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■ 歌謡(うた)つれづれ−017 2001/05/03
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□□■ 金素雲『朝鮮民謡選』と日本の歌謡(2) ■□□
森山弘毅
前回(2月22日)にひき続いて、金素雲訳の『朝鮮民謡選』(岩
波文庫・昭和8年〈1933〉)についてです。
金素雲は自分の翻訳の歌に「意訳謡」という言葉を用いていますが
、これは、逐語訳をするのではなくて、朝鮮民謡の心を、日本の歌
謡の調べに移そう、という思いが、はじめからあったからなのです
ね。実に、自然に、日本の古典歌謡の発想で訳出し、あるいは、『
閑吟集』など中世歌謡以来の古語の口吻をさりげなく生かして訳し
ていることを、前回はその一端を少しだけ眺めてみたのでした。今
回も、もう少し味わってみます。
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梨の花さね
梨の花さね
総角(わかいしゅ)の頭巾(ずきん)は
梨の花さね
梨の花のよな
頭巾の下に
鏡のような
あの目を見さい
(梨の花〈慶尚南道〉・意訳謡1)
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〈慶尚南道〉というのは、訳詞の末尾に添えられた民謡採集地です
。(前回引用の「梨」も〈慶尚南道〉の採集でした。前回、うっか
り採集地を添えないままで、ご免なさい)この「梨の花」の歌、若
者の頭巾が梨の花の比喩で歌われている、というところが、私たち
には新鮮ですね。
この歌に並んで「白い頭巾で/隠した顔を/梨の花かと/見違うた
」(頭巾)ともあるので、朝鮮民謡では「頭巾―梨の花」はよく歌
われる「見立て」の型なのかも知れません。日本風にいえば、「楚
々」として、上品な冠りもの、なのでしょうか。歌は、その頭巾の
下の「鏡のような/あの目を見さい」と歌っています。若者の「鏡
のような」澄んだ目に注がれるのは、もちろん娘たちの熱い視線で
す。「梨の花さね」が三度も繰り返されるのは、何人かの娘たちが
口ぐちに囁く声のようにも聞こえます。
歌の終りに「あの澄んだ瞳をご覧よ」と娘たちが言い交わす「あの
目を見さい」という詞句にも、私たちの日常語にはない、古典歌謡
の余響が感じられますね。
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○ 余り言葉のかけたさに
あれ見さいなう 空行く雲のはやさよ(閑吟集235)
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閑吟集のなかでもよく知られた、ほほえましい歌です。話しかける
きっかけに、男が傍らを歩く女に「あれ見さいなう」と視線を「空
行く雲のはやさ」に誘っています。天候や空の様子を会話のきっか
けにするのは、いつの時代も変らないようです。そのきっかけの「
あれ見さいなう」の「見さい」は、狂言歌謡でも、「あの山見さい
この山見さい」(和泉流「素襖落」)と歌い出されます。親しい
敬意がこめられた命令形で、やはり中世歌謡以来の語法です。金素
雲は「梨の花」の訳でも日本古典歌謡の「語韻」を伝えているとい
えそうですね。ここでは、頭巾を梨の花の比喩で歌う民族的な発想
のなかで、なお日本の中世歌謡の語法の余響を伝えている、という
のが味わい深いところです。
視線を彼方に向けて誘う語に、もう一つ「見やれ」というのがあり
ます。この語が用いられている歌を次に掲げます。
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○見やれ
向うカルミ峰(ホング)に
雨雲が
湧いたぞい
蓑を腰に
まわして
田の草を
取るかの
(蓑〈慶尚南道〉・意訳謡1)
○ 麻の上衣(チョグリ)の
中襟(なかえり)あたり
硯滴(みずさし)のよな
あの乳房
莨種(たばこだね)ほど
ちらりと見やれ
たんと見たらば
身が持てぬ
(乳房〈慶尚南道〉・意訳謡1)
