関西の歴史街道
伊勢本街道その1

街道の概要

行程記
区間
距離(約)
ウォーキング適格度
第5回 
初瀬~榛原高井 
10km 
3点(5点満点) 
第6回 
榛原高井~山粕 
14km 
5点 
isehonkaidomap.pdf へのリンク

行程記 第5回 初瀬~榛原高井  距離 約10km

前回に続き長谷寺参道を歩く。初瀬は観音信仰の中心となった長谷寺の門前町として形成され、伊勢参りの流行とも相まって一層の発展をし、いまもなおその面影をとどめている。
門前町の東寄りに右折する道がある。ここは初瀬から伊勢方面に通ずる分岐点であることから伊勢辻(写真121)と呼ばれている。
伊勢辻の道標 2m余の立派な道標
  (西面) 右いせみち
  (北面) 伊勢辻 石工 与助
  (東面) 左 いせミち
  (南面) 左 くわん音
       右 なら 大坂道
伊勢へはこの伊勢辻を曲り、初瀬川を渡り、左の坂を登っていく。この坂を「下化粧坂(けはいざか)」という。
  初瀬の舞台から けはい坂見れば お伊勢参りのすげ笠が
と東宇陀地方のうすひき歌に唄われたように、この坂をあえぎあえぎ上り下りする旅人を長谷寺の舞台から望見することができたとある。今は木立に隠れ見ることはできない。
下化粧坂を登り小さな裏山を越せば与喜浦の庚申辻に着く。庚申塚と石仏群が集められ祀られているのでこのような名前がついている。
上記の下化粧坂の道は長谷寺を参詣しない場合である。長谷寺を参拝すのであれば伊勢辻を直進する。参拝後は與喜天満宮の前を通り抜け、上化粧坂を登り裏山を越せば、与喜浦の庚申辻で下化粧坂と合流する。上化粧坂からは長谷寺の全貌を見ることができる。
庚申辻から街道は与喜浦集落の中を下りながら東に進む。やがて国道165号に合流する。ここから榛原の西峠までは国道歩きとなるが、途中3ケ所ほど旧道が残っていて、それらはいずれも旧街道らしい道である。
国道から分かれた2つ目の旧道に吉隠(よなばり)の道標がある。
吉隠の道標  高さ75cm  大峰山供養碑と道標を兼ねたもの
  右 いせ道
  文化四丁卯年八月 日                    文化4年=1807年
西峠交差点の斜め左の細い道が街道ですぐに西峠に着く。西峠はかつての磯城郡と宇陀郡の境である。街道の左手高台に西峠会所がある。
西峠区 木造薬師如来坐像  (現地説明版)
この地は古くから天ノ森と呼ばれ、文安6年(1449)まで「墨坂神社」が鎮座していたところであります。
旧伊勢街道沿いの西峠会所(阿弥陀堂)には、薬師如来坐像、阿弥陀如来立像、阿弥陀如来坐像などが大切に伝えられています。また、永仁2年(1294)銘の石仏の断片(ムラサキ地蔵)も残されています。このほか、会所の周囲には、中世の五輪塔なども認められます。 榛原町教育委員会
西峠会所からの下り道に道標がある。享保6年に立てられたもので、西国三十三ケ所供養碑と道標を兼ねている。
  (南面) 右 いせ道
       左 かいばやくし
かいばやくしとは、戒場にある戒長寺の本尊薬師如来坐像のことである。
国道を斜めに横切って一本南の道を東へ進むと、「墨坂伝承地」の石碑が立っている。そこから一本東の道へ移るために、榛原プリンスハイツの裏のあぜ道を下る。突き当たりを右に回り南下する。周囲ののどかな道(写真122)をなおも進むと風情のある大和棟の家がある。元庄屋前川家の屋敷で、玄関前の橋は屋形橋となっている。
この辺りから伊勢街道の中でも大きな宿場であった萩原に入っていく。
萩原の辻(札の辻)
