━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■■■■■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 2002.12.22 ■
■■◇■
◆■■ ---------- ■ 歌謡(うた)つれづれ ■◇
■■
■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 0060 ■
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
+++++ まぐまぐで読者登録された方へ送信しています。++++++
+++++ 等幅フォントによってレイアウトされています。++++++
──────────────────────────────
──────────────────────────────
■□■ 「忍路(おしょろ)高島」と詩人・作家たち ■□■
───────────────────────> 今号の担当 <
森 山 弘 毅
「江差追分」は、日本の民謡のなかでも、その美しい曲節で知られ
ていますが、地元の江差町では昭和38年以来毎年この追分節の正
調を競って「江差追分全国大会」が開かれ、その年の「名人」が選
ばれています。
◆ ────────────────────────── ◆
忍路(おしょろ)高島及びもないが
せめて歌棄(うたすつ)磯谷(いそや)まで
◆ ────────────────────────── ◆
ご存知の「本唄」と呼ばれる詞章の代表的なものですが、これは、
鰊(にしん)漁に出かけていく男を、「忍路・高島」(小樽付近)
まで追いかけて行きたいのだが、難所の神威岬をとても越えること
が出来ず、「せめて歌棄磯谷まで」はー、と思いとどまる女心を歌
ったものとしてよく知られています。このほかにも「泣いたとて
どうせ行く人 やらねばならぬ/せめて波風おだやかに」などの本
唄もあって、こうして北の海での厳しくも切ない思いを歌う詞章が
、「江差追分」の独特の哀韻を自然に生み育てて来たことも、よく
伝わって来るところです。
こうした「江差追分」の詞章と旋律に、明治・大正の詩人や作家た
ちも心を動かされて来たことが、歌や日記、エッセイに残されてい
ます。通りすがりに拾ってあった断片がありますので、今回はその
ことについて、少し触れてみます。
はじめは北原白秋です。
◆ ────────────────────────── ◆
誰が吹くのか、月夜の嶋に、
ひとり、ほそぼそ、一節切(ひとよぎり)。
椰子(やし)の花咲く南の夏に、
忍路(おしょろ)高嶋、北の雪。 (北原白秋「追分」)
◆ ────────────────────────── ◆
大正11年(1922)『日本の笛』に収められた「追分」という
歌です。『白秋愛唱歌集』(藤田圭雄編・岩波文庫)を眺めていて
、偶然見つかったものです。一読、これは北海道が舞台ではないナ
、とすぐ伝わって来ます。「椰子の花咲く南の夏に/忍路高嶋、北
の雪」というフレーズに、ちょっと驚かされます。「月夜の嶋」と
いうのも幻想的ですね。白秋の年譜を見てみると「大正3年(19
14) 妻俊子の結核療養のため小笠原の父島に渡った」とありま
す。前掲の『愛唱歌集』には、この「追分」の歌は、その折の「父
島」での作だと伝えています。
それで、いろいろ合点がいきました。歌のなかにある「一節切」は
、その名のとおり竹の一節で作った尺八の一種ですが、この語感に
は中世歌謡の余韻が感ぜられます。白秋はこの笛の音の「忍路高島
」の旋律を、月夜の、南の島で聴いたのでした。「椰子の花咲く南
の夏」と「忍路高島」のとり合わせが、何とも不思議な世界へ誘い
ます。最後にポツンと「北の雪」、と添えて結んだのも「南の夏に
」と歌ったあとだけに意表をつかれます。
白秋が実際に北海道を旅するのは大正14年(1925)のことで
すから、大正3年は、もちろん「忍路高島」を北海道で聴くような