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「乳房」の歌の「硯滴(みずさし)」というのは、硯に注ぐ水差し
のことですが、文庫の原文に注があり、挿画もあって「桃の実」の
形の硯滴が示されています。「乳房」の比喩が桃の形の「硯滴」と
いうのもお国柄ですね。いまは、そこへは深入りせずに、「見やれ
」に絞ります。
「蓑」の歌では「見やれ/向うカルミ峰に」と、視線ははるか彼方
に向いており、「乳房」の歌では「莨種(たばこだね)ほど/ちら
りと見やれ」と、視線はちょっと移す程度の近い所へ向いています
。遠近の位置はともあれ、どちらも、そばにいる人に「見やれ」と
いって、視線をある一点に誘いかけることには、変りません。この
「見やれ」も私たちは普段、口語で使うことはありませんね。
「見やる」の語は万葉集以来の古いものですが、金素雲が親しんだ
と思われる『閑吟集』など中世歌謡には用いられていないようです
。近世の中頃の諸国盆踊歌集『山家鳥虫歌』(明和九年〈1772
〉)という歌謡集には、次のような歌が見られます。
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○人を使はば川の瀬を見やれ
浅い瀬にこそ藻がとまる
(111摂津)『山家鳥虫歌』
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ここの「見やれ」は、はるか遠くを望み見るというのではなくて、
視線の先をよくご覧よ、という程度ですが、この『山家鳥虫歌』に
は、ほかにも「水鏡見やれ」(143)とか、さらに「甲斐性(かひ
しゃう)見やれ」(219)など「こころ」の中までも「見やれ」と
いう語で歌われています。
この歌謡集には、当時の口語口調で「置きやれ」(106)「行き
やれ」(140)など軽い敬意をこめて相手を誘う語法がよく用い
られていますから、この「見やれ」もそれに同化した用法とも見え
るほどですが、金素雲は、この「見やれ」を用いながら、もう一度
、日本語の原義に立ちかえって、視線をはるか遠くへ差し向けた、
といってもよいかも知れません。
金素雲は、きっと『山家鳥虫歌』にも目配りをきかせていたのでし
ょうね。次の歌をみてみましょう。
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○手ぬぐい 手ぬぐい
半幅(はんはば)手ぬぐい
さまにもろうた
半幅じゃないか
もろた手ぬぐい
すれ切るごろは
さまのなさけも
薄れよに
(手拭(てぬぐい)〈慶尚南道〉・意訳謡1)
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「手ぬぐい」の贈物が男女の仲をいっそう深めるという歌謡は、日
本にも多いのですが、ここは男からの贈物で、「さまにもろうた/
半幅じゃないか」と娘ごころが歌われています。この「さまにもろ
うた」のフレーズが『山家鳥虫歌』にも次のように歌われています
。
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○様(さま)に貰(もろ)うた根付(ねつけ)の鏡
見れば恋増す 思ひ増す
(91和泉)『山家鳥虫歌』
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「根付(ねつけ)」は、紐の端につける留め具ですね。小さなサン
ゴやメノウや象牙の材に細かい彫刻を施した飾り留め具です。贈物
としては心がこもっています。その根付がついた鏡を「様に貰うた
」と歌っています。「君がくれたる」とか「君に貰ひし」とかの表
現で、男からプレゼントしてもらって心を浮き浮きさせる句は、日
本の歌謡の類型でもあるのですが、「さまにもろうた」というフレ
ーズで金素雲が日本語に移したときには、この「様に貰うた根付の
鏡」の口調がふと映った、といえるかも知れません。そうであれば
、やはり金素雲のバックグランドには『山家鳥虫歌』が確かにあっ
たのだ、といえそうな気もしてきますね。
『朝鮮民謡選』には、みごとに日本の伝承歌謡の調べが映り合って
いますが、そこには金素雲自身の日本の古典歌謡―閑吟集や狂言歌