伊勢本街道の道中に、かつて、幾つか点在した宿場の中で、ひときわ重要な位置を占めたのが「萩原の宿」であった。
初瀬から西峠を越えてきた街道は、ここで伊勢本街道とあお越え伊勢街道(北街道または表街道)に分岐する。萩原の辻はこのように交通の要衝であった。また、近世の高札場でもあった。この辺りには、現在も昔の姿を留めている旅籠「あぶらや」のほかに、5,6軒の旅籠が集中していた。この三叉路には立派な道標が、少し南へ下がったところには大きな常夜灯が立っている。しかし、以前は常夜灯の前もその南も古い民家が建っていて、いかにも萩原の辻という名にふさわしい風情が漂っていたが、今は新しい民家ができたり、近鉄線の北側に広い道路ができたりして様相が一変してきた。この景観の損失は大きい。
旧旅籠あぶらや(写真123)
明治時代の中ごろまで営業していたという。主屋は木造2階建て庇付きの切妻造りで、正面と袖壁うだつには、屋号の「あぶらや(阿婦らや)」という文字が漆喰で表されている。建物の一部に改修の痕跡が認められるが、江戸時代後期~末期の建築と考えられる。伊勢参詣が隆盛を極めたころの面影を今に伝えている。平成21年に宇陀市指定文化財となった。
現在、内部が公開されている。2階の座敷には配膳台がずらりと並べられ、まるで江戸時代の旅籠に紛れ込んだようである。街道に面した窓際に座ると、表の通りのざわめきが聞こえてくるようである。
萩原の道標(写真124)  高さ1.7m
  (西面) 右 いせ本かい道
  (北面) 左 あをこえみち
  (東面) 文政十一戌子年三月吉日              文政11年=1828年
  (南面) 御室御所御寄付灯籠幷道教守護人初生寺
太神宮常夜灯は、道標と同じく文政11年に建造されたものである。
萩原の宿を抜け、近鉄ガード下を通り越すと宇陀川に突き当たる。対岸に墨坂神社が鎮座している。
墨坂神社
西峠の項で書いているように、当神社は西峠から当地に移ってきた。
広々とした境内で、背後はうっそうとした森に囲まれている。
正面は朱塗りの鮮やかな中門および回廊を配し、その内に拝殿、幣殿、本殿がある。本殿は一間社春日造り檜皮葺の建物で、朱塗りと金箔押の装身具が森の緑に映えている。
ここから高井までは国道369号を歩くことになる。檜牧船尾には弘法岩清水があり、次の集落に奈良県最古の道標がある。
檜牧の道標
  右 いせみち 寛文四年                     寛文4年=1664年
  梵字(阿弥陀三尊) 奉供養巡礼同行十二人
  左 やまみち 十月十五日
この道標は、昭和53年に宇陀郡の道標を訪ね歩いていた榛原の歴史愛好家が偶然にも発見したものである。文字が浅くて年号を見ることができなかったが、拓本の結果、寛文4年とわかったという。
自明(じみょう)には、爪書き不動尊と茶所がある。
弘法大師爪書き不動尊 (現地説明版)
右の岸壁には、「弘法大師爪書きの不動尊」と伝えられる磨崖仏が描かれている。伊勢本街道のことでもあり、昔日は往来の旅人や近在の人々の信仰を集め、霊験あらたかであったと言い伝えられている。伝説の通り弘法大師の真跡だとすれば、すでに1200年の歳月が流れたことになる。たしかに古いもので、鎌倉時代以前のものと推定されている。現実に風化が激しく、その線画は判然としない。
茶所  (現地説明版)
左のお堂は、往時の参詣人やお伊勢参り、山上(大峰山)参りの旅人へのお茶接待所である。建替え等により今ではその名残さえないが、地元では現在も「茶所」と呼んでいる。
国道をなおも進み、高井の集落に到着した先に旧の国道が左へと分岐しているのでそこを進む。高井のバス停があり、近鉄榛原駅行のバスがある。
