関西の歴史街道
初瀬街道

街道の概要

 行程記
区間 
距離(約) 
ウォーキング適格度 
第3回 
奈良猿沢池~柳本 
15km 
3点(5点満点) 
第4回
柳本~初瀬
11km 
4点 
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行程記 第3回 奈良猿沢池~柳本  距離 約15km

猿沢池の北西部、三条通りに面して高札場が復元されている。橋本町の有志が文献を参考に忠実に復元したものである。同じところに奈良県道路元標も設置されている。
初瀬街道は、三条通りから別れ、猿沢池の西側を南下して奈良町の中心へ進んでいく。猿沢池の南西角に、2基の常夜灯(写真111)が街道の両側に設置されている。大坂を朝早くたった旅人はその日は奈良に泊まり、あくる日は奈良の寺社を丸1日かけて参拝・見物するのが一つのパターンであった。そして次の朝、旅人はこの常夜灯に見送られるようにして伊勢を目指して再度出立したのである。
この辺りは奈良町であるが、奈良町とは今も昔も官が定めた町名ではなく、一般に使われているものである。その範囲は、昔の平城京の北東部、二条から五条にかけての3区画分が東に張り出した外京(げきょう)と呼ばれる区域に形成された町並みである。
奈良町は、道路は概して近世以来のままであり、道幅の狭いところが多い。また、奈良町一帯では近世以来の町名が今も用いられている。街道筋では、今御門町(いまみかどちょう)、勝南院町(しょうなみちょう)、中院町、中新屋町、芝突抜町(しばつきぬけちょう)、芝新屋町、元興寺町と、1km足らずの間に由緒ありそうな名前が続いている。
奈良町を南下する。鉤型の辻を通ってなおも行くと、ならまち格子の家と藤岡家住宅が向かい合って建っている。ならまち格子の家は、標準的な町屋を再現した家で、格子、虫籠窓(むしこまど)、煙抜き、箱階段等をそろえている。
藤岡家住宅
18世紀後半に建てられた商家で、国の重要文化財に指定されている。下すと商品陳列棚になるばったり床几や上げると店の間がオープンになる揚蔀など町屋の姿をよく残している。
なおも南へ進んだ肘塚町に、高さ3mほどもある大きな常夜灯が2基立っている。
肘塚町の常夜灯
ともに文政十三年(1830)庚寅五月の銘がある。1基は金毘羅大権現、もう一つの方は3面に天照皇大神宮・春日大明神・八幡大菩薩と刻んでいる。
以前は道の両側に1基づつ立っていたように思うが、道路工事か何かの折に並べられてしまったのだろう。立派な常夜灯の値打ちが半減してしまった。やはり常夜灯は道の両側に置いた方が旧街道の雰囲気が抜群に上がるからである。
次の出屋敷町に古い民家が2,3軒あるがすぐ途絶えてしまう。ここら辺りから民家が途切れ、両側に田畑が広がり、のんびりとした景色に変わってくる。
猿沢池から約一里のところは帯解で、集落の中に帯解寺がある。
帯解寺(写真112)
華厳宗の古寺で俗に帯解地蔵と呼ばれている。平安前期、文徳天皇はなかなか御子に恵まれなかった。春日明神に子授けを祈られたところ、帯解子安地蔵菩薩に祈願するようにといわれた。勅使を遣わし祈願すると、皇后は無事男子(後の清和天皇)を出産されたという。
本尊は木造半跏像の地蔵菩薩で、座高は1.9mもあり堂々とした風格を備えている。
街道は天理市の蔵之庄町に入る。県道31号と交差するところに高井病院がある。
タニタ食堂
健康レシピで有名なタニタ食堂が高井病院別館にオープンした。昼時分にここを通るようであれば昼食に便利である。塩分控えめの料理の考え方とか有益な情報を得ることができる。ただし、日曜日と祝日は休業している。
高井病院の横を通り抜けると、少し街道らしくなってきて、蔵之庄町の中心部になると旧街道らしい雰囲気が出てくる。大阪玉造からここまで、初めての旧街道らしさといってもよいほどである。
