関西の歴史街道
伊勢本街道その3

街道の概要

行程記
区間
距離(約)
ウォーキング適格度
第9回 
伊勢奥津~松坂市横野 
17km 
5点(5点満点) 
第10回 
松坂市横野~多気町相可 
16km 
4点 
地図は伊勢本街道その1に含む

行程記 第9回 伊勢奥津~松坂市飯南町横野  距離 約17km

奥津(おきつ)へは、松阪からJR名松線で行くことができるが、所要時間が1時間半もあるので注意を要する。そして本日の歩行距離は少し長くとったが、横野まで適当な交通機関がないからである。よって、関西方面から日帰りができるか綿密な計画が必要である。横野からは松阪へバスが出ている。
伊勢奥津宿(写真161)
ここの住所は、三重県津市美杉町奥津である。
奥津の町は難所の飼坂峠(かいさかとうげ)を控えた西の宿場として大いに栄えた。奥津は街道に沿った街並みがが1200mほど続き、伊勢本街道随一の宿場らしさが残っている。風格ある古い家並みが続く集落には、旅籠に限らず多くの屋号が残り、今でも家々に屋号入りの暖簾をかけてかつての賑わいを地域で守っている。
奥津宿の中心から少し東寄りの三叉路を右折し、雲出川に架かる宮城橋を渡る。ここから須郷・谷口と集落が続くがまだ宿場らしい雰囲気はある。須郷の中ほどに明治末まで営業していた旧旅籠中北屋(写真162)の古い建物がある。
その向かいの田んぼの中に「おんばさん」がある。
須郷のおんばさん  (現地説明版)
流行病の百日咳のことをこの地では「うばぜき」といい、子供たちを苦しめてきた。このうばぜきに、霊験あらたかなおんばんさんこと延命地蔵菩薩が掛けている「よだれかけ」を借りて掛けてやると、楽になったといわれている。お礼の新しいよだれ掛けを縫ってお返しすればよい。毎年8月23日夜には、組内の人々が集まり、子供たちを交え数珠繰りが行われる。「山へ行け、川へ行け」と称えながら無病息災を祈るのである。
谷口集落には、立派な台座を持つ太一灯篭が立っている。文久4年(1864)製とある。ここから東へ、小さな流れに沿って現在の飼坂トンネルの入り口まで進む。途中の路傍に首切り地蔵。また、飼坂峠へ行く途中の山道の脇に胴切地蔵がある。
首切り地蔵・胴切地蔵  (現地説明版)
旅人におそれられた飼坂峠には、様々な伝説が残っている。急峻で険しいうえに、狼、山賊が出没して旅人を襲うこともあったといわれている。この地蔵には、山賊との格闘の際刀で切られたという伝説がある。今もそれぞれの部分が切られた形のままで、峠越えの際に山賊等の犠牲になった人たちの成仏を願い、供養のために祀られている。
街道はトンネル入り口の手前で階段を上り国道へ出る。その国道を横切り、山道へと入っていくと飼坂峠に達する。明治末までは急勾配を上りきった峠に茶屋が開かれていたというが、現在は植林された杉・ヒノキが成長して茶屋の跡形もない。
飼坂峠(写真163) 標高 484m (現地説明版 多気地域住民センター・美杉町)
この飼坂峠は、上古から大和と伊勢を結ぶ交通の要衝として多くの人々が利用してきた。
伊勢参宮が盛んになった江戸時代には、道中でも一番の難所であったといわれている。
明和5年(1768)の幸講定宿帖には、「池田屋清吉、峠に茶屋2軒あり、力餅として小豆の餅売る。5文づつ 下女あまた出てとめる」と書き留められている。平成8年には文化庁から「歴史の道百選」に指定されている。
飼坂峠を下れば多気(たけ)宿で、現在の行政では津市美杉町上多気である。街道にそって谷町・町屋・立川・奥立川と集落が続き、松阪市上仁柿へと入っていく。
飼坂峠からの下りは緩い坂道となるが、谷町集落の手前からは急坂となり、立派な階段状の塀が印象的な民家に続いて、風情ある街並みが連続している(写真164)。伊勢本街道の中でも最も旧街道の風情を残している景観である。
多気宿  (現地説明版)
