺道標のある五差路の交差点に着く。何ともややこしい交差点であるが、斜め右折れして道なりに南へまっすぐ進むと街道はやがて東へ向きを変えていく。
東成警察署の前を通り過ぎるとすぐに今里筋の道路に突き当たる。近くの信号で道路を横断し続きを歩くと、街道の道幅は狭くなり旧街道の雰囲気がかすかに出てくるが、両側の家々はほとんどが新建材で建てられている。
道はやがて玉造商店街を出たところで突っ切った長堀通(国道308号・旧産業道路)に再び合流する。そこに笠灯篭が立っている。
笠灯篭(写真101)
高さ1.8mの角柱の上部に四角い火袋があって、その上に屋根形の笠を載せた珍しい道標である。夜間には明かりをつけて、道行く人の便を図ったものと思われる。
  (正面) 左 なら いせ 道
  (右面) 右 かしのだう くハんぜをん 志ぎさん 八尾 久宝寺 道
  (左面) 旹文化三年丙寅猛春 施主…        文化三年=1806年
  (裏面) 世話人……
笠灯篭から深江までは国道歩きを我慢しなければならない。しかし、途中の地下鉄深江駅構内には深江菅笠を描いた壁画があるので、立ち寄ってみるのも一興である。
新深江交差点からしばらく東へ進むと、旧産業道路は斜め左へ行くが旧街道は真っすぐ東の細い道を進む。この道の南側は河内国足代村で、北側は摂津国深江村となっている。街道はしばらくして北に折れるがここから先は暗峠まで河内国を行くこととなる。
深江菅笠(すげがさ)
笠を買うなら深江が名所と謡われたように、深江村は笠の名産地であった。街道から少し北に位置する深江稲荷神社には
 「深江菅笠ゆかりの地」と「摂津笠縫邑(かさぬいむら)跡」の碑が立っている。
飛鳥時代に大和国笠縫村の人々が良質な菅を求めてこの地に来たといわれている。
前者の碑文には
 「深江菅笠は伊勢まいりなどに愛用され、また伊勢神宮式年遷宮 歴代即位式の大嘗会には 菅製品がこの地から調達された」
と記されている。
また、『摂津名所図会』には下記のように記されている。
「深江村および隣村に菅田多く有りて、其菅他所に勝りてよしとぞ。これを笠に作りて諸国に送る。すへて深江笠と称して名産とす。」
再び旧産業道路を東へと進む。布施棚通り交差点を左斜めに折れ、東北の細い道に入る。ここら辺りが東大阪の高井田で中小の工場地帯となる。時代のすう勢か、工場に代わってマンションが所々に建っている。
JRおおさか東線の高架下をくぐり抜けしばらく行くと、長瀬川の手前に西岸地蔵がある。この辺りは旧大和川が流れていたところで、西岸地蔵はその大和川の西に祀られていたからこのような名前が付けられている。当時の大和川は幅が270mもあったそうで、旅人は舟で渡ったそうである。水難防止のためこの辺りには地蔵尊が多数祀られている。
大和川が付け替えられた跡では新田開発が進み、この付近は新喜多(しぎた)新田と呼ばれている。新田の中央に新しく開削したのが現在の長瀬川である。奈良街道はこの川に新喜多橋という橋が架けられた。
新喜多橋を渡ったところに小さな道標が立っている。
  (東面) 大阪高麗橋元標二里廿丁 大坂□
  (南面) 放出停留所三十丁
  (西面) 枚岡へ一里三十三丁
大阪高麗橋元標とは、明治9年に大阪市の里程標を高麗橋東詰に設置し、道路基準としたことによる。
街道は再び旧産業道路に合流する。御厨交差点でまた左折する。細い旧道を進むと重厚な門構えの植田家住宅が現れる。
植田家住宅(写真102)(市指定文化財)
大和小泉藩主片桐石見守などの本陣札などが残されている。片桐石見守はここから東になる吉田村の領主でもあった。植田家はいわゆる茶屋本陣に似た形態で、昼食などをとったものであろう。
また、「山田湯」という薬湯の調剤本家の看板も残っている。
