『歌謡(うた)つれづれ』057
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■■■■■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 2002.08.01 ■ ■■◇■ ◆■■ ---------- ■ 歌謡(うた)つれづれ ■◇ ■■ ■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 0057 ■ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ +++++ まぐまぐで読者登録された方へ送信しています。++++++ +++++ 等幅フォントによってレイアウトされています。++++++ ────────────────────────────── ────────────────────────────── ■□■ 「お里」のある歌 ■□■ ───────────────────────> 今号の担当 <   森山 弘毅   ─────────────── お里が知れる、という言葉がありますが、今回は「お里」があった のに知らずに歌っていた歌のことを紹介したいと思います。 これは私自身の年令(とし)もバレ、お里も知れるような話ですが ー私が小学校へ入学したのは昭和19年(1944)4月で(当時 は「国民学校」といっていました)、まだ太平洋戦争もさ中のこと でした。新1年生は登校する時は近所同士が集まって(班にでも組 織されていたのでしょうか)、きちんと並んで歌をうたいながら学 校まで歩いたものでした。その列の傍らには、いつも6年生のお兄 さん、お姉さんが引率するようについてくれていました。その時に 、小さな手を振りながら足も揃え心も一つになるような歌を歌った ものでしたが、その一節は次のような歌でした。 ◆ ────────────────────────── ◆   ケツゼンタッテイッサイノショウガイダンコハサイセヨ ◆ ────────────────────────── ◆ この一節以上に歌詞があったのかどうかは記憶にありません。こん な歌詞を入学時から歌っていたのか、しばらく経ってから歌ったも のか、あるいは6年生のリーダーに合わせて、新1年生たちはただ 手を振って歩いていただけなのか、その辺もはっきりしていないの ですが、その時分私が歌っていたことは確かであり、いまでもこの 歌詞の一節は鮮明で、節もはっきりと歌うことが出来ます。戦争も 終り、この歌は皆で歌うことは全くなくなりましたが、ふと何かの 折にこの歌詞と節が甦ることが、何度もありました。その歌詞の響 きから、ずい分勇ましい歌だったナ、と思う程度で終っていたので したが、ある時の新聞の署名記事のなかに、この歌詞の言葉を見つ けて、ほんとうに、びっくりしました。 太平洋戦争開戦50周年に関わる一文だったと思いますから199 1年12月の頃だったと思います。そのなかに、あの1941年1 2月8日の、米国・英国に対する宣戦の「詔書」の一節が引かれて いたのです。その一部を掲げます。 ◆ ────────────────────────── ◆   帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然(ケツゼン)起ッテ   一切ノ障礙(ショウガイ)ヲ破砕スルノ外ナキナリ ◆ ────────────────────────── ◆ 私が歌っていたのは、この詔書の一節だったのですね。そうだった のか!、とまさに目からうろこがバサリと落ちた思いでした。わず か6才か7才の子供たちが手を振りながら、歩調を揃え心も合わせ て歌っていた歌が天皇の宣戦布告の一節だったのでした。6年生た ちは、知っていたのかも知れませんが、入学したばかりの子供たち は、分かるはずもなくー、しかし、やがてその歌の本当の意味を知 ることになっていったのでしょうが。私は、その歌の意味を知る前 に、翌1945年、2年生の夏に敗戦を迎えたのでした。