多気は険しい山々に囲まれた小盆地で、東西に延びる伊勢本街道と、南北に丹生俣(にゅうまた)から下之川、松阪に出る街道が中央で交差する交通の要衝であった。タゲはタギルと同じ意味で、水が激しく流れるところを表している。
多気宿は明治末までは毎日50人前後の参宮客が投宿し、谷町の三鬼屋をはじめ高橋屋・銭屋、町屋筋の亀屋・角屋などの旅籠が繁盛していた。
現在、三鬼屋旅館は取り壊されてしまったが、谷町の銭屋、町屋筋の結城屋旅館が昔のままの姿を留め、風情を醸し出している。
八手俣川手前の十字路に元治元年(1865)銘の高さ5mに近い上多気常夜灯が立っている。この常夜灯のはす向かいに、伊勢本街道でもっとも有名な道標が立っている。文字数は少ないが、一字一字は大きな字で深く刻まれている。
多気宿の道標(写真165)  高さ 1.7m
  (西面) すぐいせ道
  (東面) すぐはせ道
  (南面) 嘉永六年                    嘉永6年=1853年
上記の十字路を北へ600mほど行けば、北畠神社と北畠氏館跡庭園がある。北畠神社の境内と付近一帯は北畠氏の館があったところで、北畠氏が公家の出身であったことから多気御所と称された。
北畠氏館跡庭園  (現地説明版)
神社境内の東南隅に位置する。俗に米字池と呼ばれる池と、蕎麦壺山と称する築山からなっている。池の周囲には自然石で護岸が施され、蕎麦壺山には老杉が立ち、池中には仁王石、達磨石と称する配石がある。苑内には杉・楓・桜・槇・栂・桧等の高木とツツジ・アセビ・サカキ・モクセイ等の低木があり、池中には蓬莱島または弁天島と呼ばれる島がある。
先ほどの十字路を東へ進み、急坂を少し上ると町屋筋で結城屋旅館がある。立派な建物であるが現在は営業していない。
町屋と立川の間に六部供養碑がある。
六部供養碑  (現地説明板)
この碑の正面中央には、「奉納二千日隔夜供養」、右に「元禄十三年(1700)」、左に「辰九月吉祥日」、更に左側面に「観音菩薩」、右側面には「両宮大神宮」と刻んである。
この碑を建てたのは、大和生まれの神南辺庵・大道心という六部で、2000日の間に長谷寺と伊勢神宮を300回も参拝したその所願成就の供養碑といわれている。
観音菩薩とは大和長谷寺を、両宮大神宮は伊勢神宮を指している。この地点が長谷寺と伊勢神宮の中間にあたり、ともに11里半であることからここに建てられたのである。
坂向場(さかむかえば)  (現地説明板)
ここは「坂向場」という上多気区所有の土地である。
伊勢参宮の盛んなころ、2泊3日の伊勢参りから帰ってくる多気の伊勢講の人たちを、講の家族や子どもたちが出迎えたところである。子供たちの楽しみは何といってもお土産だ。あめ玉や菓子の入った袋を分けてもらった。
また、大人たちは無礼講で酒を酌み交わした後、みんなで道中歌の伊勢音頭を歌いながら家路についたという。
立川から峠集落まで旧伊勢街道はほとんど国道になっているが、所々で国道に交差している明治以前の旧道が現れる。
奥立川の不動橋を過ぎると、松阪市飯南町に入り、近世には6軒も旅籠があったという寂れた峠の集落にでる。峠集落は昭和50年に廃村となっている。
峠集落を抜けると、右に山坂道が下っている。櫃坂(ひっさか)である。誰が立てたのか不明であるが、櫃坂全長14.5丁と書いた木札が立っている。櫃坂はお伊勢参りの怖いとこと里謡に唄われた一つで、杉山に覆われた急な山道が下っている。峠集落の標高は440mほどで、麓の櫃坂の登り口の標高は210mほどである。約1.5kmで標高差は230mほどである。伊勢へ行く下りはよいが、帰りは難儀な坂道で、馬引きの運送では馬の荷物を人が担ぎ上げたともいわれている。
櫃坂を下りたところは、飯南町上仁柿(かみにがき)である。坂ノ下集落のあるところまではのどかな田舎道が下っている。国道合流地点に「左若宮八幡宮参道」と刻まれた道標が立っている。
しばらく国道歩きを続ける。次の集落は吹ヶ野で宿場らしい家々が散見できるが、道幅が広く旧街道の面影は乏しい。ほとんどの家ではしめ縄を一年中飾っているようである。