主屋は桁行10間、梁行5間半、2列6間取りの大きな家で、今は桟瓦葺であるが、もとは本瓦葺であった。建築年代は19世紀の初めころと推定されている。
第二寝屋川を渡ると再び旧産業道路に合流する。近畿自動車道のガード下をくぐり、なおも東へ進む。菱屋東交差点の一本南の細い道が奈良街道である。菱屋東交差点を南北に貫くのが河内街道で、奈良街道と河内街道の交差する南西角と北東角に小さな道標が立っている。南西角の道標には、大坂・枚方・八尾などの名前が刻まれ、北東の大きな道標には、石切・瓢箪山・住道・四条畷などの名前が刻まれている。
また、その交差点から少し東に八劔(やつるぎ)神社が鎮座していて、そこにも3基の道標が、どこからか持ってこられて並べられている。そのうちの1基には瓢箪の絵が描かれその下に山と刻まれ、「瓢箪山」を絵文字で表している。
八劔神社の前の道を東へ進み、旧産業道路を斜めに突っ切ると昔の菱江村である。村の東端におかげ灯篭ともちのき地蔵が立っている。
おかげ灯篭
  「太神宮 おかげ躍子中 天保二年(1831)二月吉日」 と刻まれている。
前年の文政13年(1830)は、伊勢神宮の遷宮の行われた年(おかげ年)で、この年に参詣すると平年より一層のご利益があるといわれ、「おかげ詣り」といって参詣人はかなり増えている。この灯篭は文政13年におかげ参りに参加した伊勢講の人々によって、あくる年に立てられたものと思われる。
旧産業道路と合流したあとは車道歩きがしばらく続く。花園ラクビー場交差点手前の歩道橋のあたりから斜め左の道に入り松原宿を目指す。英田(あかだ)北小学校の南側、東側と進むと松原宿の中心部となり、最近立てられた松原宿跡の石碑がある。
松原宿
江戸時代に入り、奈良街道の重要性が増してきた。幕府は明暦年間(1655~58)、街道支配のために、奈良街道で唯一の公式宿場をこの松原に設け、馬や人足を常備することを定めた。寛永年間(1624~)の記録では、ここにはすでに16軒の旅籠があったそうである。
松原宿跡碑の北には、大きくはないが太い立派な文字が刻まれた道標が立っている。街道はそこを右に回り水走(みずはい)へと入っていく。ここら辺りまで来ると、生駒山が目の前に迫ってくる。
恩智川を渡り、国道170号(大阪外環状線)をまたぐ歩道橋を渡ると、やがて箱殿交差点に着く。ここを南北に貫く道は東高野街道である。東高野街道は、京都から八幡、四条畷、八尾、富田林を経て河内長野で西高野街道などと合流し高野山女人堂へと至る街道である。
箱殿の道標(写真103)
交差点の西北角に、高さ1.6mの立派な道標が立っている。
  (北面) 南江すぐ かうや おうミ祢道          =南へすぐ 高野 大峯道
  (東面) 西江すぐ 大坂 金ひら道
  (南面) 柳谷観世音菩薩道 京八はた 淀ふしミ
  (西面) 東江すぐ なら いせ道
ちなみに、ここに出てくる「すぐ」とは真っすぐにという意味で、昔の道標にはよく使われている。すぐにとか直ちにという意味ではない。
箱殿交差点から真東へ延びる少し細めの道が奈良街道である。道なりに進むと、やがて宝幢寺(ほうどうじ)の地蔵堂がある四つ辻にでる。ここを地蔵の辻と呼ぶ。宝幢寺地蔵堂は、方2間、宝形造り、本瓦葺の江戸中期の建物である。堂内には、全身に彩色を施した立派な子安地蔵尊が祀られているらしい。
本日の街道歩きはここまでとする。ここから近鉄枚岡駅までは、昔の枚岡神社参詣道を辿っていくことができる。
図101 二軒茶屋の賑わい
写真101 笠灯篭
写真102 植田家住宅
写真103 箱殿の道標

第2回 東大阪市豊浦町~尼ヶ辻  距離 約15km

前回の地蔵の辻を左に折れ東に向かう。この道は国道308号であるが、奈良街道でもある。近鉄のガード下をくぐると、道は急な登りが始まり、道幅は狭くなる。