楢町に入ると、珍しい銅の鳥居がある楢神社が鎮座している。本殿は文久2年(1862)、春日大社の式年遷宮により払い下げられたもので、氏子たちが春日大社から担いで運んだと伝えられている。
楢町に続くのが櫟本町(いちのもとちょう)である。小さな宿場で茶屋などもあったらしいが、近世では市場が開かれていたらしい。鉤型の辻を東西に走っている道は竜田道である。西へ行けば、法隆寺、竜田神社へとつながっている。
この辻に小さな道標が蹲るように立っている。
櫟本町の道標
  (東面) 享保十二丁未八月吉日                享保12年=1727年
  (南面) 右 なら 左 たつた みち
  (西面) 右 ほう里うじ 左 はせみち             ほう里うじ=法隆寺
名阪国道のガード下をくぐると石上町(いそのかみちょう)である。何か古めかしい町名にふさわしく旧街道らしい雰囲気がある。
街道がゆるく東へカーブするところに、田部町の太神宮常夜灯と愛宕山常夜灯が立っている。街道は次の辻を右に曲がり南下する。
天理市街に入る。天理駅から東に延びる道路との交差点の東に川原城会館があり、道標が3基集められている。どこから運んできたのか不明である。
天理商店街と国道25号を続けて抜け、小さな布留川を渡ると、丹波市町の中心である。
丹波市(写真113)
丹波市という地名からわかるように、中世からの市場町であり、宿場町でもある。また、内山永久寺や石上神宮の門前町としても栄えた。
市場のあったところは今でも道幅が広く、今は暗渠になっているが道の中央には小川が流れていて、馬などの飲料として使われていた。市坐(いちにいます)神社と戎神社が街道に面して西向きに鎮座している。
道にまたがった屋根だけの小屋がある。これは「陽屋根(ひやね)」といって今でいうアーケードの役割を果たしていた。
街道は三味田町(さんまいでんちょう)に入り大きなカーブを描きながら東へと進む。そのカーブが始まるところに芭蕉句碑がある。貞享4年(1687)弟子杜国を連れて吉野へ花見に行く途中、次のような句を詠んだ。
  草臥れて宿かる頃や藤の花  はせを
東へ進む街道の両側は田んぼでのどかな風景が広がっている。国道169号を突っ切りると佐保庄町に入っていく。右側の墓地の旭寺跡に観音石仏がある。
旭寺跡観音石仏
奈良市の隔夜堂と初瀬長谷寺とを往来して隔夜念仏修行をする僧侶が、ここで朝日を迎えたところから、旭寺が建っていたという。その寺の本尊と思われる聖観音石仏は、花崗岩製、高さ128cm、幅58cmの船形で、蓮華座に立つ像高95cmの聖観音を半肉彫りする。(『奈良県史』)
隔夜僧とは、長谷寺の隔夜堂と、奈良の新薬師寺にほど近い隔夜寺とを隔日に往来した修行僧のことで、両寺で一夜づつ宿泊していたことになる。その修業は、千日あるいは千五百日の間続けられたという。
佐保庄町にはもう1基の石仏と板碑が立っている。
関の地蔵(写真114)  (『奈良県史』)
関の地蔵と呼ぶ石仏が道端覆堂内に祀られている。花崗岩製、高さ143cm、幅60cmの船形で、蓮華座に立つ像高98cmの半肉彫りの地蔵である。錫杖・宝珠を持ち、頭上と左右に7個の種子を刻み、像の左右に以下の刻銘がある。
  法華千部供養 道全阿弥陀仏
  天文十九年九月吉日円明施主□□              天文19年=1550年
六字名号板碑
地蔵の横に立つ。花崗岩製、高さ171cm、幅45cmで頂部を山形に造る。蓮華座上に「南無阿弥陀仏」と血縁者名を多く刻み、左右に「永禄元年(1558)十一月十五日」の年号を刻む。
再び国道を突っ切り南下すると、大和(おおやまと)神社の鳥居が見えてくる。
