関西の歴史街道
伊勢本街道その4

街道の概要

行程記
区間
距離(約)
ウォーキング適格度
第11回 
多気町相可~玉城町田丸 
10km 
4点(5点満点) 
第12回 
玉城町田丸~神宮外宮 
7.6km 
4点 
 第13回
 外宮~内宮(古市参宮街道)
4.6km 
4点 
地図は伊勢本街道その1に含む

行程記 第11回 多気町相可~玉城町田丸  距離 約10km

出発はJR紀勢本線相可駅とする。松阪から三重交通のバスの便もある。
旧国道の相可交差点から東へ行くと正面に、元「くるまや」といった鹿水亭の風情ある建物が見えてくる。この辺りには旅籠が軒を並べていたようである。鹿水亭の隣に「おんばさん」と呼ばれる小さな祠がある。
おんばさん
子どもの百日咳に霊験あらたかといわれている乳母神が祀られている。倭姫命が相可を通ったとき、人々が百日咳の流行で苦しんでいた。そのため、倭姫命は櫛田川の鉾ヶ瀬の淵で川水に入り、「この川水で体を洗えば、必ず咳も治るだろう。」といって立ち去った。この言付けを守ったところ、たちまち病は治った。人々は、倭姫命に感謝して、ここに乳母神を祀ったと伝えられている。鉾ヶ瀬の名は、倭姫命が鉾を洗ったことに由来すると伝えられている。
新国道42号のガード下をくぐり東へ進む。田んぼ道と山裾を行く道となり、次の西池上(にしいけべ)まで集落は現れない。
西池上は宿場町ではないと思われるが、旧街道の雰囲気を色濃く残している(写真181)
西池上の西村家の玄関先に、往時の伊勢土産として有名な「金粒丸」という丸薬の看板がある(写真182)。看板はケヤキ製で、大きさは高さが197cm、幅が58cmもある。
看板には次のように書かれているらしい。
  本家勢州神山薬師前いけへ村
  御免きんりうくはん
  江戸芝明神町分家之外無類大好庵店
西村家から東へ300mほどのところに、金粒丸の本家であった村林家の大好庵がある。
西池上を過ぎると東池上に入る。その東部に三叉路があり、街道は左の道を進む。
東池上の道標  三叉路にある  高さ 約1.0m
  (正面) 右 とば かささぎに中
         すぐ さんぐう 道
  (北面) すぐ ならはせ 道
  (南面) 明治三十一年五月
JR参宮線の踏切を越えると少し上り坂となり、丘陵地の林の中を行くような感じである。ダイヘンの大きな工場の北側を進み、また雑木林を抜けると土羽(とば)茶屋である。茶屋という名であるが現在は普通の農村である。土羽茶屋は、街道の旅人相手の茶屋を土羽の村人が出向いて作ったのでこの名がある。
土羽茶屋から1.2kmほど東へ行くと道は山の中へと入っていく。高さ数m、長さ200mほどの切り通しがあり、道はほぼ平坦である。
伏し拝み坂  (現地説明板)
むかし伊勢参りの旅人がここまで来て、お伊勢さんまでの距離を地元の人に尋ねたところ、「山道3里 畷(なわて)5里」といわれた。旅人はこれを合計して8里だと勘違いして参宮するのをあきらめ、東の空を伏し拝んで残念そうに帰ったという。それからここを伏し拝み坂というようになった。切り通しをつくる以前の峠の上に石灯篭の一部が残り、「両宮遥拝所 献燈 ふしお可巳坂 文政十年」の銘がある。
伏し拝み坂を越えると街道は玉城町(たまきちょう)上田辺(かみたぬい)に入る。上田辺の茶屋地区の中ほどに正念塚がある。
正念塚・人柱供養碑塚  (現地説明板)
今から二百数十年前に、この街道を正念という老僧が歩いていた。老僧は書き写した経文を全国66ヶ所の霊場に奉納しようとしていた。上田辺羽根まで来たとき病となり、農家に宿を求めた。重い病にかかり長逗留の身となった。死期を悟った正念は、街道を往来する旅人の安全を祈って人柱にたったといわれている。村人はこれを憐れみ、供養のためにその上に塚を築き、碑を立てたと伝えられている。
上田辺と下田辺の境に、羽根の遥拝所と常夜灯が立っている。そして下田辺のはずれには、文化9年(1812)銘の供養地蔵が立っている。
街道が東向きから南向きに変わるところに三叉路があり、そこに道標が立っている。「左 はせ道」と刻まれたはせ道とは伊勢本街道のことである。「右 松阪道」とは、松阪から斎宮を通ってくる道で、ここで伊勢本街道と合流する。
少し南へ行けば、田丸神社の鳥居と常夜灯が立っている。城下町田丸へ入ってきたという感じがする。
田丸城跡(写真183)
田丸城は、南北朝時代に北畠親房、顕信によって築かれた山城である。戦国時代に織田信長の二男信雄(のぶかつ)によって、石垣、堀等が整備され、3層の天守閣も築かれた。後、元治元年(1619)、紀州徳川家の所領となり明治維新まで続いた。
田丸城の東側を南下すると、右手に城山と堀が見えてくる。堀端を少し南へ、派出所の北側の道を東へと進み、すぐ南へ折れて進むと、鉤十字の交差点に着く。南からの道は熊野道で、伊勢本街道は東に折れて進むことになる。このように、田丸の城下町は松阪道や熊野道が合流する要衝で、旅籠なども多かった。
しかし、明治30年に参宮鉄道が伊勢の山田駅(現在の伊勢市駅)まで開通したことで寂れた。また、明治44年伊勢本街道の宮川の柳の渡しに度会橋が架けられ一層宿場町田丸は寂れることになった。
先ほどの熊野道との合流点に立派な道標が立っている。新しく建て直されたものらしい。
熊野道の道標(写真184)
  (西面) 紀州街道
  (北面) 左 よしの/くまの/道
  (南面) 右 さんくう道
道標の前の道を東へ進む。左手の工場は、伊勢うどんに使われる醤油を製造しているミエマン醤油である。右へ折れたところに磁石橋の跡がある。
磁石橋跡  (現地説明板)
大手町から板屋町入口の善兵衛川に架かる石橋のことで、昔はおおよそ南北になっていたのでこの名があるという。文政7年(1824)の竣工で、金25両なりと古文書にあるという。
写真181 街道 西池上
写真182 金粒丸の看板
写真183 田丸城跡遠望
写真184 熊野道の道標