水車といえば、もう少し北の辻子(づし)谷が有名であるが、この道にも往時は水車が多数設置されていた。動力として利用され、製粉、伸線などの工場があったが、現在はほとんど残っていない。名残の伸線工場が1,2軒あるだけである(写真104)
芭蕉句碑
江戸時代の俳人松尾芭蕉(1644~94)の句碑がある。
元禄7年(1694)、病をおして伊賀国を発った芭蕉は、旧暦9月9日の重陽の節句(菊の節句)に、奈良から大坂に向かって峠を越えた。そのとき詠まれたのが、「菊の香に くらがりに登る 節句かな」の句である。この暗峠超えが芭蕉最後の旅となり、大坂に入って間もなく、10月2日に亡くなっている。
観音寺
芭蕉句碑から少し行くと、街道の右下に観音寺がある。
観音寺の境内に少し開けた場所があるが、そこは江戸期の俳人・文人や中村代官、さらには諸大名が休憩した茶屋跡であった。その茶屋跡の傍らに「木魚石(もくげいし)」という巨岩がある。昔、子供にお乳を飲ませるころになると、この石から木魚のなる音がしたことからその呼び名が付けられたといわれている。
観音寺を過ぎてしばらく行くと髪切(こぎり)山慈光寺への石の道標があるが、この辺りから弘法の水まで急坂が続くことになる。500mほどの道のりで約100m登らなければならない。
弘法の水
街道の右に弘法の水という祠がある。昔はきれいな水がこんこんと湧き出ていたが、第二阪奈道路の工事の影響か、今は枯れてしまっている。
しかしながら、祠の奥に、花崗岩製で高さが1.7mほどの立派な笠塔婆があり一見の価値はある。上部には光背形の彫りくぼみを造り、その中に阿弥陀仏座像が厚肉彫りされている。その下に南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれている。東大阪市の文化財として指定されている。
弘法の水辺りから200mほど行くと、右手に段々畑が現れ、左手にちらほらと人家が見えてくる。その人家の前の坂道を登りきったところが暗峠である。
暗峠(写真105)
暗峠は、生駒山頂の南側の鞍部にあり、標高は455mである。江戸時代に郡山藩によって敷設された石畳が今も残っている。
同じく江戸時代には郡山藩の本陣が置かれ、街道沿いに20数戸の旅籠・茶屋など商家が並んでいたようである。しかしながら現在は、奈良側の2軒を入れて10戸足らずである。松原宿と奈良間の間(あい)の宿としての面影は薄い。
暗峠に到着して、まず目につくのが矢田の出迎え地蔵である。矢田寺の本尊は地蔵菩薩であるが、その地蔵さんがわざわざ出迎えにきておられるということで出迎え地蔵と呼ばれている。玉造商店街にも矢田地蔵があったが、なかなか商売熱心なお寺である。
その地蔵尊の前に、矢田寺を示す2基の石柱が並んで立っている。1基の石柱には矢田寺まで2里と刻まれ、片方には矢田寺へ3里と刻まれている。『関西山越えの古道』(ナカニシ出版)の著者中庄谷直氏は面白い説をとなえている。2里の方は生駒谷から乙田(おとだ)を通り矢田丘陵を越えて矢田寺の裏から入る最短ルートを表すとして、3里の方は奈良街道をこのまま進み、郡山城下を通って矢田寺の正面から行くルートとしている。
暗峠にはもう一体の石仏があり、暗峠石仏と呼ばれている。
暗峠地蔵石仏 (『奈良県史』から)
暗峠の石畳道より少し北に坂道を入ったところに地蔵堂があり、等身大の地蔵石仏が安置されている。花崗岩製、高さ162cm、幅72cm、堂々とした姿と大柄な面相の作風から受ける印象は重厚な趣が強く、極めて古風である。左脇に小さな文字の刻銘があり、わずかに「文永」の文字が判読できる。鎌倉時代中期の文永年間の造立と考えられる。峠の地蔵と呼ばれ、暗越え奈良街道を旅する人々の信仰仏として、多くの信者を集めていたことであろう。
信貴生駒スカイラインのガード下をくぐれば、奈良県生駒市西畑である。西畑から次の藤井町までは道路の拡幅工事が行われ、国道らしくはなってきたがその分旧道の面影はほとんどなくなってきた。