大和神社
街道から西へ350m、橘森(たちばなのもり)という名の木立の中を進むと拝殿が見えてくる。本殿は東に面し3棟ある。真ん中が主神の日本大国魂(やまとおおくにたまの)大神で、全国の地主神とされ、土木建築業界の崇敬が篤い。あと左右に二柱が祀られている。平安時代の中ごろに定められた二十二社の一つである。
二十二社とは、平安時代の中ごろから国家の重大事や天変地異など、大事件が発生したときに、定例的に祈願の奉幣を受けるようになった神社のことである。
大和神社から約1kmで柳本町に着く。江戸時代には柳本藩の陣屋がおかれたところで、現在でも宿場町らしい雰囲気が少し残っている。
写真111 猿沢池 2基の常夜灯
写真112 帯解寺
写真113 丹波市
写真114 関の地蔵 

行程記 第4回 柳本~初瀬  距離 約11km

出発はJR桜井線柳本駅とする。
山の辺の道にある長岳寺からの参道が初瀬街道と交わるところに五智堂がある。
長岳寺五智堂(写真115)  (現地説明版)
長岳寺の飛び地境内に建っている。方1間の小さな建物で、中央には太い芯柱を立てた極めて珍しい構造である。俗に真面(まめん)堂とも呼ばれる。『大和名所図会』では傘塔と記されている。鎌倉時代のもので、国の重要文化財に指定されている。
五智堂の横に太神宮常夜灯道標が立っている。道標には、「元禄七年 釜口山長岳寺従是五町」と刻まれている。
街道を少し東に入ると黒塚古墳がある。全長約130mの前方後円墳であるが、何といってもここを有名にしたのは、平成9年から翌年にかけての発掘調査で、三角縁神獣鏡が33面も発見されたことである。
この辺りに柳本藩の陣屋があった。柳本藩は織田信長の流れを引くものである。信長の弟で茶人としても有名な織田有楽斎は関ヶ原の戦いの功で大和国に3万2千石の領地が与えられたが、隠居に際し4男の長政と5男の尚長に自らの所領を1万石ずつ分与した。この尚長が柳本藩の藩主となり明治まで続いたのである。
柳本町を通り過ぎると桜井市に入る。今の行政区画では細かく分かれているが、この辺りは旧の纏向(まきむく)村である。集落の中ほどに、穴師坐(あなしにます)兵主神社の一の鳥居が街道に面して建っている。この神社は、東方の山の辺の道のまだ向こうの山裾に鎮座している。
一の鳥居から兵主神社までの道筋に、伝承地ではあるが、垂仁天皇の珠代(たましろの)宮跡と景行天皇の日代(ひしろの)宮跡がある。また、相撲発生伝説の相撲神社がある。
天皇家の系譜において、初代神武天皇と10代崇神天皇は同一人物であるとし、2代綏靖天皇から9代開化天皇までを伝説上の天皇とすれば(欠史8代)、垂仁天皇と景行天皇は2代、3代となりこの地は大和王権の黎明期に宮跡があったことになる。
纏向遺跡群
JR巻向駅のあたりはまさに纏向遺跡群の中心地である。
纏向遺跡は三輪山西側に広がる3~4世紀の大規模集落遺跡である。この地域は、箸墓古墳を代表として数多くの古墳が集中して築かれ、農機具がほとんど出土せず、土木工事用の工具の出土が多いことから、一般的な集落と異なる、日本最古の都市ではないかと考えられてきた。
平成23年、3世紀前半の巨大建物が建っていた中枢域が発見され、邪馬台国の女王卑弥呼の宮殿跡ではないかといわれている。
国道169号とJR桜井線が交差しているところを陸橋で越えると箸墓がある。
箸墓古墳
箸墓は、前方後円墳の初期の古墳で、全長280m、後円部径160m、前方部径140mもある。箸墓を造り上げたことがヤマト王権の成立と重ねられるとする考古学者は少なくない。
記紀によると第10代崇神天皇の大叔母である倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の墓と伝えられている。また、邪馬台国の女王卑弥呼の墓との伝承もある。