体験はしていません。南の島の「父島」で、笛の音の「江差追分」
を偶然耳にした印象に触発されて、この歌が作られたのですね。妻
俊子の結核療養でこの島に訪れていることも、この詞句には映って
いるのかも知れません。ともあれ、白秋は、「忍路高島」の詞章と
旋律に惹かれて、月夜の、南の夏の、詩的世界をつくりあげたとい
えそうです。それには、中世風な「一節切」の響きも一役買ってい
ますね。
それにしても、大正3年当時、小笠原の父島で「江差追分」が笛の
音で聞こえた、というのには驚かされます。明治末年から大正にか
けて「江差追分」のレコード化がなされたこともあるのですが、そ
うであったとしても、やはり、はるかな南の島まで伝えられている
、「忍路高島」の伝播力というものに驚くほかありません。もし、
仮に、白秋が舞台を「月夜の嶋」に借りただけ、なのだとしても、
白秋がこの「追分」を作るきっかけになった「忍路高島」の歌の力
というものが思われるところです。
白秋の「父島体験」よりも10年ほど前の明治37年(1904)
に、石川啄木が北海道・小樽でこの追分節を実際に聴いています。
その見聞を翌38年(1905)の「岩手日報」という盛岡の新聞
に書いています。21回にわたって連載された「閑天地」というエ
ッセイの第15回目の文に印象深く書かれています。「閑天地」と
いうのは、啄木自身の「はしがき」によれば、「啄木、永く都塵に
埋もれて」朝夕その多忙に追われて「身は塵臭に染み、吟心もまた
労(つかれ)をおぼえ」たので、しばらく「暢心(ちょうしん)静
居の界に遊ばんとす」、というわけで、要するに最近は浮世の俗臭
にまみれて、詩心も衰えたので、のどかな心でしばしは閑静な世界
で遊ばんとする心境だ、というところらしいですね。
この連載15回目の一文は、前年(明治37年)秋の北海道旅行の
ことがテーマです。函館へ船で着いた啄木は、さらにここから小樽
までドイツ船「へーレン号」に乗って20時間の海の旅を楽しんで
います。船上、ドイツ人の機関長をつかまえて(?)、「悪英語」
で「破格なる会話」を挑みます。どこまで通じたのかわかりません
が、二人はゲーテやハイネを語り合った、といいます。機関長が、
ゲーテ・ハイネは「実に世界の詩人なり」と誇らしげにいうので、
啄木はそれに応えて「然り、彼等は少なくとも今のドイツ人よりは
偉大なり」と言ってドイツ人機関長をからかい、「彼は苦笑しぬ」
などと、得意然として書き記しているのです。実に、いい気持で書
き進められています。啄木のいう「閑天地」なる世界です。この一
文の末尾が「追分節」で結ばれているのです。小樽港の防波堤の上
で佇んでいる啄木の耳に響いた「追分節」のことを、次のように記
しています。
◆ ────────────────────────── ◆
千古一色の暮風、濛々(もうもう)として波と共に迫る所、荒ぶる
波に漂ひてこなたに寄せくる一隻の漁船の舷歌はなはだ悲涼
忍路高島およびもないが
せめて歌棄磯谷まで
と、寂びたる櫓(ろ)の音に和し、陰惨たる海風に散じ、?々(ちゅ
うちゅう)たる憂心を誘ふて犇々(ひしひし)として我が頭上に圧
し来るや(略)、惨々たる血涙せきもあへず、あはれ暮風一曲の古
調に、心絃挽歌(しんげんばんか)寥々(れうれう)として起るが
如く、一身ために愁殺され了(をは)んぬる時(略)
◆ ────────────────────────── ◆
もう少し続きますが、省略しました。小樽港で一隻の漁船から聞こ
えてきた「忍路高島」の曲節の印象です。明治38年は、啄木満1
9才。18才の秋の「小樽体験」を、こうして1年足らずの後に綴
ったものです。美辞が幾つも重なって、大仰な文章ともいえるので
すが、そこが若い詩人の情熱ともいえるところなのでしょう。「舷
歌(ふなうた)はなはだ悲涼」「寂びたる櫓の音に和し、陰惨たる
海風に散じ」「あはれ暮風一曲の古調」等々「追分節」への思いは
とどまるところがありません。夕風の吹く海辺で、漁夫の歌う「追
分節」を聴いて、啄木は深い愁いに沈んだ、というのですね。
啄木にとって初めての北海道への旅。函館へ着いた時、友人の前田