宝山寺への分岐がある交差点から200mほど進むと、石造阿弥陀仏の看板があり、右手の奥に石仏が鎮座している。昔はこの道が街道であったが、バイパスができたため表街道から外れ取り残されたようになっている。
藤井町石造阿弥陀仏 (現地説明板)
総高136cm(像高108cm)。来迎印を結んだ像全体を薄肉彫で表したうえに、面部、衲衣(のうえ)、衣文などを線彫で施している。鎌倉時代の作。
藤井町に入ると道は狭く、家のたたずまいも旧街道の雰囲気をそこそこ残している。
藤井町の中ほどに石佛寺がある。阿弥陀三尊を本尊とするが、秘仏で拝観できない。境内には元禄四年石佛寺と刻んだ石灯籠や鎌倉様式の五輪塔がある。
ここら辺りから、これから越える矢田丘陵が見えてくる。
萩原町を抜けると近鉄南生駒駅の南に出てくる。南北に走っている国道168号が昔の清滝街道である。国道、近鉄線を渡ると小瀬町の中心地に入っていく。
小瀬(おぜ)は暗峠と榁木(むろのき)峠とのほどよい中間の休み場として、旅籠・茶店があって賑わったようである。今でも小瀬の集落内は道幅も狭く、両側の家々も落ち着いたたたずまいを見せている。しかし、すぐに新興住宅街に変わり、道幅も広くなる。なおも進むと大瀬中学校に突き当たる。以前(むかし)は、この大瀬中学校の南を巻くように道は東に通じていたが、今は南山手台が開発され街道は消滅してしまった。南山手台のずっと南に新しく車道が付けられたのでそれを進むしか策がなくなった。かなりの遠回りとなるし、殺風景な車道で面白味はまったくない。
左へカーブする辺りで西の方を見ると、今越えてきた暗峠や生駒山の雄大な景色が広がっている。新しくできた「歓喜乃湯」足湯施設を右手に見ながらなおも坂道を登っていくと、やっと山道らしくなってくる。そこを登りきったところが榁木峠(むろのきとうげ)である。
榁木峠(写真106)
標高264mほどの峠で、街道らしさは少しだけ残っている。峠の小高いところに、船形光背を背負って遊華座に立つ地蔵尊があり、峠越えをする旅人を見守るように立っている。
榁木大師堂の隣には「中野茶屋(なかんじゃや)」があって、道端の縁台で、旅人は団子を頂いたそうである。
榁木峠から、700mほど坂を下りると、矢田寺への分岐道があり、2本の道標が立っている。
矢田への道標 1  高さ1.2m
  右 とうみやうじ 七丁                   とうみやうじ=東明寺
    やたさん 一五丁
  左 むろの木峠
矢田への道標 2
  南 矢田山 一五丁
少し行くと追分神社が現れる。住所は奈良市中町であるが、旧名は追分である。村の中を通り抜けた東端に本陣村井家住宅が建っていて、郡山へ行く道が分かれているので追分と呼ばれている。本陣の廻りには茶店もあったようである。
追分本陣村井家住宅(写真107) (現地説明板) 奈良市指定文化財
建てられたのは、19世紀初め~中期である。主屋と本陣座敷に分かれている。主屋の屋根は茅葺きと桟瓦葺きを組み合わせた大和棟形式である。座敷棟は、上段の間、控の間、玄関などからなっている。
追分の道標
村井家住宅の前に、上部に笠石をのせ、その下に地蔵石仏が浮彫された道標が立っている。これも奈良市指定文化財となっている。
  (西面) 右 こほり山                   こほり山=郡山
     左 はせいせ
  (北面) ならへ一里十丁
追分の道を下りて行く。奈良市水道局大和田配水池の右側を巻くように通り過ぎ、跨道橋で第二阪奈有料道路の上を通ると中ノ上集落である。しかし、住所表記は奈良市中町のままである。村の東端に大きな常夜灯が立っている。天保7年(1836)の銘がある。
  (南面) 木嶋社 闇夜燈 往来安全