写真121 伊勢辻
写真122 街道 萩原
写真123 旧旅籠あぶらや
写真124 萩原の道標

行程記 第6回 榛原高井~山粕(やまかす)  距離 約14km

近鉄榛原駅から曽爾村役場行のバスに乗り高井で下車する。ここは、宇陀市榛原高井で、宿場町の面影がかすかに残っている(写真125)。高井は旧内牧村の役場があったところで、このあたりの中心地であった。
バス停付近の四つ角に3基の道標が立っている。うち1基は伊勢を示している。
高井の道標
  (正面) 右 いせみち
       左 室生山女人高野是ヨリ□□
       寛政十二庚申歳閏四月吉辰            寛政12年=1800年
室生山女人高野とは室生寺のことで、高野山が女人禁制の時代にもここは女人の参詣が許されていたのでこの名がある。ここから室生寺へは、途中仏隆寺を経て室生村にいたる7kmほどのハイキング道がある。上記3基の道標の中に「室生山道」と記されているのがこれである。
仏隆寺は「室生寺の南門」といわれる古刹であるが、門前のモチヅキザクラ(県天然記念物)の方が有名である。
道標の前の道を左に進み頭矢橋を渡る。橋のたもとに小さな常夜灯がある。「五穀成就/大神宮/御代官武運長久/慶応二年寅十月吉日」と彫ってある。御代官武運長久という語彙が彫られているのは珍しい。代官といえば時代劇や浪花節では悪代官と決まっているが、実際は旗本の中からできるだけ高潔な人物が選ばれたようである。
頭矢橋の先で街道は室生山道と別れ右の坂道へと入っていく。いよいよここから伊勢本街道は山道に入っていくことになる。山道といっても本格的な山道ではなく、山裾の平野部を縫うように進み、所々に小さな峠が現れるという感じである。
室生山道との分岐個所に宮田家がある。
宮田家
建てられた年代ははっきりしないようであるが、住居の構造、建築の手法から幕末の頃だとみられている。江戸時代は旅籠を営み、明治の初めに廃業したようである。
宮田家は、玄関の軒先に掲げられている大きな絵馬(絵馬額)で有名である。長い間、風雨にさらされていたため、彩色などの剥落が相当に進んでいる。絵馬は「女人高野・室生山之図」とあり、室生寺の案内になっている。いつごろのものか、年代を示すものがなく、正確なことはわからないが、江戸時代に描かれたものだと同家では言っているそうである(『伊勢本街道』上巻向陽書房)。
街道の急坂を上りつめたところに高い石垣を築いた松本家がある。
松本家
かつては大和屋と呼ぶ旅籠屋であった。建物は18世紀後半頃と思われる。本街道に面して前庭を広く取り、主家は2階建て、切妻造り、庇付き桟瓦葺の建物である。玄関は障子の大戸口、庇を支える重厚な梁が軒下に長く渡り、風格のある民家である。幕末頃には旅籠は廃業していたらしい。
杉木立の中を進む。右の崖下にある千本杉を見ながら進むと赤埴(あかばね)に入る。
赤埴は高井の次の集落で、かつてはお伊勢参りの往還の旅人たちで賑わった宿場であった。鉄道開通後は、街道筋の活気は沈下、国道のバス道からも外れ、今日ではすっかり山村の集落に変わってしまっている。
伊勢本街道は赤埴の南部を通り、中垣内・下志明(げしも)・大久保の集落が順次現れる。
赤埴に入ったところに津越家がある。
津越家
津越家は大和地方の代表的な民家建築である大和棟である。主家の中央は切妻造り庇付き草葺きとし、両端に落棟を配している。津越家はその昔、 大津屋という旅籠屋であったが、その事情については同家でもわからないといっているようである。