行程記 第12回 玉城町田丸~神宮外宮 距離 約7.6km

出発はJR参宮線田丸駅となる。
ここから伊勢本街道は宮川までほぼ一直線で東へ進むこととなる。ここからの道は歩道のない直線で車の通行量も多く、歩きにくい道である。しかし、所々で家が道に対し少し斜めに建っている武者隠しとなっていて、旧街道の雰囲気はかすかに残っている。
外城田川の手前に小さな神社がある。神宮125社の一つ、佐田国生(さたくなり)神社である。位は摂社である。街道の南にあり、南に向かって建っているので、参拝するには南へ回り込まなければならない。
少し行くと右手に小ぶりな常夜灯(写真185)が立っている。人家がなく、街道脇にぽつんと立っているので、形は小さいが風情のある常夜灯である。
小さな川に架かるふるかわ橋を渡ると伊勢市である。やっと伊勢市まで来たかと感慨に浸るところである。
JR参宮線の踏切を渡り城田小学校を通り過ぎると、左手に庚申塚がある。ここからは視界が広がり遠く神宮の山々を見ることができる。両側は田んぼで歩道もあるが車の通行量は相変わらず多い。
新興住宅地を抜け中須町に入ると、車も少なく旧街道らしくなってくる。尾崎咢堂記念館の前の道を進むと宮川に突き当たる。柳の渡しである。大阪からここまで川らしい川がなかったが、やっと本物の川にお目にかかったという感じである。
史跡 宮川・柳の渡し跡(写真186) (現地説明版)
昔宮川には橋がありませんでした。2ヶ所の渡し場で渡し舟が人と物のすべてを運びました。桜の渡し(下の渡し)の上流に位置していて、上方・西国・熊野からの参宮客を対岸の山田へ渡したのがこの「柳の渡し」でした。江戸時代には柳茶屋が軒を並べて賑わっていました。
伊勢道中案内には
舟わたし ぜにいらず
川ばたにて子ども出でて参宮人の代ごりをとる。一人前壱文づつ。むかいは山田外宮なり。と記されている。
代ごりとは参詣人に変わり水垢離を行うことで、そのお代が壱文だといっている。
宮川の度会橋を渡れば、一本南の県道に出て東へ進まなければならない。この県道が伊勢本街道である。1kmほどで筋向橋交差点に着く。
筋向橋(すじかいばし)(写真187)
ここで、伊勢本街道と宮川の桜の渡しを越えてきた参宮街道が合流して、外宮へと向かうことになる。もと道筋と橋の板が筋違いになっていたことからこの名がある。現在は親柱と欄干が道の両側に残されている。
桜の渡しを越えてきた参宮街道とは、名古屋方面、京都方面から来た街道と榛原で別れた阿保越え伊勢街道とかが合流してきた街道である。よって、神宮へ向かう街道はこの筋向橋で一本にまとまったことになる。
外宮への途中に小西万金丹の商家がある。妻入りの堂々とした商家である。
小西万金丹(小西萬金丹)(写真188)
延宝4年(1676)から現在の店舗で営業を続けている漢方薬の老舗である。胸焼け、腹痛など万病に効く「お伊勢さんの霊薬」として人気がある。
小西万金丹から250mほど、街道の北側に道標があり、「月よみのみやさんけい道」「明治廿六年九月」と刻まれている。月夜見宮はこの道標から北へ行けばすぐのところにある。外宮の別宮で、天照大神の弟の月夜見尊をお祀りしている。
月夜見宮の道標と道路を挟んだ対面に外宮の裏参道の入口がある。歩き旅の時代はこの裏参道がメインとして利用されていたらしいが、現在の伊勢市駅ができてからは今の表参道がメインとなった。外宮の表参道入口は月夜見宮の道標から300mほど東に行かなければならない。外宮の正式名は豊受太神宮という。
豊受太神宮(外宮)  (現地説明板)
御祭神 豊受大御神(とようけのおおみかみ)
御鎮座 雄略天皇22年
約1500年前の雄略天皇の御代に、丹波国から天照大神のお食事をつかさどる御饌都神(みけつかみ)としてお迎え申し上げました。
豊受大御神はお米をはじめ衣食住の恵みをお与えくださる産業の守護神です。
表参道の火除橋を渡れば神宮の神域である。左手に手水舎があり(内宮は右手にある)、第一鳥居、第二鳥居をくぐれば正宮である。お参りは正宮で終わるのではなく、別宮にもお参りしましょう。中でも多賀宮(たがのみや)は外宮第一の別宮で豊受大御神の荒御魂(あらみたま)をお祀りしている。
写真185 新田町の常夜灯
写真186 宮川 柳の渡し跡
写真187 筋向橋
写真188 小西万金丹本舗