箸墓は、「昼は人が作り夜は神が作り、手越しで大坂山(二上山)から土を運んで築いた」とも記されている。
箸墓の後円部に沿って箸中の集落に入っていく。巻向川を渡ると旧芝村である。巻向川のほとりに自然石を積み上げたような珍しい常夜灯が立っている(写真116)
三輪山の西麓で、巻向川と初瀬川に囲まれた地域は、古来聖なる地とされてきた。今まさにその地に足を踏み入れたことになる。しかしながら、街道筋は普通の街中の道である。
しばらく行くと大神神社の車道の参道にでる。右手に大きな鳥居がはある。これは昭和天皇の在位60年を記念して建てられたもので、高さは33mもある。この参道を突っ切り三輪の街中へと入っていく。突き当たりの三叉路を左へ曲がれば、街道に面して大神神社の一の鳥居が立っている(写真117)。昔の参道はここからの道で、途中先ほどの車道の参道と合流して拝殿へと続いている。
大和神社、穴師坐兵主神社、大神神社といずれも一の鳥居が伊勢本街道筋に面して立っていることになる。
大神神社と大物主命
大神神社は大和国一宮で、日本最古の神社といわれている。ご神体は三輪山で、本殿はなく拝殿から三輪山を拝むようになっている。自然崇拝の原型を留め、日本最古といわれる所以である。そして、大神神社の主祭神が大物主命である。『日本書紀』には、大物主命に関する説話が二つ、三つ載せられている。
歴史作家の中には、大物主命とは饒速日命(にぎはやひのみこと)であるとする説をとる方が多いようである。饒速日命とは天磐船(あまのいわぶね)に乗って、河内国に降臨し、後に大和盆地の東南部にヤマト王権を樹立した神である。河内国交野市の磐船神社にあるご神体の巨岩がその天磐船であるとする伝承がある。
神武天皇が日向から大和を目指して来たときに、持参してきた神宝により神武天皇が天津神の子であるとわかったので、饒速日命は皇女伊須気余理比売とめあわせ、王権の統治権を神武天皇に譲り渡したのである。ここに、神武天皇を初代天皇とする朝廷が誕生した。
神武天皇は日向から奉祭してきた天照大神を皇祖神として祀り、同時に正妃の父である饒速日命を女系の皇祖神として、饒速日命の子の宇摩志摩冶命(うましまじのみこと)に祀らせたのである。宇摩志摩冶命は物部氏の祖である。
日本国創立の重要な役割を果たした饒速日命の話は、日本書紀では義兄を殺し神武天皇に降ったと記されている。これは日本書紀編纂時の実力者である藤原氏が、物部氏蘇我氏の下風に立つことを潔しとしなかったからで、饒速日命を陥れるためのものである。しかし、藤原氏の祖と比べても、格の違いはいかんともしがたいのである。
一の鳥居を通って大神神社を参拝した旅人は、金屋へ抜ける近道を利用して初瀬街道に出ることができる。しかし、街道歩きを目的とする我々は、大神神社参拝を失礼して三輪の街中を進むこととする。三輪は宿場町の雰囲気はないが、大店のある商都といった感じである。そうめんを商う商家、白玉屋栄寿の菓子店、今西酒造の酒店など風格のある店が街道に面して建っている(写真118)
途中の辻に三輪の道標がある。  高さ1.4m
  (西面) 元治元星甲子春建之 世話人(略)            元治元年=1864年
  (北面) 左 はせ いせ たふのミ年 よしの大ミ祢山上     たふのミ年=多武峰
  (東面) 右なら 京 ミち
三輪の街中を抜け南へ道をとれば、初瀬川に架かる出口橋に達する。橋の手前に、高さ3.5mもある大きな太神宮常夜灯が立っている。天保13年の銘がある。
初瀬街道は、出口橋まで行かずに一つ手前の辻を左へとり東進する。JRの踏切を越え、天理教教会の前の分岐で細い方の道を直進して金屋へと入っていく。初瀬街道はすぐ先の四つ辻を直も東進するが、寄り道をして四つ辻を北へ行けば、神社の境内に「崇神天皇磯城(しき)瑞籬(みずがきの)宮跡」と刻まれた石碑が立っている。