吹ヶ野の東で国道と別れ、左の旧道を進む。高福寺を示す石碑の横に道標が立っている。
吹ヶ野の道標  船形光背 高さ1.2m
  右 いせ 宮川へ九り
中出の集落に入る。茶屋橋手前の十字路にも道標がある。
中出の道標
  右 阿ららぎ道
  左 はせ/なら 道
  すぐ いせ道
ここから長瀬の集落に入る。しばらくして天保5年の子安地蔵の碑がある。地蔵尊は横の岩場を登ったところの堂内に祀られているが、布で覆われてみることはできない。先を急ぐ。
今度は弘法大師御堂の横に、常夜灯と自然石の灯篭が立っている。この常夜灯は、高さ1.8mほどのもので太一と刻まれている。久しぶりの太一灯篭である。
国道を横切り、次に国道に突き当たるところに、万治3年(1660)の南無阿弥陀仏碑がある。
ここからしばらく人家もなく、だだっ広い国道歩きとなる。次の集落は下仁柿上組である。街道筋らしい民家は散見できるが道幅は相変わらず広いままである。
国道から、右へ直角に曲がる旧道のすぐのところに、立派な4m大の常夜灯がある。「明治三年 両宮献燈 天下泰平」と刻まれている。ただ、3方を工場の壁にかこまれ窮屈そうで、せっかくの大きな常夜灯が台無しある。
道幅の狭い田んぼの道を行くと小さな庚申祠と道標がある。行悦の道標である。
行悦の道標(下仁柿)
  (正面) はせより是まで十四里
       是より宮川へ八里半
         すかの村 行悦
街道は櫛田川に沿って細々と続いている。飯南町横野字六番組で国道に合流する。
この国道の北側に横谷へ通じる道があり、そこに地蔵菩薩が浮彫された道標が立っている。像の下に、「右 あららぎよこ谷道 すぐはせへ十五里」と刻まれている。
街道はすぐ先で国道と別れ、左へ入っていく。旧街道らしさのない普通の道である。しばらく進むと柿野神社の前にでる。
柿野神社(写真166)
柿野神社の境内には南天が多く自生し、南天の宮とも呼ばれている。
(現地説明版)
本神社は伊勢本街道沿いに鎮座し、古きより上方から伊勢神宮にお参りする旅人の道中の安全をご守護されてまいりました。境内に自生する南天を見上げ、神宮が近いことを知り、元気づけられたと伝えられています。南天は昔から“難を転ずる”という吉兆のいわれから、屋敷の鬼門に植えられ、魔を封じてきました。時代を経てもなお伊勢に詣でる人たちの道中の安全を見守っておられます。
境内にある3m大の常夜灯には、正面に「大神宮」、基壇に「よこの村」と刻まれ、右側に「天下泰平 是ヨリ宮川江七里半」、左側には「五穀成就」「天保元年(1830)庚寅十二月吉たつ」と刻まれている。
柿野神社の前の道を進むと、すぐに国道166号に突き当たる。横野の追分である。柿野神社の常夜灯は、元はこの追分にあったそうである。西から来たこの国道は和歌山街道で、東の小片野の追分まで伊勢本街道と重複している。和歌山街道とは、和歌山の城下町から高見峠を越え松阪に至る街道で、伊勢南街道とか大和街道とか呼ばれている。
国道筋の飯南郵便局の手前に柿野バス停があり、松阪駅までバスが出ている。
写真161 奥津宿
写真162 旧旅籠中北屋
写真163 飼坂峠
写真164 多気宿谷町
写真165 多気宿の道標
写真166 柿野神社

行程記 第10回 松阪市飯南町横野~多気町相可  距離 約16km

松坂駅からバスに乗り、柿野バス停で下車する。横野の追分である。
この追分には休み茶屋が並び、馬・駕籠の継ぎ立場と休み場もあったようである。また、2基の道標があったが今はなくなっている。その内の1基は少し東の宝積寺(ほうしゃくじ)に移設されている。
宝積寺の下の国道を東へ進むとすぐに旧道が現れるが、また国道に合流してしまう。
大石町(おいしちょう)に入る。上出垣内に旧道が現れ、集落の中ほどに庚申堂がある。この堂の前には行悦の道標が、盛土の石垣にはもう一つの道標が組み込まれている。
行悦の道標(大石町)  高さ 60cm