千本杉は津越家所有の土地にあり、白瀧明神を祀って同家の守り神として信仰されてきている。さらに同家のみに限らず地の人、近在の人、さらに遠くからの人たちからも崇敬されている。
津越家からの街道が突き当たる三叉路に自然石の道標がある。東に田んぼが広がり、その向こうに大平山が悠然と聳えている。
赤埴の道標  高さ1.2m
  (正面) 壬 享保七年                   享保7年=1722年
       右 いせみち
       寅 二月□一日
道標を右へ曲がり坂道を上っていくと、大久保垣内である。いかにも農村といった風景が広がるが、昔は旅籠もあり、特に諸木野との分岐点付近に大きな旅籠があったそうである。その分岐を左の細い道に入り山道へと進んでいく。
行悦の道標(赤埴)
分岐からしばらくのところに行悦の道標があり、花が活けられている。
  (正面) はせより是へ三里
       廻国供養 菅野村 行悦
       是より宮川へ十八里
行悦の道標とは、菅野村(現御杖村)の行脚僧行悦が、旅人の安全や地元の人々の往生を願って立てた廻国供養碑である。そこには初瀬からの距離と伊勢宮川までの距離が書きこまれ、旅人は非常に重宝したと思われる。現在、長谷と宮川の間の伊勢本街道沿いに10基ほど存在する。
  1. 長谷寺宗宝蔵前  初瀬こえ36丁とあることから、元は榛原西峠にあったと推測される。
  2. 宇陀市榛原赤埴 大久保垣内(ここ)
  3. 宇陀市室生田口元上田口
  4. 宇陀市室生黒岩
  5. 曽爾村山粕  現在行方不明
  6. 御杖村菅野庄谷(行悦の出身地)
  7. 御杖村神末敷津
  8. 松阪市飯南町下仁柿
  9. 松坂市大石町上出
 10.  多気町上牧
行悦の道標の前を通り山道を越えていくと諸木野集落に着く。
途中、諸木野関所跡があるが、この関所は興福寺大乗院によって設けられたもので、室町時代後半には廃止されたようである。
諸木野(写真126)
江戸時代、諸木野にはお伊勢参りの人々のための旅籠が9軒もあった。それらの家は今でもそのまま残っているが、旅籠は明治初期以前にすべて廃業している。地元の人たちはこれらの家々を昔のままの屋号で呼びあっている。
「大屋」の森田家の少し下の道沿いに、石垣で囲まれ屋根で覆われた四角い井戸があり、清水が湧いている。今は切られてなくなっているが、周囲に十数本の杉の木があったことから杉井戸と呼ばれ、村の共同の水汲み場であった。
諸木野の桜(写真127)
桜の満開の時期に諸木野の街道筋を歩けば、田んぼの水面に映ったエドヒガンの幻想的な光景に出くわすことができる。この時期はまだ田んぼに水を張る時期ではないが、田んぼの持ち主の好意で水が張られているそうである。辺りは素人カメラマンで溢れている。ちなみに、諸木野あたりの満開時期は、奈良盆地のソメイヨシノの満開から遅れること7~10日である。
諸木野集落を離れて石割峠へ向かう。途中振り返ってみると諸木野が一望できる。まるで隠れ里である。
山道に入ってしばらく行くと、右手に南無阿弥陀仏と刻まれた道標がある。
南無阿弥陀仏碑
  (正面) 右 はせみち
       南無阿弥陀仏
       左 うたみち
       貞享三丙寅八月日□□              貞享3年=1686年
「うた」とは宇陀のことで、この辻は「宇陀の辻」と呼ばれている。
昔の旅は苦難を伴い、不慮の事故や病気で亡くなる人も多かった。地域の人々がそのような人の成仏を願い、立てたのが南無阿弥陀仏と刻まれた六字名号碑である。中には捨て手形を持って旅する人もいた。
捨て手形
木札の鑑札で、道中何かあったときの覚悟を認めたものである。裏には、