金屋の街並みは三輪のような商家はないが、落ち着いた雰囲気である。中ほどに大神神社への近道という道標もある。
街道から少し北へ紛れ込んだところに海拓榴市(つばいち)観音堂がある。高さ70cmほどの十一面観音の石仏が2体祀られている。
この辺りは古代から栄えた交易市の跡で、大陸の使節も大和川の舟運を利用してこの地まで遡った。市では歌垣を通し愛の交換が行われたところである。
金屋を通り抜けると、金屋手前で別れた県道に再び突き当たる。街道は左へ曲がるが、そこに道標がある。
金屋東の道標
  (北面) 左 はせ いせ 道
  (東面) 右 三わ なら 道
  (南面) 施主
  (西面) 天保十二年閏正月吉日                  天保12年=1841年
その道標の横の細い道をまっすぐ進めば初瀬川に出くわす。古代から物資を舟でここまで運んだ交易の要衝の地であった。初瀬川の河川敷は小公園になっていて、「佛教傳来之地」と彫った御影石の記念碑や飾り馬の彫像がある。
金屋東の道標の道を東へ、椿の名所・椿山の麓を進み国道165号を越えると慈恩寺追分である。
慈恩寺追分
ここは高田・橿原・桜井を通り抜けた横大路と初瀬街道が合流する追分である。丸屋、角屋、小間物屋、柳屋、魚屋、そば屋、まつ屋、のこぎり屋などの旅籠が建ち並んでいて、かなり栄えていたようである。
慈恩寺の道標
ここに仏像を浮き彫りにした立派な道標があったが、ここから北へ300mほどの距離にある玉列(たまつら)神社隣の阿弥陀堂に持って行かれてしまった。
  (右側) 右 はつせ 左 なら
  (正面) 右 おか よしの 道 和州高家村
       西国三拾三所供養碑
       左 はせ いせ 道 同行十二人
       みぎ なら 左 かうや 道
  (裏面) 寛政七卯四月日                     寛政7年=1795年
慈恩寺から東へ脇本、黒崎と大字が続く。慈恩寺と脇本の境に太神宮常夜灯が道の両側に立っている。しかし、道幅が広くて離れていること、高さが2mと小さなことで、ともすれば見過ごされそうである。
黒崎には女夫(めおと)饅頭という名物があった。『西国名所図会』に「黒崎は街道にて名物の饅頭を売家多し。此里の名物とて饅頭を二ツあはせこれを女夫まんじゅとて商う家多し。黒崎といへども白き肌と肌、合わせて味(うま)い女夫饅頭」と記されている。
黒崎を出てしばらく国道を歩き、次に左斜めの細い道に入る。出雲の集落に入ると十二柱神社が鎮座している。
十二柱神社
神様は一柱、二柱と数える。十二柱神社は名前の通り12体の神様をお祀りしている。
特筆すべきは、狛犬の台座を4体の力士が持ち上げている、ユーモアあふれる姿である。
(現地説明版)
十二柱神社は「出雲ムラ」の村社。大昔は、神殿がなく、「ダンノダイラ(三輪山の東方1700mの峰の上にあった古代の出雲集落地)の磐座を拝んだ。明治の初めごろまで、年に一度、全村民がダンノダイラへ登って、出雲の先祖を祀り偲んだ。一日中、相撲をして遊んだり、食べたりした(出雲村伝説)。
また、この出雲では伊勢参りの土産として素朴な出雲人形が作られていたが、今も作られているかどうかは不明である。
初瀬へと進むと長谷寺参道入り口の両側に、高さ4mもある大きな石灯籠が立っている。ここから1.5kmほどの参道が長谷寺まで続く。
写真115 長岳寺五智堂
写真116 巻向川の常夜灯
写真117 大神神社一の鳥居
写真118 三輪の商家
この項終わり。
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