  (正面) はせより是迄十五里
       是より宮川へ七里
        すがの村 行悦
石垣の道標  高さ 90cm
  (正面) 大石宿丗(30)六町
       はせ与是迄十五里半
       此与宮川へ七里
庚申堂の前の道を東へ行き、国道との合流地点を真北へ突っ切ると久保田垣内に着く。連子格子のある家が4,5軒あり、道幅も狭く良い街道である(写真167)。集落の中ほどから緩やかな下り坂となり、再び国道に合流する。その緩やかな坂道を「おせん坂」という。おせん茶屋というものがあったことから名付けられた。
横野からここまで、我々は櫛田川の左岸を歩いたことになる。街道はこの先、多気町相可まで櫛田川とつかず離れず続いている。
しばらく国道を歩くと大石不動院に着く。
大石不動院(写真168)
石勝山不動院金常寺(真言宗)と号し、本尊は石像不動明王で弘法大師の作と伝えている。自伝によれば、弘仁3年(812)弘法大師の開基で、本堂(不動堂)は慶長7年(1602)の再建である。本尊は青御影で作られているので、「青石不動」とも呼ばれている。
不動院の少し東に焙烙(ほうろく)岩がある。観音岩とも呼ばれている。岩に自生するムカデランの群落は珍しく昭和2年に国の天然記念物に指定された。岩下には三面八肘(はっぴ)の馬頭観音と金剛界を表した大日如来の石像を収めた小祠がある。
不動院から先は飯南町小片野町(おかたのちょう)である。しばらく国道歩きの後、上出垣内で街道は国道と別れ、右の道に入っていく。南小学校から先はなだらかな下り坂になっていて、根尽坂(乞食坂)という名前で呼ばれていたらしいが、今はただの市街地の道路である。旧街道らしさはまったくない。
国道を一度突っ切り、また帰ってきてしばらく進むと三叉路の突き当たりとなる。ここが小片野の追分で、和歌山街道は北へ、伊勢本街道は南へ行きすぐ東へと進むことになる。
この追分に地蔵像を半肉彫りした道標が立っている。
小片野追分の道標  高さ 1.0m
  (正面) 右 山田六里 観照
        (欠) 三里       ※左肩は欠けているが、松阪と考えられる。
街道は国道と別れ県道歩きとなる。山の中を行く低い峠道だが、道幅が広い立派な舗装道路で、はたしてこれが本当に伊勢本街道かと迷いそうになる。
峠を少し下ったところを左へ行くと茅原町上茅原に着く。田園風景が広がるよい道である(写真169)。集落のかかりに上部だけが残った道標が立っている。文字は判読不能である。やがて街道は県道に合流するが、今度は右手の道を進み下茅原に入っていく。下茅原のはずれに貞享5年(1688)の庚申塚が祀られている。
津留(つる)の渡し(写真170)
街道はやがて津留の渡しに達する。櫛田川を越える渡し場で、道標(高さ約2m)と六字名号碑(南無阿弥陀仏碑)が立っていて、渡し場の雰囲気はかすかに残っている。
(現地説明版)
里謡では宮川の渡しとともに、伊勢本街道の難所と唄われている。普段は渡し舟ですぐ渡れたが、水かさが増えると川止めとなった。舟は両岸に張り渡した縄を手繰りながら進めるものであった。昭和4年4月、少し上流に津留橋ができるまで存続していたのである。土地の人々が舟場と呼ぶこの辺りには、接待所などもあった。
はかり岩
川止めの目安としたのがはかり岩である。岩の上に埋め込んである切り石が水没すると川止めになり、津留に何軒もあった旅籠が賑わったのである。
津留橋を渡り東へ進む。多気郡多気町である。すぐのところに、「左 いせ道」と刻まれた自然石の道標があるが、道は旧街道らしさが全くない普通の道である。
少し先の上牧で街道は県道と別れ右の細い道に入っていく。再び県道と交差する手前に、2体の地蔵尊と道標が立っている。道標は今まで再三出てきた行悦の道標である。以降伊勢神宮まで行悦の道標はない。
行悦の道標(上牧)
  (正面) はせより是迄十七り ミや川四り□
      廻國為供羪すがの村行□