行程記 第13回 古市参宮街道(外宮~内宮) 距離 約4.6km

外宮の参詣を済ませて、内宮へと旧街道を進むこととする。現地の標識では古市参宮街道と記されている。全長は約4.6kmで、途中の古市付近の海抜は約40mである。低い台地となっているので間の山(あいのやま)ともいわれている。明治43年に御幸道路ができるまで、内宮への道はこの街道しかなったのである。
外宮前の道を東南へ進み、道路を横断してマリア保育園の横を東に進む。広い道路を横断すると祖霊社の敷地内に大きな矩形の常夜灯が立っているのが見えてくる。珍しい形である。この古市参宮街道は道幅が広く、車の通行量も多いので歩きにくい街道である。
近鉄線のガード下をくぐりしばらくすると勢田川に架かる小田の橋(写真189)が見えてくる。江戸時代でも架かっていた名の知られた橋である。隣には仮屋橋という橋も架かっていた二重橋である。親族に死者が出てまだ忌明けになっていない人や月の障りのある女性はこの橋を通ることになっていた。
勢田川を渡りしばらく行くと上り坂となり、坂の名前が尾部坂という。この坂の途中に「間の山 お杉お玉」の碑が立っている。お杉お玉とは、現地説明板に「この街道沿いで、江戸時代中期から、お杉お玉と称した大道芸人が三味線などを弾いて参宮道者に興を添えていた」と書いてある。
中里介山の『大菩薩峠』にも、備前屋の女中の話として以下のように書かれている。
「お杉お玉も、昔からこの土地に幾代もございまして、今のお杉お玉はその幾代目に当たりますことやら、わたくしどもでさえよく存じませぬが……」
「撥(ばち)さばきがあれでまんざら捨てたものではございません。ああして弾きだしてから、お客様が面(かお)を目当てに、お鳥目(ちょうもく)をはっしはっしと受け止めながら、三味をくずさないのが、お杉お玉の売物なのでございます」
坂を上りきったあたりが古市町で、備前屋跡、油屋跡の碑が立っている。古市のあたりは戦災で焼け、現在の古市には昔の面影はまったくない。往時、妓楼だけで70軒、常設の芝居小屋が2軒もあり、江戸の吉原、京の島原に並び称される大歓楽街だったのである。特に、油屋、備前屋、杉本屋は古市の三大妓楼として有名であった。
近鉄線を陸橋で越えると、 街道を少しそれたところに麻吉旅館(写真190)が今も昔のままの姿で建っている。江戸末期の建物で、2005年に登録有形文化財の指定を受けている。
麻吉旅館の前に道標がある。
古市の道標
  (正面) 左 あさま 二見へ ちか道      あさま=朝熊山金剛証寺
  (右面) 此おく つつらいし
つつらいし」とは、麻吉旅館の建物の間の石段を下りきったところにあるつづら岩のことである。現地説明板によれば、大きさは高さ八尺、横二丈余りとなっていて、元はもっと下の谷にあったそうである。磐座と思われる。
伊勢自動車道の上を越えたところに、明治26年に立てられた道標があり、「月よみの宮さんけい道」と刻まれている。
しばらくして道は下り坂となる。ここは牛谷坂といい、昔牛鬼という怪物がこの付近にいたからこの名がついたといわれている。牛谷坂の下りが始まるあたりに巨大な常夜灯(写真191)が2基並んで立っている。大正3年に建てられたものである。