林外(のちに『日本民謡全集』を編んだ人です)に手紙を書いてい
て、「今日は又ヘーレン号に投じて、海路20時間、小樽に向はむ
とす。海は詩なり、秋は詩なり、旅は詩なり、旅する我も亦遂に詩
也」とあります。ほとんど有頂天で小樽に向っています。北海道で
実際に海辺で聴いた「忍路高島」への陶酔感も、「海は詩なり」の
気分のまま回想されていると、いえそうです。啄木20才前の「閑
天地」の世界です。若かった詩人啄木に強いインパクトを与えた明
治37年当時の、海の「忍路高島」の力が、ここからも伝わって来
ますね。
啄木よりさらに1年前、明治36年(1903)にやはり北海道で「
追分節」を聴いている作家がいます。有島武郎です。前々年(明治
34年)に札幌農学校を卒業して以来ちょうど2年ぶりの来道の折
です。父の農場の用務のため、羊蹄山麓の狩太(かりぶと)に向う
のですが、札幌から小樽までは鉄道で、そこからはまだ鉄道が開通
していませんので、馬車を傭(やと)って小沢までの山路を越えて
行くことになります。有島はこの時のことを日記に次のように記し
ています。
◆ ────────────────────────── ◆
例の稲穂峠に来る。(略)今日は日暮れんとして越ゆるなり。御者
を按じつつ悠然として松前追分を歌ふ。馬蹄漸くゆるく頽嵐身を襲
ふ。何とはなき快心の思尽し難し。
◆ ────────────────────────── ◆
原文はカタカナ混じりです。明治36年6月24日の日記の一節で
す。馬車を追う御者(ぎょしゃ)が「悠然として松前追分を歌ふ」
と記しています。「江差追分」がまだ「松前追分」と呼ばれていた
ことも分かります。啄木は海辺で聴いたのでしたが、有島は峠道で
「馬子唄」のようにして御者が歌っている「追分」に耳傾け、「何
とはなき快心の思尽し難し」と、すっかり充ち足りた気分に浸って
います。「閑天地」のような美辞は一つもありませんが、自分の日
記に記している分だけ、その印象が強かったことをうかがわせます
。さりげない御者の歌いぶりのなかに、「松前追分」の当時の生き
生きとした様子が感ぜられて、まことに興味深いものがあります。
有島25才のことです。
実は有島が「松前追分」のことを書いているのは、この時だけでは
ないのです。この3年後に、有島はヨーロッパに行くのですが、あ
る夜ドイツ人に招かれた折のことを、次のように日記に記していま
す。
◆ ────────────────────────── ◆
夜スタッツェンガー氏の晩餐に招かる。壬生馬「花咲かば」を謡ひ
我れ「忍路高島」を謡ふ。
◆ ────────────────────────── ◆
明治39年11月21日の日記です。「壬生馬」というのは弟の有
島生馬のことです。ドイツ人に招かれた宴で有島は「忍路高島」を
歌って聞かせた、というのです。異国の地で、日本の歌を歌う段に
なって、ふと思い出したのが、「君が代」でも「さくら」でもなく
、「松前追分」だった、というのが、実に興味深いところです。「
忍路高島」が有島にとって、他の何よりも「日本の歌」だったので
すね。稲穂峠で御者が歌っているのを聴いたときの「快心の思(お
もひ)」はやはり、その時だけの思いつきではなかったことが伝わ
って来ます。
後年、有島は「松前追分―北海道の民謡」という短いエッセイも書
いています。その一節も掲げておきます。
◆ ────────────────────────── ◆
一人で高島辺の海岸沿ひの絶壁を歩き廻った時などに、目の下遥か
な海の上を、漁船を操って行く船子が、思ふ存分声を張上げて、そ
れを歌ふのを聞いた時などは、其の辺の風物と一分の隙もなく調和
した悲壮な音律を、聴取し得たやうに思ひました。あの調子は、新
しい作曲家のモティーフとしても、十分役立つものではないかと思
ひます。
(大正11年1月『寸鉄』所載)
◆ ────────────────────────── ◆
ここでは本来の海の歌としての「松前追分」のことについて、触れ
