『歌謡(うた)つれづれ』065
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■■■■■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 2003 9・30 ■ ■■◇■ ◆■■ ---------- ■ 歌謡(うた)つれづれ ■◇ ■■ ■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 0065 ■ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ +++++ まぐまぐで読者登録された方へ送信しています。++++++ +++++ 等幅フォントによってレイアウトされています。++++++ ────────────────────────────── ──────────────────────────────  □■ 「とても売らるる身じゃほどに」       ―映画・溝口健二「山椒太夫」のなかの歌謡― ■□ ───────────────────────> 今号の担当 <                                                       森 山 弘 毅   ─────────────── 映画監督の「溝口健二」といっても、今の若い人々には馴染のない 名前かも知れません。先頃、ビートたけしこと北野武監督が「座頭 市」でヴェネチア映画祭の銀獅子賞(監督賞)を獲って話題になり ましたが、まだ映画が全盛時代だった1950年代に、溝口健二はその ヴェネチア映画祭で二年連続して銀獅子賞(53年〈昭和28年〉「雨 月物語」、54年「山椒太夫」)を受賞するほどの、世界に「ミゾグ チ」の名が知れ渡った名監督でした。(ちなみに、52年〈昭和27年 〉の最初の出品でも「西鶴一代女」が国際賞を受けています) ヴェネチア映画祭で銀獅子賞を受けた溝口健二「山椒太夫」は、森 鴎外の同名の小説を原作としたものでしたが、鴎外が説経節の「さ んせう太夫」から独自の作品に創りあげているように、溝口もまた 鴎外の作品から独自の映画世界を創り出したものでした。たとえば 、本来は安寿姫が姉、厨子王丸は弟なのですが、溝口は逆に兄と妹 に仕立てていますし、何よりも、鴎外作品にも書かれていないこと で、母親が佐渡へ売られて「遊女」になっているという設定にして あるのも、溝口の映画世界ならではのものです。 安寿・厨子王が、婢(はしため)、奴(やっこ)として売られて丹 後国の山椒太夫のもとで苛酷な労役を強いられるのは、もちろん共 通の軸になっているのですが、説経節、鴎外作品に登場する伊勢か ら売られて来た「小萩」という女性は、そこでは安寿を助ける存在 でしたが、映画では「佐渡」から売られて来たばかりの新入りの娘 であり、その娘を逆に安寿が世話をする、という筋立てになってい るのです。その「小萩」が何気なく歌う歌から、安寿が「佐渡」に いる母親の消息を知ることになる、という展開は、実に、絶妙とい うほかないほどです。 映画では、小萩が佐渡から売られて来たばかりの時に、糸をつむぎ ながら小さな声で口ずさむ歌に、安寿が不意に胸をつかれたように 織機(はた)の手をとめて、小萩のところへ駆け寄っていく場面が あります。ビデオを何度も巻き戻しながら、その場面のセリフを書 きとめてみました。安寿が、小萩が歌っている歌のことを尋ねると ころです。 ◆ ────────────────────────── ◆    安寿  ちょっと それは何の歌?    小萩  はい    安寿  もう一度 何というの?    小萩  ずし王恋しや あんじゅ恋しや っていうんです    安寿  それは誰に習ったの?    小萩  ひと頃佐渡で流行(はや)った歌です    安寿  そんな悲しい歌 誰が歌い出したの? ◆ ────────────────────────── ◆ 映像なしで、セリフだけ連ねて読むのは何とも味気ないものですが 、「ずし王恋しや あんじゅ恋しや」の詞句を聞いた安寿の、息せ き切った、たたみかけるような問いかけの思いをご想像ください。     ◆ ────────────────────────── ◆    小萩  遊女だそうです    安寿  遊女?    小萩  中君という    安寿  それで その人は今でも達者でいるの?    小萩  さあ わかりません    安寿  ずし王恋しや つらやのう あんじゅ恋しや つら        やのう っていう歌ね もう一度歌ってみて ◆ ────────────────────────── ◆ 安寿は「遊女」が歌っているという詞句を反芻しながら、もう一度 歌う小萩の歌に耳を傾けます。 ◆ ────────────────────────── ◆    小萩  ずし王恋しや つらやのう         あんじゅ恋しや つらやのう         ・・・・・・・・・・・・         ・ ・・・・・・・・・・・    安寿  お母様だ ◆ ────────────────────────── ◆ ここで二人の会話は終るのですが、画面は、「あんじゅ恋しや」と 歌っていた遊女が母親だと確信した安寿が強い衝撃を受けたさまを 映し続けています。小萩の歌は、まだ「………」とかすかに歌い続 けているのですが、安寿の悲しみの深さを暗示するように曲節だけ が聞こえてくるばかりで、ほとんど歌詞は聞き分けられません。