しかし、 いまも歌詞も節もはっきり記憶に残っているのですから、歌の力と いうものの強さ・深さを思わずにはいられません。片田舎の「国民 学校1年生」にまで浸透しつつあった軍国教育のささやかではない 威力というものも思われるところです。(読者のなかに、この歌詞 と節にご記憶のある方がおいでであれば、お知らせいただけると有 難いですね) 私の通った「国民学校」は、北海道美唄市(当時は「町」でしたが )にありました。美唄でも私鉄で10kほど奥へ入った山の上の、 炭鉱の聚落のなかにありました。三菱美唄の炭鉱住宅が1,000 軒以上、8軒長屋の棟で並んでいました。戦時中のエネルギー源を 石炭に求めた「増産」の国策によって、採炭夫の数はどんどん増え ていったのでした。 私はその炭鉱の「常盤小学校」に通っていたのでしたが、運動会に なるといつも元気よく、これも手を振りあげながら歌っていた応援 歌があって、それが次のような歌詞でした。 ◆ ────────────────────────── ◆   天は晴れたり気は澄みぬ   両者の旗風吹きなびく   常盤の台の旭日高く   ここに立ちたる赤(白)の陣   フレー赤(白) フレー赤(白)   フレ フレ フレー ◆ ────────────────────────── ◆ 私の記憶も少しおぼろげだったのですが、先頃4才上の姉の同期会 で、当時の先生を交え皆で思い出して歌ってみたといって、この歌 詞を知らせてくれました。私の記憶とほぼ一致していたのですが、 私は二節めが「ローシャの旗風」か「ローサの旗風」か意味がとれ ないでいたのでしたが、「両者の」だということで氷解したのでし た。意味も分からず、耳だけで記憶した歌の危うさですね。この応 援歌ももう55・6年も前の、彼方の記憶でしたが、ある時これも また、ええっ?!、そうだったのか! と、びっくり仰天したこと があったのです。『続日本歌謡集成 巻5 近代篇』(志田延義編 )を別の歌のことでページを繰っていたら、まったく不意に、次の 歌詞が目に飛びこんで来たのです。 ◆ ────────────────────────── ◆   天は晴れたり気は澄みぬ   自尊の旗風吹きなびく   城南健児の血は迸り   茲に立ちたる野球団    (「天は晴れたり」慶応義塾野球応援歌) ◆ ────────────────────────── ◆ 慶応義塾に関わる方々には先刻ご承知の応援歌なのでしょうが、こ の「続集成 5」の「校歌・寮歌選」のトップにこの歌がおかれて いて、次に「早稲田大学校歌」「北大寮歌」と並んでいたのです。 「都の西北」や「都ぞ弥生」はよく親しんでいましたが、この歌詞 には驚きました。第二節の初めと、第三節、それに第四節の「野球 団」のところは少しだけ替わっていますが、歌詞も構成も、わが「 常盤小学校応援歌」とピタリ重なります。これは、間違いなくわが 応援歌の元歌ですね。この常盤小学校は大正9年(1920)に創 立されたものでしたが、この応援歌が何時の頃から歌われていたも のか、はっきりとはしません。昭和10年代には歌われていたのは 確かです。校歌とは別に、応援歌は、しばしば誰かの音頭で自然発 生的に歌われはじめることがありますが、ひょっとして、この小学 校の草創期に、慶応義塾出身の先生か、父兄か、あるいは視学官が 居て、児童に歌わせたのかも知れません。応援歌の作成を依頼され た人がいて、ちゃっかり母校の歌を「借用」したのでしょうか。 この慶応義塾の歌詞については、同書に志田博士の注があり、「明 治39年、桜井弥一郎(理財科学生)作詞、『ワシントン』(作詞 者不明、北村季晴作曲)の替え唄」とあります。この歌にはきちん と作詞者がいるのですが、これもまた曲節には元歌があったのです ね。わが小学校の応援歌の曲節が「ワシントン」まで遡ることにな るのかどうか、それは知るよしもないのですが、かの慶応義塾の応 援歌が、流れ流れて、北海道の山奥の小学校で歌われていた、とい うのが、まことに興味深いところです。これも歌の力というもので すね。なお、わが母校「常盤小学校」は昭和48年(1973)、 炭鉱閉山とともに閉校になってしまいました。