「万一、いづ方にても病死等仕り候とも、その節、国もとへ御通達に及ばず、その御所(おんところ)の御作法、御慈悲をもって、御葬ひ下さるべく候」
などと書いてある。
石割峠
六字名号碑の前を通った旅人は、いよいよ伊勢本街道の最初の難所である峠越えに入る。街道に沿った諸木野川が細くなっていくにしたがい、坂がきつくなる。あえぎあえぎ山道を登っていくとようやく石割峠に着く。
標高695mの石割峠は杉林にかこまれ、見通しは全くきかない。高井の標高は約350mであるから標高差は約350mである。
定宿帖などによると、休憩所として清水市蔵の名があり、おそらく峠の途中に石垣を築いて小屋掛けの営業をしていたと思われると現地説明板に書いてある。
石割峠を下ると田口宿である。近世、田口村は上田口と下田口に分割された。
上田口は伊勢本街道に面し、室生寺への分岐点であったことから繁栄していた。玉屋・亀屋・筒屋などの旅籠が建ち並んでいた。今ではさびしい山村となっているが、大和棟の民家がかなり残っている(写真128)。里謡に、「鶴ヶ平から亀屋を見れば、四方白壁八ツ棟つくり 中は黄金の五畳敷」とうたわれ、その繁栄ぶりが窺われる。
集落の中ほどに行悦の道標がある。
行悦の道標(元上田口)(写真129)
  (正面) はせより是へ四り
       廻国供養
       是より宮川へ十七里と半 行悦
現地説明板によれば、この道標は、平成22年に、地元有志により、民家の石垣に組み込まれていたものを取り出してきたものであると書かれている。
行悦の道標から少し先に行けば、浄土真宗の専明寺(せんみょうじ)があり、この境内を伊勢本街道が通っている。
専明寺の境内から真っすぐ東へ山裾の道を進むと県道に合流する。県道を南下し、次の斜め左の上り車道を行くと黒岩に着く。しかし、県道から黒岩までは、標高差90mほどの上り坂がだらだらと続いている。疲れた体にジャブのように効いてくる。
近世から旅籠も商家もなかった黒岩の集落は、明円寺を中心に黒岩川の右岸の南面する斜面に張り付くように点在している。街道は集落の下の方を通っているので、知らないうちに集落を通り抜けたという感じである。
黒岩を抜けると街道はほぼ水平となり、1kmほど水田が開け、黒岩の枝村である宮城への分岐点に着く。そこに行悦の道標がある。
行悦の道標(黒岩)
  (正面) はせより是迄五り
       廻国供養 菅野 行悦
       是与(これより)宮川へ十六里
行悦の道標を斜め右の山道に入っていく。緩やかな上りが続き山粕峠(640m)に着く。この日最後の踏ん張りどころである。山道を下りきって国道の手前まで来ると、佐田の宮跡という遺跡がある。
佐田の宮跡
大己貴命(おおなむちのみこと)を祭祀していた。平維盛が一時隠れ潜んだ伝承地で、空海が修行中に岩窟に刻んだという梵字の岩屋がある。
国道を東へ行けばすぐに山粕集落の入口である(写真130)。黒岩から細い山道を越えてきたのでホッとするところである。
山粕  (現地説明版)
山粕は初瀬から6里の距離となり、宿泊客が多く、旅籠をはじめ各種の店屋があり大変賑わったようである。奥宇陀では一番栄え、「奥宇陀の大阪や」とさえいわれた。人形浄瑠璃が行われ、三味線の音が聞こえたのは、奥宇陀でも山粕だけであったといわれている。
山粕を通り抜け、国道に出てなおも東へ行くと山粕東のバス停がある。
写真125 街道 高井
写真126 諸木野集落
写真127 諸木野の桜
写真128 街道 上田口
写真129 行悦の道標 上田口
写真130 山粕村風景
この項終わり。
TOPへ 次へ