関西の歴史街道
街道の概要
行程記
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区間 |
距離(約)
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ウォーキング適格度
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第7回
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山粕~御杖村神末敷津
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12km
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4点(5点満点)
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第8回
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神末敷津~伊勢奥津
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8km
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4点 |
地図は伊勢本街道その1に含む
行程記 第7回 山粕~神末敷津 距離 約12km
前回と同じく近鉄榛原駅から曽爾村役場行のバスに乗り、今回は山粕東口で下車する。ここは奈良県宇陀郡曽爾村山粕である。
バス停から東へ歩くとベンチ、トイレを備えた休憩所がある。ここには往時の山粕村のことがいろいろ書いてある。鞍取峠(くらとりとうげ)へはこの休憩所の横をすり抜けて登って行くことになる。
鞍取峠(写真141)
里謡に、「お伊勢参りして こわいとこどこか かい坂(飼坂) ひつ坂(櫃坂) くらとり峠(鞍取峠) つるの渡しか宮川か」とうたわれ、ここが最初に出てくる鞍取峠である。
鞍取峠は伊勢本街道の難所で勾配がきつく、伊勢に向かった倭姫命(やまとひめのみこと)はご神体(天照大神)を載せた馬の鞍をはずされたという峠である。伊勢本街道の道中では、倭姫命の伝説がよく出てくるが、ここで初めて出てきたことになる。倭姫命
第11代垂仁天皇の皇女で、第10代崇神天皇の孫にあたる。
神武天皇以来、天照大神と饒速日命(にぎはやひのみこと)(日本書紀では倭大国魂神)の二神は並べて皇居内にお祀りされていたが、崇神天皇は勢いの強いこの二神を同じ屋根の下でお祀りするのは畏れ多いと思い、饒速日命は三輪山へ帰って頂き、天照大神は笠縫村にお祀りした。景行天皇のとき、倭姫命は天照大神の御杖代となり、大和の宇陀、近江、美濃から伊勢の地へと巡行し、五十鈴川のほとりに住まうことになったのである。
また、倭姫命は天照大神の託宣に従って、大和の磯城(しき)から伊勢の渡会宮へ遷し祀ったという説もある。
このように、伊勢本街道は天照大神のお通りになった道ということで、「神の御心にかなう道」といわれている。鞍取峠の登り口の標高は480mで、頂上が590mだから標高差は110mである。峠の登り口に、南無阿弥陀仏と刻んだ六字名号兼道標がある。
(正面) 南無阿弥陀仏
(左面) いせみち みぎゑ
鞍取峠を下りると、御杖村桃俣(もものまた)である。桃俣は芳野(ほうの)橋から隠地(おんち)橋にいたる桃俣川左岸にできた間の宿で、町屋上(まちやかみ)・下に分かれた村に辻や・伊勢屋・まつ屋の旅籠と大和屋・出雲屋などの商家があったが、昭和初期の大火で町屋下は焼失してしまった。
町屋上の坂本家の前が吉野道を分岐する芳野辻で、鞍取峠への登り口に、「右はせ 左よしの」と深く刻んだ自然石の道標があったが、伊勢湾台風で流出してしまった。
国道369号を東に進み、次の辻を左へ入っていく。ここからは御杖村土屋原(大字)で、街道は土屋原川の北岸を東南に進み、西から畑井・水口・中村・堂前・ 笹及(ささぎ)などの小字集落が断欠的に続いている。道路の道幅は広いが、車の通行量は少ない。いかにも田舎道といった感じで、のんびりした気持ちで歩くことができる。
中心は中村垣内である。堂前垣内の三叉路に道標がある。
堂前の道標
(北面) 右 はせ
(西面) 左 いせ
(裏面) 南かばた 世話人藤助
笹及の集落を抜けると国道に合流する。500mほどで左の小道に入り桜峠を目指す。かつて峠には大きな桜の木があったのでこの名がついている。
峠からしばらく行くと、木立の間に巨大な円形の建物が見えてくる。宇宙船か宇宙基地かと見まがうが、御杖小学校の校舎である。街道は小学校を巻くようにして進み、国道に合流する。