この応援歌もいまは 歌われることなく、児童生徒だった卒業生たちの記憶からも遠く薄 れていっています。これもまた歌謡の宿命ですね。 身近に親しんでいた歌の「お里」を語っているうちに、私自身のお 里が知れることになってしまいましたが、ことのついでに、もう一 つ我が「お里」に関わる「『お里』のある歌」を紹介します。私は 1960年から4年間、北海道立北見北斗高校に勤めていましたが 、、当時この高校は、ラグビーが強くて全国大会で準優勝を3度も 成し遂げるほどの学校でした。北海道もオホーツク海に近い、地方 の一高校でしたが、文武両道、大学への進学率も高い、自由の気風 がみなぎる学校でした。そこで歌われていた応援歌は3種類もあっ て、「その2」というのが次のような歌詞でした。 ◆ ────────────────────────── ◆   山も怒れば万丈の 煙を吐いて天を衝く   緩(ゆる)けき水も激(げき)しては             千丈の堤(つつみ)破るらん   見よ若人の意気高く 堂々鉾(ほこ)とる北斗軍 ◆ ────────────────────────── ◆ 古めかしい歌詞ですが、当時はラグビー部のように全国大会(ある いは全道大会)へ出場する選手の壮行会に、元気のよい応援団をリ ーダーにして、全生徒が歌っていたものです。私も二行めまでは何 とか、今も歌えます。これは歌の前半なのですが、この歌詞につい て当時の生徒の読書感想文のなかに、明治40年石川啄木が渋民小 学校でストライキを指示して、生徒に歌わせた歌を見つけて、次の ように書いて来たものがありました。 ◆ ────────────────────────── ◆ そのストライキの歌は我が北斗高の応援歌ナンバー2の歌詞とまさ しく同じである。あの「山も怒れば万丈の煙を吐いて天を……」の 歌である。きっと旋律も同じであると思う。しかし奇妙に感じる。 啄木が情熱をこめて子供らに歌わせた歌を今こうして我校の応援歌 として我々に愛好されているとは……。     (「『大逆事件』と啄木の思想」2年 山崎征子 『本棚』20号〈1962〉 北見北斗高校図書館) ◆ ────────────────────────── ◆ これは図書館発行の定期の感想文集『本棚』にも載せられた優秀な ものでした。自分の歌っている応援歌が啄木のつくったストライキ の歌と同じ歌だ、と発見して、この生徒は「奇妙な」感慨にうたれ ているのです。この生徒のテーマは「大逆事件」と啄木の思想との 関わりにありましたから、これ以上この歌については深入りはして いません。「歌謡」に関わっているものからすれば、「『お里』の ある歌」のなかでも驚くような「大発見」といってもいいものです ね。 この歌は啄木の全集には収められていません。ただ、啄木年譜には ひとしく「明治40年(1907)4月19日」の項に「高等科の 生徒を引率、村の南端平田野に赴き、校長排斥のストライキを指示 、即興の革命歌を高唱して帰校、万歳三唱して散会」(人物叢書『 石川啄木』岩城之徳)という内容が書かれています。その「即興の 革命歌」が全集には出ていないのです。当時ストライキに参加した 教え子の記憶を聞き書きした本が昭和31年(1956)にあい次 いで出ました。いまはその詳しい事情は省きますが、その歌詞は次 のようなものです。 ◆ ────────────────────────── ◆   山も怒れば万丈の 猛火をはいて天をつき   緩けき水も激しては 千里の堤やぶるらん   わが渋民の健児らが おさえおさえし雄心の   ここに激しておさまらず   正義の旗をふりかざし 進むはいずこ学校の     宿直べやの破れ窓     破れてかざす三尺の     凱歌をあぐる時は今 ◆ ────────────────────────── ◆ これが「革命歌」といえるかどうか分かりませんが、ほんとうに勇 ましい歌です。「即興」ということにも驚かされます。一目瞭然、 二行めまでは、北見北斗高校応援歌とほとんど同じです。北斗高応 援歌は「煙を吐いて」ですが、こちらは「猛火をはいて」。激しい ですね。