坂を下りきったところの御木本道路を東に廻れば猿田彦神社が鎮座している。記紀神話によれば、猿田彦神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高千穂峰に降臨するとき、天上と下界の別れ道に現れ道案内をした神様である。この故事により、人々を正しい方向に導いて下さる、みちひらき(開運)の神様として崇敬されている。
御木本道路をなおも東へ進む。宇治蒲田町交差点の東にも月よみの宮の道標がある。明治27年に立てられたもので、「月よみの宮さんけい道」と刻まれている。外宮前の道標にある月夜見宮は外宮の別宮であったが、ここの道標と間の山の道標にいう月よみ宮とは月読宮のことで内宮の別宮である。
宇治蒲田町交差点の東、道標の反対側の道(おはらい町通り)を南へ進む。この道が旧参宮街道で,石畳の道が800mほど続いている。
おはらい町は、以前は何の変哲もない街であったが、平成の初めごろから街並みを木造妻入りの商家に造り変えてきて、車で来た参詣人もここでぶらぶら歩きを楽しめるように努力した。そして、上記道標の北にも駐車場を造ったり、平成5年にはおかげ横丁を造ったりして人の流れを変えてきた。おはらい町を通る参詣人は、以前は年間20万人ほどであったが、今は300万人をはるかに超えているそうである。雑踏の中を赤福本店、岩戸屋などの店先を通っていくと宇治橋に着く。
皇大(こうたい)神宮(内宮)  (現地説明板)
天照大御神は皇室の御先祖であり、歴代天皇が厚くご崇敬になられています。また、私たちの総氏神でもあります。
約2000年前の崇神天皇の御代に皇居をお出でになり、各地を巡られたのち、この五十鈴川のほとりにお鎮まりになりました。
(筆者注)実のところ、神宮の創祀年代はよく解らない。約2000年前の鎮座とあるが、あくまで伝承であり、創祀は4世紀または5世紀ごろと推察されている。
宇治橋を渡って正宮の方へ行く前に一度左へ回って宇治橋を見てみましょう。そこは宇治橋の全景が見渡せるビューポイントである(写真192)。元へ戻り正宮を目指すと明るい空間が広がっている。明治の始めまで人家があったところであるが、神宮の荘厳さを演出するため、明治政府により洋風庭園に変えられた神苑である。
火除橋(ひよけばし)を渡ればいよいよ神域である。少し先の右手に手水舎がある。よって、内宮は右側通行である(外宮は左側通行でその理由は不明)。外宮と同じく第一鳥居、第二鳥居をくぐれば正宮である。伊勢本街道を無事に歩き通せたことに感謝すると旅の終わりが見えてきた。
最後に別宮を巡ってみることとする。内宮の第一別宮は荒祭宮(あらまつりのみや)で、天照大神の荒御魂が祀られている。もう一つ、風日祈宮(かざひのみのみや)もお勧めである。宮の周辺が森となっていて、特に若葉の季節、紅葉の時期は来てよかったと思われるところである。
現代の参詣旅はここで終わりであるが、歩き旅の時代はこれから一大イベントが始まるのである。
両宮への参拝も済ましました、御師(現代のツアーコンダクター)の家でお祓いも受けました、神楽も奉納しましたとなれば、いよいよ古市の妓楼での大散財が待っているのである。
お伊勢参りの川柳にも、「伊勢参宮 太神宮へも ちょっと寄り」という有名な句があるとおりである。
国へ帰ってからも、お伊勢参りの楽しさは一生の語り草となるのである。
写真189 小田の橋
写真190 麻吉旅館
写真191 牛谷坂の常夜灯
写真192 宇治橋全景
この項終わり。
TOPへ