そ こで、ここでもビデオテープを何度か巻き戻しながら「………」の 小萩の歌っている歌詞を注意深く聞き辿ってみると、こんな歌詞が 確かめられました。 ◆ ────────────────────────── ◆   とても売らるる身じゃほどに   しずかに漕ぎやれ 船頭殿 ◆ ────────────────────────── ◆ この歌詞には、佐渡へ売られて来た遊女が歌っていた、という設定 が実によく生かされているように思います。「とても」という言葉 は、「どうせ……」というほどの意味あいで、諦めを含む中世的な 言葉ですが、「とても売らるる身じゃほどに しずかに漕ぎやれ  船頭殿」という詞句には、もう諦め切った船の上の女の思いがこめ られている、といっていいですね。今は遊女の身になっている女の 、来し方を思いやる思いが、売られる身の当事者の思いで歌われて いることになっているようです。小萩の歌には、こうした遊女の思 いが悲しく響いています。そこには遊女の映像はないのですが、佐 渡へ売られて遊女になった女の境涯が歌を通して浮かび上がってく る仕掛けといえます。歌の不思議な力が思われるところです。 母親が佐渡で遊女になっていることを確信した小萩の歌をもう一度 掲げてみます。 ◆ ────────────────────────── ◆   厨子王恋しや 辛(つら)やのう   安寿恋しや  辛(つら)やのう ◆ ────────────────────────── ◆ この歌には、説経節でも鴎外作品でも、ご存知のように次のような 歌があり、それが元になっていることが分かります。 ◆ ────────────────────────── ◆   安寿恋しや ほうやれほ   厨子王恋しや ほうやれほ ◆ ────────────────────────── ◆ これは、物語の終りのところで厨子王が母親に再会するときの歌で 、「ほうやれほ」は鳥追いになっている母親が鳥追い棒を叩きなが ら歌う、鳥を追う囃し詞といってよいものです。映画では、それが 「つらやのう」と、悲嘆のつぶやきに変っています。これは、鳥追 い歌ではなく、遊女の嘆きの歌、です。元歌の鳥追歌から遊女の歌 へー、「つらやのう」のリフレーンは、大変効果的で、母親を遊女 に設定した溝口の映画作りのこまやかな心くばりが伝わってくると ころです。小さなことですが、元歌にくらべて「厨子王恋しや」と 「安寿」よも先に歌われるのも、映画では厨子王を兄として描かれ ているからなのですね。そんなところにも、溝口のこだわりが感ぜ られます。 溝口の行き届いた神経、ということで私が感銘を受けたことは、も う一つ別のところにもありました。上の「とても売らるる身じゃほ どにー」と小萩が歌う歌詞は、おそらく映画を観ている者には、そ の場面ではほとんど伝わることはなかったろうと思われたことです 。先にも記したように、画面は安寿の深い悲しみを静かに映し続け るばかりで、小萩の声は小さくなって、ほとんど曲節だけが響くよ うに耳に届きます。歌詞までは観客は注意が向きません。私も最初 は歌詞など聞いていませんでした。映画は意識的にそう作られてい る、といってもいいと思われたほどでした。とても聞き分けられな い小萩の歌詞でしたが、何度もビデオを繰り返して聞きなおして、 売られていく女の歌であることが、はじめて確かめられたものでし た。 画面は安寿の悲しみを追っていても、一方で小萩は佐渡の遊女のも う一つの歌を歌い続けながら、糸車を廻していたのでした。溝口は 、安寿の思いだけが真実なのではなく、母を思い出させるきっかけ の歌が過ぎてしまっても、小萩が佐渡の遊女の歌を歌い続けていた 、その小萩の歌の真実性、遊女の悲しみの真実性ともいってよいも のを、そのかすかな声の響きのなかに描いていた、といえるかも知 れません。 私はビデオを巻き戻してそのことを知ったのですが、おそらく溝口 健二は当時、ビデオテープが出現するなどとは夢にも思っていなか ったことでしょう。ビデオ時代というものが、細部にも神経を行き 届かせる、溝口健二の映画づくりのリアリティというものを、あら ためて浮き彫りにしてくれた思いがすること、切なるものがありま す。 この歌には、さらにもう一つ、溝口の細やかな心くばりがこめられ ていることがあります。「とても売らるる身じゃほどに」の歌詞を どこから引いてきたのか、ということについてですが、ご存知のよ うに中世末の歌謡集『閑吟集』には、次のようなよく似た歌があり ます。 ◆ ────────────────────────── ◆   ○人買船は沖を漕ぐ とても売らるる身を    ただ静かに漕げよ 船頭殿 (閑吟集 131) ◆ ────────────────────────── ◆ 『閑吟集』はよく知られた歌謡集ですから、溝口がこの歌をヒント にしたことは十分考えられますが、小萩の歌の口調とは少し違って います。説経節「さんせう太夫」には「いかに船頭、あの舟とこの 舟は、同じ港に着かぬかや、舟漕ぎ戻し静かに漕がい船頭殿」と、 子供達と離れ離れになるときの母親の訴える声が記されています。 そこにも閑吟集の余響があること、つとに知られているところです が、溝口がこの母親の言葉から引いたとも考えにくいことです。 実はこんな歌も歌われていたのです。 ◆ ────────────────────────── ◆   ○人買船か怨めしや とても売らるる身じゃほどに     静かに漕ぎやれ かんた殿       (吉原はやり小歌総まくり さかなはうたづくし) ◆ ────────────────────────── ◆ 『吉原はやり小歌総まくり』は江戸時代の初期には出来ていた歌謡 集ですが、この「人買船」の歌は上の『閑吟集』の歌が歌い継がれ て変化したものであることは確かなようですね。この歌の結句「か んた殿」はよく分からない言葉ですが、それを『閑吟集』131の結句 「船頭殿」に置き換えてみると、「とても売らるる身じゃほどにー 」以下は、映画のなかの小萩の歌った歌と全く同じになります。「 身じゃほどに」「漕ぎやれ」の口調もぴたり、です。溝口が、この 歌を直接参考にしたことは確かといえるでしょう。「とても売らる る身じゃほどに」と歌い出せば、初句の「人買船か怨めしや」など は不要です。遊女の身になった女が、「今」と「来し方」を重ねた 思いで歌う歌としては、この詞句で十分だった、とうなずかれます 。 溝口健二は、小萩が歌う佐渡の遊女の歌を、創作ではなしに、説経 節「さんせう太夫」が語られていた時代の、「人買船」の流行(は やり)歌のなかから採り入れていたことが分かります。テープで何 度も聞きなおさなければ分からないような歌詞の「本当らしさ」も 、こうして確かな裏付けがあったのですね。溝口が、スタッフの人 達とともに、『閑吟集』131「人買船は沖は漕ぐ」の類歌にも目を配 り、「とても売らるる身じゃほどに」の詞句を探り当てていた、と いうことにも溝口の眼力というものが感ぜられるところです。 あの黒澤明監督は、映画のなかでは決して開けられることがない箪 笥の抽出(ひきだし)の中にまで、その時代の、その箪笥の主にふ さわしい中味を入れておいた、と伝えられています。そういうこと でいえば、溝口健二監督は、観る者の心が安寿の悲しみに移ってし まっていても、傍で歌っていた娘の、ほとんど聞き分けられない歌 の歌詞にも、歌の主の深い真実の証を用意してあった、ということ になります。歌謡というものがもっている時代の重みというものを 、溝口は、人が気づかぬところにも潜ませていたといえるでしょう か。ビデオの時代になって、いっそう光る溝口健二の真価、といえ るかも知れません。 ────────────────────────────── >>>>>>>> 前号配信数 / 255 <<<<<<<<< ────────────────────────────── ▼ ひ と こ と ▼ 読者の皆さん、ほんとうにお久しぶりです。じつに、5ヶ月ぶり配 信となります。まだ、このメルマガのことを覚えておいて下さって いるでしょうか。\配信の遅滞は、なによりも、この編集子の責任 です。深くお詫び申し上げます。 先日、このメルマガの配信母体となっている、歌謡研究会の第100回 の大会が開催されました。ほんとうなら、ここでお知らせすべきで したが、それもできないままになりました……。 さて、5ヶ月ぶりの今号は、その空白の期間を埋めるような力作と なっています。編集子は、残念ながら、溝口健二の作品を観たこと がないのですが、森山氏の文章を読んでいて、「山椒大夫」を観た くなりました。 今号の原稿を拝見していて、私が関心を持ったのは、ウタが隠され ていた事実を明らかにするという箇所でした。うたう本人は意識し ていないけれども、しかし、ウタには顕れてしまうということ。昔 話には、子どものうたうワラベウタ、あるいはどこからともなく聞 こえてくるウタが、隠されていた事実を明らかにするというパター ンが時折登場します。これは、そこに居る当事者たちの関係の外か らウタがもたらされるという、ウタというものがもつ基本的な性格 に深く関わっていると私は考え、「ウタ表現の外部性」と呼んでい ます。 散文的な説明ではなく、小萩という美しい名前の登場人物の「ウタ 」によって安寿たちの母親の消息があきらかになるという設定には 、隠されていた事実を明らかにする「外部」の眼差しを感じます。 それを私は、ある意味で「神」的な視線からのものだと考えている のですが、この映画の場合、その視線が映画の創造主としての監督 の視線とも重なっているのだということを、森山氏は教えてくれま した。だから、今号の内容は、歌謡論であると同時に、「山椒大夫 」という映画の見事な作品論になっていると思います。 このような視線を背後に持つ表現の深さ、ということを考えます。 「合理性という神話」は、こういった視線といったものを徹底的に 排除したところに成り立つと思うのですが、そのような閉じた空間 の中だけで私たちはほんとうに生きていけるのかということを、最 近よく考えます。じつは、外部無しには成り立たないということが 、「神話」の基本的な性格ではないかと、私などは思っているので すが……。 久しぶりの配信ということもあり、長い「ひとこと」になってしま いました。このメルマガの今後について、もう一度考えなくてはな らないと思うのですが、それについては、また別の形でお知らせし たいと考えています。 (編) ────────────────────────────── ▼ ご 注 意 ▼ このメールマガジンは、歌謡研究会のメンバーが交替で執筆してい ます。よって、できる限り学問的な厳密さを前提として記している つもりですが、メールマガジンという媒体の性質上、かなり端折っ て記さざるを得ません。ここでの記述に興味をお持ちになり、さら 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