こちらが「千里の堤」とあるところは北斗高は「千丈の堤 」。これは前の「万丈」に引かれたものですね。そうした微妙な変 化がまた北海道で歌われていることの味わい深さでもあるのですね 。「見よ若人の意気高く……」の北斗高の三行めにも啄木歌の心は 生かされています。これが最初に世に紹介されたのは上田庄三郎『 青年教師 石川啄木』(三一新書・昭和31年9月)、ついで斎藤 三郎『啄木文学散歩』(角川新書・昭和31年11月)の書でした 。先の生徒感想文は、啄木作品だけではなく、このどちらかの本に も触れてのものだったにちがいありません。当時の生徒の意欲的な 読書への姿勢が思われますね。 それにしても、まさに「奇妙」なことです。不思議というほかあり ません。上の両書に紹介されるのは昭和31年(1956)ですか ら、それ以前から北見北斗高では「応援歌ナンバー2」として歌わ れているのです。何時の頃まで遡れるのか、それは定かではないの ですが、少し古い卒業生にたずねたら、分かってくるかも知れませ ん。北見北斗高に電話で聞いてみると、いまは応援歌の「ナンバー 1」は歌っているが、この「ナンバー2」の方は歌っていない、と いいます。いまは運動部が奮わず、壮行することもあまりないのだ 、ともいっていました。寂しい限りです。録音テープだけが残って 、歌はここでも静かに消えてしまうのでしょうか。 啄木作詞の即興のストライキ歌が、どういう経路で、北海道のオホ ーツク海にも近い北見北斗高(旧制野付牛中学)までたどり着いた のでしょうか。曲節もふくめて、歌謡伝承の伏流ということがあら ためて思われます。この歌詞は限られた人しか知らないはずですか ら、ストライキ参加の教え子が、どこかで関わっていることは確か なのでしょうが、「お里」が知れて、いっそう謎は深まるばかりで す。北斗高の生徒たちにとっては、啄木作詞の歌が我が校の応援歌 、という厳然たる事実をもっともっと誇りにしていいですね。歌い 続けてほしいものです。 皆さんの周辺にも「詠み人知らず」の歌謡で、思いがけない「お里 」をもっている歌がいくつもあるのかも知れません。歌の力、歌謡 伝承の深さが思われるところです。 【参考文献】  啄木のストライキの歌が収められている文中の書以外の文献    伊ヶ崎曉生『文学でつづる教育史』(1974年・民衆社)    尾崎元昭『石川啄木研究』(1990年・近代文芸社) ────────────────────────────── >>>>>>>> 前号配信数 / 250 <<<<<<<<< ────────────────────────────── ▼ ひ と こ と ▼ 九州の田舎を「お里」とする編集子は、最近の「里山ブーム」に乗 っかって、里山の写真集を開いたりしています。それは、まさに心 のふるさとしての、あくまでも優しい風景なのです。 でも、今回森山氏が取り上げる「お里」は、その風景の背後にある 、人々の関係が織りなす風景でした。歌謡は、そういった人々の関 係をうたっているようです。 そのような「お里」に生まれ、「お里」を巡る歌謡を、森山氏ご自 身との関わりで説いた、ずっしりとした内容の、今回のマガジンで す。石川啄木も、もちろん「お里」との関係に苦しんだ作家でした。 ここ数年、福岡の片田舎に帰省するたびに、編集子も「お里」との 関係をつくづく考えるようになりました。今年の「お里」どのよう な風景を見せてくれるのでしょうか。(編) ────────────────────────────── ▼ ご 注 意 ▼ このメールマガジンは、歌謡研究会のメンバーが交替で執筆してい ます。よって、できる限り学問的な厳密さを前提として記している つもりですが、メールマガジンという媒体の性質上、かなり端折っ て記さざるを得ません。ここでの記述に興味をお持ちになり、さら に深く追求なさりたい場合は、その方面の学術書などに直接当たっ ていただくようお願いいたします。 各号の執筆は、各担当者の責任においてなされます。よって、筆者 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