ているのですが、北辺の風物と「調和した悲壮な音律」とあって、
それが「新しい作曲家のモティーフ」にも十分役立つものだと記さ
れているのが興味深いところです。ドイツで有島が歌ったのも、す
でに新しい作曲家のモチーフを「忍路高島」の旋律に感じていたか
らかも知れませんね。
今のように「江差追分全国大会」の舞台で競うような「名人」たち
が歌うずっと以前の、民情深くに息づいていた、素朴な「忍路高島
」に、詩人や作家たちを惹きつける強い力がすでにこもっていたこ
とが思われて、私もまた「快心の思(おもひ)尽し難し」というと
ころです。
──────────────────────────────
>>>>>>>> 前号配信数 / 247 <<<<<<<<<
──────────────────────────────
▼ ひ と こ と ▼
一つの民謡をめぐる文学者達の回想は、私たちを唄へと誘います。
森山氏が最初に引かれた歌詞は短いものですが、これに旋律が加わ
ると、聴く者に深い印象を与えることが、彼らの文章からよくわか
ります。
編集子も、今号を読ませて頂いて、白秋が小笠原の父島で月夜に聴
いたという、一節切の音にのせた「江差追分」のイメージが強く印
象に残りました。森山氏も書かれているように「椰子の花」と「北
の雪」の対照が、新鮮です。
そして、逆に、北海道で聴いた、三線の音にのせた沖縄の八重山民
謡のことを思い出しました。これを聴かせて下さった竹富島ご出身
の歌謡研究者は、そのとき、空気が乾いている北海道では三線の皮
がすぐに破れるのだと、悲しそうに言われていました。その方も、
今年の4月から、沖縄の大学で教えておられます。
さて、今年の配信予定はこれで最後となります。今年は、長期の休
止があったりして、読者の皆様にはご迷惑をお掛けいたしました。
来年も頑張って続けていきたいと思いますので、本マガジンをなに
とぞよろしくお願いいたします。
それでは、皆様、よいクリスマスを、そしてよいお年をお迎え下さ
い。(編)
──────────────────────────────
▼ ご 注 意 ▼
このメールマガジンは、歌謡研究会のメンバーが交替で執筆してい
ます。よって、できる限り学問的な厳密さを前提として記している
つもりですが、メールマガジンという媒体の性質上、かなり端折っ
て記さざるを得ません。ここでの記述に興味をお持ちになり、さら
に深く追求なさりたい場合は、その方面の学術書などに直接当たっ
ていただくようお願いいたします。
各号の執筆は、各担当者の責任においてなされます。よって、筆者
のオリジナルな考え記されていることもありますので、ここから
引用される場合はその旨お記しください。
また、内容についてのお問い合わせは、執筆担当のアドレスにお願
いいたします。アドレスが記されていない場合は、このマガジンに
返信すれば編集係にまず届き、次に執筆担当者に伝えられます。そ
れへの返答は逆の経路をたどりますので、ご返事するまでに若干時
間がかかります。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<■
□------◆ 電子メールマガジン:「歌謡(うた)つれづれ」
□----◆ まぐまぐID:0000054703
□--◆ 発行人:歌究会 (末次 智、編集係)
□◆ E-mail:suesato@mbox.kyoto-inet.or.jp
■ Home Page:http://web.kyoto-inet.or.jp/people/suesato/
□◆ 購読の停止、配信先の変更等は、上記Webにて可能です。
□--◆ また、歌謡会の例会の案内・これまでの内容、
□----◆ そして、会誌『 歌 謡 ― 研究と資料 ― 』
□------◆ の目次も、上記Webで見ることができます。
■<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<■
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
|