  (東面) 取次 村浜市左衛門
  (西面) 取次 山上作兵衛 天保七年
常夜灯の側に、矢田寺への指さし道標も立っている。
富雄川を渡ると南北の道があり、これも清滝街道と呼ばれていた。奈良街道とこの清滝街道の交差点が砂茶屋である。小さな広場に地蔵堂があり、中型の地蔵菩薩が祀られている。台石に享保(1721)の銘がある。この付近にも茶屋があったそうである。
清滝街道を通り過ぎると、道は広くなり、車の通行量も多くなる。両側の家々は新興住宅で、ぽつりぽつりと昔の家が残っているだけである。旧街道の面影はまったくない。
砂茶屋から500mほど東進した辺りに赤膚焼の窯元があるはずであるが街道筋からは見つけることができない。赤膚焼は、郡山藩主豊臣秀長が尾張常滑の陶工に焼かせたのが始まりといわれている。
第二阪奈有料道路の下をくぐり、なおも北東へと進むと、平松町の宝来交差点にたどり着く。この交差点を右折して東へ進む。ここで初めて国道307号から分かれることになる。やがて街道は垂仁天皇陵に突き当たる。天皇陵の北側の道を進んでいくと、道は再び国道に合流する。安康天皇陵と垂仁天皇陵を示す道標などがあり、さすが大和国だと感心するところである。
やがて近鉄尼ヶ辻駅に到着する。ここから奈良猿沢池までは史跡もあまりなく、直線の国道歩きとなるので、街道歩きはここまでとする。
写真104 街道 東豊浦
写真105 暗峠
写真106 榁木峠
写真107 追分本陣村井家住宅
この項終わり。
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付録 伊勢参宮神乃賑(大阪落語・東の旅)から旅たち

(前略)
旅にもいろいろとございます。東の旅というのは伊勢参りのおうわさで、「伊勢参宮神乃賑(かみのにぎわい)」と申します。西の旅は「兵庫渡海鱶魅入れ(ふかのみいれ)」、北の旅は「池田の猪買い」、南の旅は「紀州飛脚」、天に昇りますのは「月宮殿星都(ほしのみやこ)」、海の底へ行きますのは「竜宮界竜都」、異国へ参りますのが「島巡り大人(たいじん)の屁」、あの世に行きますのは「地獄八景亡者戯(もうじゃのたわむれ)」と、いろんな旅がしこんではございますが、やはり一番陽気なんはこの東の旅、お伊勢参りのおうわさですな。
お伊勢さんというのはまことに陽気好きの神様で、道中酒は飲んでもかまわん、散在はしほうだい、みんな帰りには女郎買いをして帰ろかという陽気な旅で、そら盗人(ぬすと)でも、間男(まおとこ)でも、……そらどうや知りませんが、とにかくこれはもう天下御免の旅、信心半分、遊山が半分という旅ですな。
この伊勢参りでもなんでも旅は春と秋とに限ったものでして、やっぱり寒いときやあんまり暑いときは具合が悪い。旅は秋春(あきはる)てなことを申しましたが、秋口よりは春先のほうが良(え)えようで、秋は万事が陰気になっていけまへんな。秋風というやつがピューッと吹いてくる、木の葉がパラパラ散る、襟元から寒さがぞーっと忍び込んでくる。振り分けの荷物の中から着替えを出してきて一枚重ね着にせんならん。「さびしさに宿を立ちいでて眺むればいずくも同じ秋の夕暮れ」てな歌がございますが、日は暮れかかってくる、とぼとぼと歩く足は重となる、腹は減ってくる、日は暮れかかるわ、宿屋は遠いわ、遠寺の鐘がボーンと鳴ったりしたら心細うて歩いてられやいたしませんが、そこへくると春先は万事が陽気でございます。
空にはヒバリがチュンチュンとさえずっていようか、下にはかげろうが燃えていようか、遠山にはかすみがたなびいてれんげたんぽぽの花ざかり、麦が青々と伸びて菜種の花がその間を色どっていようというような陽気になりますと、身も心もうきうきといたしまして、われわれでももう家も屋敷も田んぼもみな売ってしまえ、てな気に……、ないさかいによう売りませんが……。この襟筋の観音さんまでが上這(いわば)いをなさろうかという本陽気になってくると旅心というやつが動きますな。時候も良うなったし、ひとつお伊勢参りでもしようやないかと不精(ぶしょう)なやつで、でもつきのお伊勢参りで……。