行程記 おまけ 朝熊山金剛証寺

朝熊山(あさまやま)の金剛証寺を紹介する文章では、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」というフレーズがかならず記載されているが、この理屈がよく解らない。金剛証寺が神仏習合から伊勢信仰と結びついて、何代目かの住職が考えたキャッチコピーではないかと思われる。しかし、金剛証寺への登山道は歴史が豊かに残っているに違いないと思い登ってみた。
朝熊山そのものは標高555mであるが、金剛証寺が位置するところは約470mである。関西の山でいえば、二上山雌岳ほどである。しかし、登山口は海抜10m足らずと低いので、実高低差は二上山より大きい。
関西からの登山であれば、伊勢神宮内宮の横からの朝熊宇治道と北からの朝熊岳道の2本の道がある。ここでは、関西から日帰りしたいので、急峻ではあるが距離の短い朝熊岳道を登ることとした。
朝熊岳道には、角柱の町石・丁石地蔵・供養碑など歴史石造物が多く、登山者を飽きさせない。
出発は近鉄鳥羽線朝熊駅とする。山村と呼ぶにふさわしい朝熊集落を南へ、そして東へと抜けると河原地蔵が鎮座している。その対面に、「右あさまたけ 左志州 とばみち」と刻まれた小さな道標がある。朝熊山へはこの辻から真っすぐ南への一本道である。
集落内ののどかな道を歩くと700mほどで出会いの広場というところに着く。ここには20数台の駐車場が併設されていて、近在の人々はここに車を置いて金剛証寺への朝参りを毎日行っているようである。
この広場の横には二十二町の町石と地蔵尊が立っている。22町とは、ここから朝熊宇治道との合流点までのことで、金剛証寺へはあと1.7kmほどの距離があるので注意しなければならない。
また、ここが登山道の出発点となっていて、合流点まで一町ごとの町石が順次立っている。二町の町石の傍らには二丁と刻まれた丁石地蔵も立っている。この丁石地蔵は各町石の傍らに対のような形で一体づつ立っている(写真193)。四町の町石から道は急となり、宇治道との合流点まで坂道が続き、階段の踊り場のような平坦なところはない。
宇治道との合流点を朝熊峠といい、ここから金剛証寺まで登りはない。朝熊峠から北方面を望めば、二見から伊勢湾まで景観は抜群である。この朝熊峠に、昔「とうふ屋(東風屋)」という大きな旅館があった。創業は江戸時代で、大正14年に新しい建物を建てたが、昭和19年、ケーブルカーの廃止とともに寂れ、茶店として営業を続けていた。しかし、昭和39年の火災により全館焼失し、茶店の営業も廃止した。
朝熊峠から東へ100mほど行くと、道が二股に分かれる。右の地道を進む。角柱の町石はなくなり、丁石地蔵が4、5体ほどあるがいずれも丁数は50数丁である。宇治道の登山口からの丁数を表しているのかしれない。
道は伊勢志摩スカイラインに接近するがなおも行くと金剛証寺の極楽橋に着く。その先には立派な下乗碑も立っている。金剛証寺の寺域に入り仁王門をくぐれば本堂である。
本堂の前を右へ、奥の院を目指す。奥の院入口の極楽橋から、道の両側には大小1万本の卒塔婆が柱のように並んでいる。最も大きいものは8mほどもあるそうで、圧巻である(写真194)。伊勢志摩地方では、亡くなった人の魂はこの山に登ると考えられており、その供養に卒塔婆を立てるそうである。この風習を岳参り(たけまいり)という。
公共バスが土日・祝日には近鉄五十鈴川駅と金剛証寺の間を運行している。本数は少ないが、うまくいけば帰りに利用すると時間の節約になる。
写真193 町石と丁石地蔵
写真194 金剛証寺奥の院卒塔婆の壁

付録 お杉お玉の間の山節

我に涙を添へよとや
寂滅為楽と響けども
花は散りても春は咲く
行きて帰らぬ死出の旅
金剛界の曼荼羅と
血脈一つに数珠一連
ゆふべあしたの鐘の声
聞いて驚く人もなし
鳥は古巣へ帰れども
野辺より彼方の友とては
胎蔵界の曼荼羅に
これが冥途の友ぞかし
TOPへ