この辺りは御杖村菅野(大字)である。伊勢街道沿いに、前谷・西川・庄谷・中村・東郷・際土良(きわどら)の集落が沿道集落を形成しながら間欠的に続いている。菅野は初瀬から8里と1日の行程で、奥宇陀ではまとまった宿場であった。本街道は桜峠から蛇行しながら前谷の稲荷社前を通り、倭姫命が西川の岸の神代杉に馬をつないだという駒繋(こまつなぎ)橋にでる。
駒繋橋詰に天保3年(1832)銘の太神宮常夜灯と道標がある。
駒繋橋の道標(写真142) 高さ 72cm
左 いせみち
右 はせみち
駒繋橋から300mほどのところにも道標がある。
行悦の道標(菅野庄谷)
宮川へ十五里
右 いせ
左 はせ
この道標には銘はないが、書体から見て行悦の道標であると推測されている。
中村の東端に菅野の氏神である四社神社がある。境内に手洗い井戸と称するものがあり、倭姫命がこの井戸で手を洗い、すがすがしい気分になられたという伝説がある。菅野村の名前はここら来ているといわれている。
街道は東郷と際土良のほぼ中間から東にたどり、牛峠を経て神末(こうずえ)村にたどり着く。牛峠は別名神末峠ともいった。牛峠で国道を横切り、南側の道を下っていくと御杖村神末である。
神末宿は神末川を挟んで西町と東町に分かれ、新坊や・あずまや・いまでやなどの旅籠があった。西町辻に、「右 いせみち」と刻まれた道標と文政9年(1826)建立の太神宮常夜灯がある。
この道標のある道を南へ行くと神末の氏神である御杖神社がある。この社名が御杖村という村名になっている。この社名は、倭姫命が天照大神の御杖として当地を通過されたことにちなむという。
街道は神末大橋を東町(写真143)へと渡り、鳥居元橋から右折して佐田峠へ向かう。神末大橋突き当たりの今西医院は近世の代表的な旅籠屋「いまにし」の建物で、上方の参宮講や近世の旅籠資料を多く保存している。
東町から緩い坂道を上ると、敷津入口の佐田峠(標高約500m)(写真144)に達する。この先は神末の広い小字(こあざ)である敷津であり、御杖村第一の水田地帯を持っている。
佐田峠には首無地蔵と行悦の道標がある。
首無地蔵 (現地説明版)
明治維新の廃仏毀釈で棄てられて破損し、3つに折れたという。首から上部の病気に霊験ありと称え、全快すると赤地のよだれ掛けを奉納する。
行悦の道標(神末敷津) 自然石 高さ 80cm
(正面) はせ与(より)是迄九里
是与宮川迄十二里廿一丁
為六十六部供養 願主 行悦
行悦の道標としては大和国最後の道標である。
佐田峠から少し下ると、追分といわれた太郎生への分岐点に、「伊勢本街道 右 旧ちか道 左 新道」の県道改修時に立てた道標がある。道標に従い右の道を進むと、300mほどで敷津の中心に着く。帰りは追分から北へ国道を1kmほど歩かなければならない。みつえ温泉姫石の湯付近に三重交通バスの敷津バス停があるので、ここから近鉄名張駅までのバスが出ている。
写真141 鞍取峠 写真142 駒繋橋の道標と常夜灯□ 写真143 街道 神末東町 写真144 佐田峠
行程記 第8回 神末敷津~伊勢奥津 距離 約8km
前回の追分から出発する。敷津バス停までは前回の通りである。
もう一つの方法として、近鉄榛原駅から奈良交通バスで掛西口へ、そこで御杖ふれあいバスに乗り換え、神末佐田峠で下車も可能である。この追分付近の住所は、奈良県宇陀郡御杖村神末敷津である。
追分から敷津の集落にかけて、敷津の七不思議という伝説に基づくものがある。ただし七番目の姫石は集落を外れた岩坂にある。いすれもそれほど大層なものではないが列記しておく。
敷津の七不思議
その1 子もうけ石 石をなでると子供が宿る。現在見えているのは洪水で埋まった上の部分だけである。
その2 月見石 道中の倭姫命がこの岩の上から仲秋の名月を鑑賞された。
その3 手洗い井戸 倭姫命が手洗いされた遺跡。
その4 夫婦岩 大小2個の石で、どちらかを他に移すといつの間にか元に戻ってしまう。
その5 弘法井戸 泥水をさらして飲み水にしている農民を気の毒に思った旅の弘法大師が錫杖で彫ると良水が湧いた。
その6 金壺石 この石の上で毎年、正月元日の朝に金の鶏が鳴く。
その7 姫石明神 倭姫命が婦人病を祈られたことから姫石といわれる。
街道は敷津の集落を抜け、円山公園の中を通り岩坂に入っていく。岩坂は初瀬から伊勢へ向かう場合は下り一方なので苦にならないが、反対の場合はかなり登りがいのある坂である。
姫石明神(写真145)
円山公園から岩坂道を東へ真っすぐに杉山を下ると、奇妙な陰陽石を祭祀する姫石明神の前にでる。敷津の七不思議伝説の7番目に位置するが、他の6つの伝説に較べ別格のいわれがある。