うまの合いました二人の大阪の若い者、伊勢参りと定まります。黄道吉日を選んで赤い御飯の一つも炊いてもらいます。親類や友達、近所隣へあいさつもすましたというやつ、大勢の者に見送られまして安堂寺橋から東へ東へと旅たちましたが、風体がようございます。片一方は藍弁慶の袷(あわせ)に下に浴衣の重ね着、もう一方は縞の千筋に下浴衣、筑前博多の帯をキュッと貝の口に結びまして、しゃらほどけのせんようにというので、その上から細紐で一本こう結(ゆ)わいてある。一幅(ひとはば)半の浜ちりめんをぐるぐるぐるぐる体へ巻きまして、余った端を縄のようによってちょっとこうはさみますのやが、遠目から見ますと大木にしめなわを張ったか、すたすた坊主が堂に迷うたかてな格好で、新(さら)の手拭いを頭に載せますと、ほおかぶらんというやつをいたしますな。ほおかぶりやおまへんね、ほおかぶりというとここへこう結びまっさかい、こらなんやババ買いみたいになってどうも色気がない。まげの下へ持って行て後ろでこう結ぶ。両方のひさしをぐーっと突き出しますと格好がよろしい、こいつはほおかぶらんというやつですな。
(中略)
大坂離れてはや玉造。二軒茶屋と申しましてここに枡屋芳兵衛、鶴屋秀次郎という二軒の茶屋がございます。ここで腰を掛けまして見送りの連中と酸(す)い酒の一杯も飲んで別れをかわします。あとは二人連れ、さあ出ておいで、心得た。中道本庄玉津橋、道を深江へ取ってまいります。笠を買うなら深江が名所、てな事がございまして、名前は深江笠やけど実は浅い笠の一かいずつも買いかぶりますと、御厨額田豊浦(とゆら)松原……。出てまいりましたのがくらがり峠。くらがりと言えど明石の沖までもという句碑が立ってございます。しかしあれはくらがり峠やない、あんまり坂が急なさかい馬の鞍が返るのでくらがえり峠というのがほんまやちゅうんですが、そんなことはどっちでもかまやしませんが。
くらがり峠を越えましてやれやれと思う間もなく榁の木(むろのき)峠、小瀬に砂茶屋尼ヶ辻、ここに棒が一本立ってございまして右が大和の郡山、左は南都奈良としてございます。南都とは南の都と書きますのやそうで、「いにしえの奈良の都の八重桜今日九重に匂いぬるかな」という有名な歌がございますが、まあ仏さんお寺はんの多い所ですな、「奈良七重(ななえ)七堂伽藍八重桜」、「菊の香や奈良には古き仏たち」……いろんな名句がございます。東大寺の大仏さん、二月堂、三月堂、若草山、春日さん、まあ灯籠と鹿の多い所ですな。あの数をよんだものは長者になるてなこというて、しかしまあいまだによんだという人も長者になったという話も聞きまへん。まあ灯籠かてぎょうさんありますわな、鹿なんか動くさかいわからん、どうしても鹿の数はしかとはわからん……灯籠の方はちゅうたら、とうろうわからなんだ、てな洒落が残っておりますが。
奈良には印判屋庄右衛門に小刀屋善助という古い名代の旅籠があります。幾日逗留いたしましても家具と夜具との変わるというのがここの自慢やそうでして、両人印判屋に一泊いたします。
あくる朝は早立ち、ぶらっと野辺へかかりますと、それに引きかえ向こうの森陰(もりかげ)から出てまいりましたのが下辺(しもへん)の道者とみえましておよそ人数は百人ばかり、銘々笠の揃え、遠目から見まするとさながら松茸かしめじの行列同様、お伊勢参りの帰り道、伊勢音頭を歌いながらやってまいります。その道中の陽気なこと。
以下、喜六と清八の掛け合いが続きます。(以下略)
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