謡、山家鳥虫歌などーへ深い親しみが、実に自然に融け合って生か
されていることが、あらためて感じられますね。最後にもう一つ「
見やれ」の歌を紹介します。
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○見やれ あの雲
仙人(せんにん)乗せて
きょうも
天子の峰めぐる
わしも往(ゆ)きたや
あの雲乗って
仙人たちの
酒宴(さかもり)に
(雲〈慶尚南道〉・意訳謡1)
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「見やれ あの雲」と、はるか、慶尚南道の昌原郡に在るという天
子峰(本文に原注があります)をめぐる雲を歌います。その視線の
彼方には「仙人たちの酒宴」を夢見てもいます。金素雲はこの『朝
鮮民謡選』の末尾に添えた「朝鮮口伝民謡論」の一番最後に、この
歌を引いたあと、次のように記して、この書を閉じています。少し
ながいですが、引いてみます。
朝鮮民謡の天来の諧音(ハーモニー)は、この幻想に、蒼空(あお
ぞら)に、ほほえみ見交わす瞳の底にある。「笑って済ませ」とは
朝鮮人が箴言(しんげん)と心得ている二た口目の言い草であるが
、これは強(あなが)ちに無気力な仏教流の諦観からではない。悲
しみを悲しみとし切れず、憎しみを憎しみとなし切れぬこの民族性
の上に、双手をのべて迎うべき晴やかな朝の空がなくてはならない
。その夜明けこそ、民族性の奥底に潜むこの「笑い」が新たな衣を
着けて蘇(よみがえ)るときである。
この『朝鮮民謡選』を編んだのは昭和8年〈1933〉のこと、こ
の時代の背景を背負いながら金素雲は「悲しみを悲しみとし切れず
、憎しみを憎しみとなし切れぬこの民族」の思いを、心を抑えつつ
記しています。〈慶尚南道〉は、金素雲の故郷。「見やれ あの雲
」と訳した瞬間に、故郷の空と雲が彼の心に蘇ったのでしょうか。
日本に在って、民族の歌を日本語にみごとに移しながらも、いや、
みごとであるほどに、喪われた祖国の空に向かっての「双手をのべ
て迎うべき晴やかな朝の空がなくてはならない。」という思いは深
かった、といえるかも知れません。「見やれ」の語法は日本の古典
歌謡を承けながら、彼方へのはるかな視線を再びとり戻し、故郷〈
慶尚南道〉へも思いを馳せることにもなった、ともいえるでしょう
か。では、次回の担当の折も『朝鮮民謡選』で……。
【参考文献】
□『閑吟集』(岩波文庫・浅野建二校注)
□『閑吟集』(岩波文庫旧版・藤田徳太郎校注)
□『梁塵秘抄 閑吟集 狂言歌謡』(新日本古典文学大系)
□『山家鳥虫歌』(岩波文庫・浅野建二校注)
□『田植草紙 山家鳥虫歌 鄙廼一曲 琉歌百控』(新日本古典文
学大系)
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▼ ひ と こ と ▼[前号配信数/192]
歌謡、民謡は、複数の人々のこころを旋律にのせた言葉で表現しま
すが、一人一人は個人の思いをそれに重ねるように読み取ります。
今号の最後に引かれた金素雲の言葉には、たいへん難しい時代を生
きる民族と金個人、両者の思いが重なっているように思われます。
歌謡研究会のHPのURLが長くて、打ち込むのにお手数をお掛けしたと
思いますが、フッタに記しますように、すこし短くなりました。
(編)
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▼ ご 注 意 ▼
このメールマガジンは、歌謡研究会のメンバーが交替で執筆してい
ます。よって、できる限り学問的な厳密さを前提として記している
つもりですが、メールマガジンという媒体の性質上、かなり端折っ
て記さざるを得ません。ここでの記述に興味をお持ちになり、さら
に深く追求なさりたい場合は、その方面の学術書などに直接当たっ
ていただくようお願いいたします。
各号の執筆は、各担当者の責任においてなされます。よって、筆者
のオリジナルな考えが記されていることもありますので、ここから
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