2体の地蔵尊は、それぞれ道別れ地蔵と行き倒れ地蔵と呼ばれている。
ここから北へ、県道を横切りると、両側は田んぼののんびりした道である。再び県道と合流することになるが、その手前にも道別れ地蔵が祀られている。この地蔵尊には「右 いせみち 左まつさかみち」と刻まれている。
伊勢自動車道の高架下をくぐりしばらく行くと多気町鍬形である。鍬形の中ほどに不動院があり、街道に面して仏足石が立っている。
仏足石  (現地説明版)  高さ約 1.5m
地元の人は「足神さん」と呼んでいる。足の病にご利益があるとして今も信仰されている。天明5年(1785)の作である。街道を旅した人々はここを通るとき、この「足神さん」にわらじを奉納して旅の安全を祈願したのである。
約48cmの左の仏足石に千輻輪相が刻まれている。その足の下に「経に比相を見れば千劫の重罪を滅すると言えり」とある。
井内林(いのうちばやし)に入り右の細い道を進む。伊勢の三郎が源頼朝の軍勢が攻めてくるのを木に登り監視したと伝えられる「伊勢三郎義盛 物見松」跡があり、その側に地蔵尊が祀られている。この地蔵尊はいぼ地蔵といわれている。いぼができるとこの地蔵にお参りして、治るとお礼に七色のお菓子を供えたのである。
佐伯中の集落の北側を通り元の県道に戻る。三匹田(さんびきだ)の集落に入ったところに、歯痛に効能があるという歯痛地蔵尊を祀る堂がある。この像は道標地蔵で、「左丹生山近長谷寺三十町」と彫ってあるらしい。
四匹田(しひきだ)には伊勢本街道で最大級の常夜灯がある。
四匹田の常夜灯(写真171) 高さ5.5m
  両宮常夜燈 四匹田組中 弘化ニ乙巳年十一月吉日   弘化2年=1845年
                 石上 根来惣右衛門
四匹田組大庄屋三谷蒼山の遺言により建てられたものである。
四匹田からさらに東へ進むと相可(おうか)の町に入る。相可は、熊野道・伊勢本街道が通り、さらに櫛田川の水運の要衝として栄えた宿場町であった。しかし、伊勢参りの旅人で賑わった宿場町相可も明治26年の参宮鉄道の開通により大打撃を受け、伊勢参り客相手の商売も衰退していった。
この相可の入口に小さな川が街道と交差しているが、この辺りは千鳥ヶ瀬と呼ばれている。ここには塞の神が祀られ、また西行の歌碑と灯篭がある。賽の神は、境の神とも呼ばれる。昔の人々は村の境界から、しばしば悪霊が入り込むと考えていた。そのため、村人は悪霊の侵入を追い払う神が必要と考えた。その神が賽の神であった。灯篭は高さ約2m、「千鳥瀬 寛政四年(1792)」と刻まれている。
以前はここにムクの大木が繁っていて街道を覆い尽くしそうであったが、枯れたのか今は根元を残すのみである。
相可の町に入りしばらく行くと三叉路がある。ここは、札の辻と呼ばれ、伊勢本街道と熊野道の交差点であった。ここに2本の道標が立っている。
札の辻の道標(写真172)その1  高さ約 1.5m
  (北面) (指印)伊勢本街道
  (西面) 右 くまのミち
  (東面) すぐ ならはせ道
  (北面) 文久三癸亥十一月建            文久3年=1863年
札の辻の道標その2  高さ約 1.6m
  (北面) 右 まつさかみち
  (西面) 左 くまのみち
  (東面) (指印)さんぐうみち   ※その2の道標はどこからか持ってきたもの
この道標群の隣には、まつさか餅が名物の長新本舗が店を構えている。
この辺りでは妻入りの家が多く見受けられ、しめ飾りを年中掲げている家がほとんどである。
帰りは、JR紀勢本線相可駅から松阪方面の電車がある。また、三重信用金庫の前から松阪駅前行きのバスもある。
写真167 街道 大石町久保田
写真168 大石不動院
写真169 街道 茅原町上茅原
写真170 津留の渡し
写真171 四匹田の常夜灯
写真172 札の辻の道標
この項終わり。
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