倭姫命の病気を全快させたと伝承される霊験あらたかな神様で、縁談・子宝など男女の想いごとや婦人病の願い事がかなうといわれている。祈願がかなうと小鳥居を奉納するか紅白の布を鳥居に結ぶという風習がある。
さらに山道を下っていくと道の右側に鎌倉期のものと思われる大日如来供養碑がある。大きな笠石に屋根を付けた4本の石柱で囲んである。伊勢に多い中世の卒塔婆のようで、石柱正面の月輪内に大日如来の種子を薬研彫(やけんぼり)にしてある。地元ではこれを大日さんといい、牛の飼育が盛んであったころは、その守護神として村民に信仰され、牛のわらじを供えたという。
少し下ると、地元で六部経塚と称するものがある。「万人講衆二世安楽」「三界万霊有無縁」などと刻まれた屋根江付きの石柱と、その周囲に玉垣をめぐらしている。
岩坂道を下ると、街道は新国道の脇道となり、伊勢国に入っていく。
新国道の北200mのところを旧国道が走っているが、その境界の東側に国境碑が立っている。その文面は、「東距三重県庁拾弐里拾九町(約50km) 井ノ尻谷中央以東三重県伊勢国一志郡伊勢地村 大正五年五月」となっている。
伊勢国に入ったところは旧美杉村、現在は津市である。街道に沿った津市の集落は、美杉町杉平・石名原・奥津(おきつ)・上多気(かみたげ)と続く。
岩坂道を下ってきた街道は、国道の脇道を東に進み、県境で右の地道に入っていく。しばらく行くと、杉平の西端にでる。杉平集落の奥の方からこそこそと入っていくような感じである。
伊勢国でよくいわれることは、妻入りの家が多いことと年中しめ縄を飾っているということである。
伊勢神宮の正殿が平入りであることから、平入りは恐れ多いとして妻入りになったということである。杉平はどうかと興味があったので探してみたが1軒しか見当たらなかった。しめ縄も4月ごろ来たので見あたらなかった。しめ縄は神宮に近くなるほど年中飾る家が多いように思われる。
杉平の集落を抜けた下り坂の左上に「太一(たいち)」と刻まれた灯篭(太神宮常夜灯)(写真146)が立っている。「たいいち」とも「たいいつ」とも読めるらしい。
太一とは
伊勢神宮御用の印で、太一とは中国では天を主宰する神の名、または天神の常居されている星をいう。これを大神宮の印としたのは、天照大神は天神地祇の元首、唯一絶対無比の御存在であられるからである。太一の文字が使用されたのは平安時代末期か鎌倉以降で、はじめ、御用材に施された印であったが、後には神宮供御を運ぶ船の幕や幟などにも用いられた。明治5年神号の太字が大字に改められた(『神道事典』から)。
この太一灯篭は、全部で47基あり、この街道筋には11基あると報告されている。
杉平の下り道はやがて国道に合流する。そこに「左 いせみち」と自然石に刻まれた道標がある。
街道はしばらく国道歩きとなるが、車の通行量は少なく、そう歩きにくい道ではない。
杉平の北に三多気(みたけ)の桜がある。三多気は大洞山南山麓の傾斜面の農山村で、平安時代に真言宗醍醐派真福院が開かれている。真福院の表参道は桜の古木2000本が1km余の坂道の両側を埋めて山門に達している。三多気の桜は国指定の名勝で、桜の歴史は室町時代にさかのぼる。
杉平を抜けると石名原に入り、払戸・中垣内・下垣内・瀬之原と集落が続く。払戸を少し行くと道標がある。
払戸の道標 高さ 1.1m
すぐ いせみち
右 (伊賀) なばり 道
左 (大和) はせ
天保十四癸卯秋 天保14年=1843年
ここは北の三多気へ行く旧道があったところで、(伊賀)名張はその方向を指している。
また少し行くと、今度は文政2年(1819)の太一灯篭が立っている。
払戸集落を抜けしばらく行くと、国道から分かれた右斜めの道を行く。ここらは中垣内(なかがいと)で、中ほどに太一灯篭(写真147)が立っている。文化11年(1814)製で、この地区では一番古い常夜灯である。地元の人は今でも毎晩灯を入れているそうである。
下垣内(しもがいと)の緩い下り坂に、「右 いせみち」と刻まれた道標と庚申堂がある。庚申堂には、庚申像(青面金剛神)と地蔵尊が祀られている。
街道は一旦国道に突き当たるが、すぐ右の道に入る。瀬之原集落(写真148)の中ほどに太一灯篭がある。弘化元年(1844)製で、何回も修理されてきたと現地説明板にある。
瀬之原を抜けると街道はまた国道に合流する。ここから先は美杉町奥津(おきつ)である。国道合流地点から350m先の大きな交差点で、斜め右へ入っていくと奥津宿である。奥津は江戸時代、和歌山藩松阪領の宿場であった。帰りはJR名松線の伊勢奥津駅から松阪への便がある。
写真145 姫石明神 写真146 杉平の太一灯篭□ 写真147 中垣内の太一灯篭 写真148 街道 瀬之原
この項終わり。